第35話 いつの間にか、最愛の人に

「フィリアの綺麗な瞳には、僕だけが映っていたい」

「今映っていますよ、ほらよく見てください」

 なんの気無しにずいっと顔を近付けたら、思った以上に距離が近くて驚いた。少し唇を尖らせたら、くっ付いてしまいそうなほどに。

「ごごご、ごめんなさい」

 色っぽい意味だと今さら理解した私は、急に恥ずかしくなってぱっと顔を逸らす。すると旦那様の指が私の顎を優しく掴んで、それを許してくれない。長くて意外とごつごつして固い、私の好きな彼の指が。

「あ、あのちょっと距離が……っ!」

「瞳の中を見せてくれるんだろう?」

「こ、こんなに近いと逆にぼやけません?」

「大丈夫、この方が良い」

 顔を赤らめているくせして、甘ったるい雰囲気で私をふにゃふにゃにする恐ろしい人。旦那様の素顔を知ったら、老若男女問わずあっという間に虜になってしまう。

「君以外には、本当の僕は見せたくない」

「つ、遂に読唇術まで会得したのですね!」

「顔と声に出ているよ」

 ふふっと微笑みながら、焦れたような指先がつつ……と頬を伝う。金縛りにでもあったかのように、自分の意思では足先さえ動かせない。

「攻めるのは好きなくせに、攻められるのは弱いな」

「そ、それはお互い様かと!」

「ははっ、確かにそうだ」

 最初のうちはこの色香に耐えられず、何度突き飛ばして逃げたか分からない。そうすると旦那様は「僕が悪かった」と言いながら哀しげに瞳を揺らすので、私は自分の腹部に拳をお見舞いしてでも羞恥に耐えようと、必死に修行を繰り返してきたのだ。

 その甲斐あってかなんとかその場に踏みとどまるまでには成長したけれど、旦那様の色気だだ漏れのいやらしい雰囲気にはきっと一生どきどきしっぱなしだと思う。

「もう一度、名前を呼んでくれないか」

「……もちろんです、オズベルト様」

「ありがとう、フィリア」

 どんなに恥ずかしくても、目を逸らしたくない。旦那様が伝えてくれた言葉通り、私だってこの綺麗な紫黒の瞳を独り占めにしたい。

 たくさんの人が生きるこの世界において、たった一人の誰かを好きになり、愛して、生涯を捧げたいと誓う。自分がそんな相手を見つけられる未来を考えてもいなかったし、望んでもいなかった。

 私達は今、初恋に向かって歩いている。一歩一歩、少しずつ、周りに置いていかれても気にしないで。ぐにゃぐにゃと曲がりくねった道の先に佇んでいるのは、旦那様以外にはあり得ない。

 夫婦になった後に初恋を始めようなんて私らしいと、マリッサはほんの少しだけ嬉しそうに笑っていたっけ。

「……ごめんなさい、小腹が空いて」

 私の食欲はロマンチックな空気をものともせず、可愛らしい音を立てて空腹であることを主張する。

「お茶にしようか。ちょうど昨日、質の良いセイロン紅茶を手に入れたんだ」

 くすくすとおかしそうに笑いながら、私の頬に添えていた手を腰元に下ろして、優しく誘導してくれる。

「わぁ、嬉しい!ちょうど今がセイロンのクオリティシーズンですものね!」

「フィリアは詳しいんだな」

「飲食のことならお任せください!といっても、基本的には摂取専門ですけれど」

 ムードぶち壊しの表現と、すでに紅茶に支配された意識。さっきの甘い空気は何処へやら、スキップしそうな勢いで私は屋敷へと歩みを進める。

 てっきり旦那様もそうだと思っていたのに、不意に耳元に唇を寄せられてびくりと肩が跳ねた。

「今夜、伝えたいことがあるんだ。あの廊・下・を使っても、構わないだろうか」

 最後の最後にカウンター攻撃を食らった私は、目眩を起こしそうになる。私達の部屋は同階で、少し距離がある。そして、変な隠し廊下によって繋がっているのだ。

 旦那様曰く、彼のお祖父様のちょっとした悪戯心から作られた産物らしい。

 初めて見た当初は「面白いことを考える人だ」くらいにしか思っていなかったけれど、まさか自分自身がそこを使う日が来ようとは。

「……大人しく、お待ちしております」

 熟れすぎて落っこちてしまいそうなプラムのようになりながらも、こくりと頷いてそう呟いた。

 私達は夫婦でありながら、半年以上経った今も友達以上恋人未満のような関係のまま。私は恋愛に興味がなくて、旦那様は女性嫌い。相手の気持ちを無視はしたくないと、お互いなかなか伝えられなかった。

 彼からの愛情はひしひしと感じていたけれど、私の思いを汲んでか直接的な表現やスキンシップはない。頭を撫でられたり、ほんの少し手に触れられたりすると充足感に包まれる。そしてそれと同時に「もっとしてほしい」という欲張りな願望がむくむくと芽生えていた。

「……今日こそ、旦那様にちゃんと思いを伝えなきゃ」

 並んで歩く旦那様の横顔をちらりと見上げながら、誰にも気付かれないような声でぽつりと本音を落としたのだった。

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