第36話 不思議な不思議な秘密の廊下
いつもより念入りにかつ可愛らしく寝支度をしてほしいと、恥を忍んでマリッサに頼んだ。彼女が至極真面目な顔で「ひゅーひゅー」なんて変な擬音で茶化してくるものだから、私はむくれながら「もう裸でいい」と意地を張った。
なんかやんで、マリッサの手にかかれば髪はつやつや肌はぴかぴか、体中上品な香りの香に焚きしめられて、鏡に映る私はちゃんと女性に見えた。
この半年、私と旦那様はたくさん言葉を交わした。好きなもの嫌いなもの、クセやこだわり、服や足のサイズに、昨晩見た夢の話。互いを知って、相手に知ってもらって、良い面も悪い面も共有しようと努力した。
こうして旦那様と関わる毎日の中で気付いたのは、私は今まで色んな意味で自分中心だったのだということ。一度きりの人生を楽しく豊かに生きていたけれど、その世界の登場人物は私一人。他人を虐げたり貶めたりするほど誰かに興味もなくて、逆に幸せにしてあげたいと思うくらいの愛情もなかったかもしれない。家族もマリッサも大好き、けれどその感情とは違う種類の、もっと大きくてぐちゃぐちゃした何か。
そういう気持ちを知った私がこれからどんな風になるのか、自分自身にもよく分からないから少し不安で怖くもある。異性を愛するという気持ちはきっと千差万別で、綺麗できらきらした面だけじゃない。
現に今だって彼を凄く信用しているのに、私の行動や言動で幻滅されたらどうしようと、そわそわして落ち着かないのだから。
「フィリア様は、世界で一番魅力的な方です」
「マリッサ……?」
「私は、貴女にお仕えできて毎日が楽しくて仕方ありませんよ。フィリア様がお生まれになった十九年前から、ずっと」
私の心情を察したのか、普段は辛辣な冗談ばかりの彼女から聞く初めての言葉。それが慰めでもなんでもなく本心だと思えるのは、マリッサを心から信用しているからだ。
「フィリア様なら、絶対に上手くいきます」
後ろからぎゅっと抱き締められた私は、ふと幼い日の出来事を思い出した。彼女から『お嬢様』と呼ばれ、拗ねてクローゼットに立て篭もったことがあったな、と。それ以来マリッサは絶対に、私をお嬢様とは呼ばない。そのことで誰かに責められても、知らぬ存ぜぬで澄ました顔をするだけ。
――マリッサは私の家族なんだから、ちゃんと名前で呼んでくれなきゃ嫌よ!
今思えば、彼女の立場を無視した幼稚な我儘だったと思う。けれど、子どもの言うことだからと馬鹿にせず、私の願いを聞き入れくれたマリッサの気持ちが、私は本当に嬉しかったのだ。
「ありがとう、マリッサ。貴女からもらう言葉はいつも私に元気をくれるわ。悩んでいる暇があるなら、私らしくやるしかないってね!」
「そうです、その意気です。それでこそフィリア様」
撫で撫でとぽんぽんの中間のように私の頭をわしわしと触って、彼女は体を離す。ふわりと微笑むその顔を見ると、本当になんでも上手くいくような気がした。
その後一人きりになった部屋で、私はひたすら扉の前をうろうろと往復している。扉というのはもちろん、あのおもしろ廊下に続く方を指している。
頬を染めながらベッドに座ってしなだれているのも恥ずかしいし、かといってお茶とお菓子を貪り食べるのも違う気がする。今まで誰にどう見られるかなんて気にしたことがなかったけれど、旦那様には少しでもよく思われたい。
その方法が思い浮かばなくて、瞳孔を開いたままひたすらに扉を見つめている今の私は、きっと正解とはほど遠い状態だろう。
「ああ、落ち着かない。叫んだら警備隊が飛んできそうだし……」
やっぱり、ただ大人しく待っているだけなんて性に合わない。覚悟を決めた私は、初めて旦那様の部屋へと続く扉にそっと手を掛けた。
季節は冬だというのに、やけにむわっとした空気が流れ込んでくる。この廊下の向こう側には、旦那様の部屋がある。まさか自分がここを通る日が来ようとは、屋敷を訪れた初日には想像もしていなかった。
「それにしても、つくづくおもしろい発想よね。扉一枚じゃなくて、廊下で繋げようだなんて。旦那様のお祖父様以外には絶対に出来ないわ」
夫婦の部屋が隣接している屋敷は珍しくないけれど、これだけの距離を内廊下にするのはきっと大変だっただろう。試しに一歩足を踏み出してみると、えもいわれぬ感情が私に襲いかかってきた。
一筋の光すら差し込まない暗闇を、一歩ずつゆっくりと進んでいく。無意識のうちに歩くリズムがだんだんと早まり、目が慣れるよりも先にほとんど小走りのように駆けていた。部屋からランプを持ってくるという発想はなんてなくて、頭の中は彼のことしか考えられない。
恥ずかしいのに、会いたいと思う。はしたないと分かっていても、足が勝手に前に出る。旦那様が今、私のことで頭をいっぱいにしているかもしれないと考えただけで、胸が詰まって上手く息が出来ない。
――少しでも早く、オズベルト様の顔が見たい。
不意にふわりと甘い香りが鼻をくすぐったと思ったその瞬間、どん!と軽く体がぶつかる。このがちがちの胸筋には覚えがあって、自分が誰と鉢合わせたのかすぐに分かった。というか、ここを通れるのは私を含めてたった二人だけ。
「フィ、フィリア!大丈夫か!?」
旦那様は上擦った声を上げながらも、その逞しい両腕でしっかりと私を受け止める。気付けば暗闇に目が慣れて、ぼんやりとしたシルエットがこちらを見下ろしているのが分かった。
「だ、旦那様……。すみません、勢いよくぶつかってしまって。お怪我はありませんか?」
無我夢中で気付かなかった自分が恥ずかしくて、思わず一歩後退りをする。彼は首を左右に振りながら、私の腰元を優しい手付きで支えてくれた。
「君がいるかもしれないと思ったから、慎重に歩いていたんだ。そこまで激しくはなかったと思うが、君こそ平気か?」
「あれ、そういえば……」
私はほとんど走っていたのに、さして衝撃を感じなかった。ぶつかったというより受け止められたといった方が正しいような気がするし、私がここにいることにも大して驚いていない雰囲気を感じる。
「……香りがしたんだ」
腰元に添えられた彼の指先が、恥ずかしそうにぴくりと反応を示す。
「僕が君からずっと感じていた、甘い香りがしたから。その後足音に気付いて、声を掛けようか迷っていたところにちょうど君が飛び込んできた」
「そ、そうだったんですね……」
足音に注視している余裕なんてなかったから、私はちっとも分からなかった。なんだか自分だけ余裕がないみたいで、さらに気恥ずかしい。
「ランプを持ってくればよかったです」
「ああ、僕もそう思う」
そういえば、私と同じように旦那様も手ぶらだ。
「……そこまでの余裕がなかったんだ」
再び彼の声が上擦って、あまりの可愛らしさに私の胸がきゅんきゅんと音を立てる。
「だが、フィリアの香りだけはすぐに感じられた」
「わ、私臭いですか?」
「まさか、そんなことあるはずがない」
くいっと遠慮がちに腰を引かれ、ただでさえ視界が悪い中で彼と触れ合っている部分に意識が集中してしまう。
「君の方こそ、僕が気持ち悪くはないか?」
「まさか!そんなことあるはずありません!」
二人で同じような台詞を連発して、お互いにふふっと噴き出した。
「先ほど顔を合わせたばかりなのに、もう会いたくてたまらなかった」
「わ、私も……です」
ランプを忘れてよかったと、心底安堵する。今の私はきっと、全身真っ赤に染まっているはずだから。いくら恋愛のあれこれに疎くても、夫婦がどんな風に愛を伝え合うのか、知識としては心得ている。
それを自分に置き換えて想像することはとても無理だけど、相手の顔だけは鮮明に浮かんだ。
「部屋を訪ねようとしてくれたのか?」
「居ても立っても居られなくて」
「ははっ、僕と同じだ」
耳に心地良い笑い声と一緒に、私の左手が優しい温もりに包まれる。
「一緒に行こう、フィリア」
「……はい、オズベルト様」
並んで歩くには少し狭い廊下を、私達はぴたりと身を寄せ合いながら彼の部屋に向かって歩みを進めたのだった。
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