第31話 少しずつ近付いていく距離

 初めて入る旦那様の部屋は意外とごちゃごちゃしていて、心地良い香りに包まれていた。それはジャラライラの花香というよりも、彼自身が醸し出す香り。不思議と気分が落ち着いて、そうしたらひっくと一度だけしゃっくりが出た。

「今茶を淹れる」

「そんな!どうかお気を遣わず!」

 辺境伯令息手ずからお茶を淹れてもらうなんて恐れ多過ぎて、今以上に唇が腫れてしまう。というより、部屋に茶器が置いてあるということは、普段から自分でお茶の用意をしているのだろうか。もしそうなら、私よりずっと淑女のお茶会に向いている。

 彼は諦めたのか手を止めると、拳三個分の間隔を開けて私の隣に腰掛けた。

「あ、あの。花の香りのことは、本当にショックだっと思います。ですが先ほども申し上げた通り、大旦那様方に悪気は」

「その件については、もう気にしていない。だから君は何も心配しなくていい」

「あ……、そうなのですね……」

 穏やかな表情を見ていると、なんだか肩の力が抜けてくる。そもそも私はどうして泣いていたんだっけ?と、そんな風にすら思ってしまうくらい、落ち着いた雰囲気が流れていた。

「フィリア」

「は、はい」

「すまなかった」

 旦那様はそう口にすると、深々と頭を垂れる。驚いた私は、慌てて「止めてください!」と首を左右に振った。

「明るくて優しい君を、僕のせいで泣かせてしまった」

「そ、そんな!旦那様のせいなんかじゃ」

「君をよく知ろうともせず、僕の勝手な都合で一方的な契約を押し付けたくせに、今度は距離を縮めようとした。何もかも、順序が間違っていたんだ」

 哀しげな横顔を見ていると、胸が苦しくなる。いつも気丈にぴしりと伸びた背中が、今は自信なさげに丸まっていて、それが旦那様に全然似合っていない。さらりと落ちた前髪が、彼の目元を覆い隠した。

「旦那様には事情がありましたし、受け入れると決めたのは私自身です。謝ってもらうことなんてありません」

「フィリアは優し過ぎる」

「自分で言うのもなんですが、ただお気楽なだけかと」

 彼はふっと小さく笑って、ほんの少し私の方へ寄った。私達の距離は、今拳ふたつ分。

「本心を打ち明けると、花の話が嘘だと分かってほっとしているんだ」

「そうなのですか?」

「君に対して感じる気持ちはジャラライラのせいだと、ずっとそう言い訳していた。けれどいつの間にか、それが枷となって僕を苦しめた」

 広い部屋に旦那様の静かな声色が流れ、旋律のような規則正しい時計の針が、かちこちと時を刻む。初めて訪れたこの部屋は、私を緊張させるのと同じくらい落ち着かせてくれる。


「僕も、誰かを好きになったことなどない。同性との間に友情は感じても、愛情とは無縁の人生だと思っていた。だからフィリアを見ていると湧き上がるこの感情に、はっきりと名前をつける自信がなかった。誘花に惑わされているわけではないと確信を持てないことが、日に日に悔しく思えて、もしも他の誰かも僕と同じ目で君を見つめていたらと、自分勝手な独占欲ばかり膨らんでいった」

「旦那様……」

 初めて彼の口から、感情論のような話を聞いた気がする。理性的で落ち着きがあって、意外と話し上手の聞き上手で。ブルーメルでの生活が楽しくてたまらないのは、毎日少しずつ旦那様と過ごす時間が増えていったことも大きかった。

 それと同時に罪悪感も積み重なっていって、私らしからぬネガティブな思考が心にモヤをかけていく。美味しい食事も、なかなか喉を通らなかった。

 いや、やっぱりそれは言い過ぎた。ご飯は変わらず美味しくてもりもり食べていた。

「すべてを花のせいにして逃げていたツケを、払わされているような気がしたよ。君を甘やかしたくて仕方がないのに、自分で撒いた罠に自ら嵌ってもがくなんて」

「あ、甘やかしたいって……」

 さっきまでぼろぼろ泣いていたのに、今は顔が熱くて仕方ない。鉄板の上に水滴を落としても、それはたちまち消えてなくなる。今の私は、つまりそんな感じ。

 旦那様はもう少しだけ、私の側に寄る。私達の距離はとうとう拳ひとつ分になってしまった。

 彼が紡ぐ言葉の一文字ひともじが、心にゆっくりと浸透していくのが分かる。恥ずかしくてたまらないけれど、隣に座る旦那様も私以上に頬を赤色に染めているせいで、誠実な台詞が余計に真実味を帯びていて、茶化したり誤魔化したり出来ない。

 今話してくれていることは全部本心なのだと、とっくに許容量を超えた脳みそでそんなことを考えた。

「今ここで、はっきり君を好きだと口に出来ない。初めての経験で自分自身も戸惑っているのに、裏付けの取れていない感情をフィリアに押し付けるのは嫌だ」

「う、裏付けって」

 恋の裏付けの取り方を私は知らないけれど、世間一般ではほとんどの人がそれをしないということだけは分かる。きっと旦那様は今まで理性的に真面目に生きてきたから、感情論で動くのに慣れていないんだと思う。

 そして私も自分の本能のままに生きすぎて、他人を想って焦れたり恋焦がれたりという現象に体が驚いている。というより、旦那様をそういう対象に見たことがないので、この気持ちが私の心のパズルの恋だとか愛だとかいう欠けた部分にぴったり当て嵌まるピースかどうか、本当に分からないのだ。

「私も、同じ気持ちです。旦那様を好意的に思っているけれど、まだ裏付けは取れていません」

「ははっ、面白い表現だ」

「旦那様の真似をしたんです」

「そうだったか。緊張して、今何を喋っているのかいまいち頭が回らない」

 こんなに綺麗で宝石の生まれ変わりのような人が、まさか初恋もまだなんて。たとえるならまるで、肉汁滴る極上のステーキが誰にも食べられずにすっかり冷めてしまったみたいだ。

「ふふっ、私と同じで安心しました」

「……そうか、良かった」

「あ、私はいいとこ脂身が少なくて筋の多い硬めのステーキですけど」

 それを聞いた旦那様は一瞬目を瞬かせて、すぐに柔らかく笑う。どうやら彼は、私がすぐに変な例えをすることに慣れてくれたらしい。

「硬い肉も、調理法次第では高級肉に負けずとも劣らない味に化けるものだ」

「へぇ、そうなんですか。さすが、ブルーメルの肉質改善の立役者ですね!」

「これについての話はおいおいするとして、話を元に戻してもいいだろうか」

「はい、もちろん」

 こくりと頷いた瞬間、拳ひとつ分空いていた私達の距離が遂になくなった。私のドレスと彼のスラックスが間にあるのに、互いの体温が高過ぎて布を突き破っている。

 触れた場所がとても熱いのに、なぜか離れようとは思わない。恋という単語は一旦隅に置いて、私が旦那様を好意的に見ているということは確かだ。

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