第32話 すっかり失念していました

「フィリア。もしも嫌だと感じたら、すぐに言ってくれ」

「わ、分かりました」

 彼はそうやって、不慣れな私に逃げ道をくれる。多分、手探り状態の旦那様にとってもそれは必要なんだと思う。

「白い結婚を、白紙に戻してはくれないだろうか。そして改めて、夫婦として共にこのブルーメルで僕と一緒に暮らしてほしい」

「はい、喜んで」

「えっ!」

「えっ?」

 まさかそんな反応をされるとは思わず、私達二人はしばらくまったく同じ表情で見つめ合った。

「そ、そんなに簡単に応じてしまっていいのか?」

「そ、そうしたいと思ったので」

「そ、そうか」

「そ、そうみたいです」

 そ・の乱用を繰り返しながら、いい歳をした男女がもじもじぼそぼそと囁いている様子は、側から見れば呆れられるかもしれない。

 つまり私と旦那様が本当の家族へと向かう歩みは、沼ガメさえ苛立ってしまうくらいに遅いらしい。

 けれど、私達は私達なりのペースで進んでいけば良いのだと思う。今この瞬間、ようやくスタートを切ったばかりなのだから。

「……唇も目も、赤くなっているな」

「平気です、すぐに治りますから」

「少し待っていてくれ」

 そう言って立ち上がると、旦那様は何やら向こうでごそごそと作業をして、すぐにまた戻ってきた。その手には、私がさっき受け取らなかったハンカチが握られている。

「ポットに水があったから、それで濡らしてきた」

「この部屋は、なんでも揃っているのですね」

「一通りの支度はいつも自分でしている」

 それを聞いて、素直に感心する。自慢じゃないけれど、私はマリッサがいなければ三日で人間らしい生活を止めている自信があるからだ。

「触れてもいいか」

「あ、はい」

「し、失礼する」

 まるで国王様に謁見でもするのかと思うくらい、緊張の面持ちを浮かべている旦那様を見て、思わず小さな笑みが溢れる。ハンカチ越しとはいえ、男性から目元や口元に触れられると恥ずかしくて、私まで彼の緊張が移ってしまった。

 前言撤回、異性だからではなく旦那様だからこそ、体中の細胞がぶわっと反応して心臓の鼓動が忙しなく血液の循環を促すのだ。そこまでしなくとも私は充分元気なのにと、己の体に訴えたくなる。

「恥ずかしいけど、冷たくて気持ち良いです」

「そうか、良かった」

 慈しむような視線を向けられると、なんだか背中のあたりがむず痒い。けれどそれは心地良くて、このままこの人の隣にずっといられたら幸せだなと、漠然とした未来の想像が、無意識に瞼の裏に浮かんだ。


 しばらくして私達は揃って、食堂に降りた。そこには既にセシルバ様がいらっしゃって、こちらに気付くなり駆け寄ってくる。

「フィリア、おはよう!今日もとても可愛らしいね!」

「……は?お前は一体何を」

「ああ、オズベルト。君への挨拶を忘れていたよ。おはよう」

 可愛らしい顔にきらきらとした笑みを浮かべて、セシルバ様はとても自然に私の手を取る。それがまるで手品師のような鮮やかな手付きだったから、驚きを通り越して思わず感嘆の溜息を漏らしてしまった。

「そのドレス良く似合ってる、明るい君にぴったりだ」

「あ、ありがとうございます」

「一緒に朝食が食べられるなんて、朝からこんな幸せはないよ」

 どうしてそんな大げさな言い方を?大体、今日のセシルバ様はやたらと私にばかり構って――。

「ああ、すっかり忘れてた!」

 早朝から旦那様と刺激的なやり取りをしていたせいで、セシルバ様と交わした約束をすっかり忘れていたことを思い出した。

 部屋でのひとり言を聞かれてしまって、そこからなぜか「僕が花の香りに惑わされた演技をする」という話になった。彼は旦那様の親友で、二人は仲良し。女性問題でずっと苦しんできた彼を救いたいと、私に協力を申し出てくれたのだ。

「テミアン、貴様……」

「だ、駄目です旦那様!貴様は良くない!」

「人の妻に色目を使う男に、礼儀が必要だと……?」

 最初は驚いているだけだった彼の形相が、みるみるうちに険しくなる。最早険しいを通り越して、無の境地に達しようとしていた。勘違いで友情に亀裂が入っては大変だと、私は旦那様の袖口をぐいぐいと引いた。

「テミアン様は、決して変なことをしているわけじゃ……」

「テミアン?なぜ名前で呼ぶ?」

「えっ?それは、昨日二人でそう決めたからで……」

「二人?二人でソウキメタ?」

 なぜかカタコトになってしまった彼は、何やら自分の腰元にそわそわと指を這わせている。

「これは、無意識に剣を探しているね」

「け、剣!?駄目です旦那様、剣も良くない!」

 至極愉快そうな表情を浮かべて、ちっとも焦る様子のないセシルバ様。それどころか、わざと私の肩にぽんと手を置いてぱちんとウィンクをしてみせる。

「これはフィリアと話し合って決めたことなんだ、ね?」

「い、いえ違……っ、てはいませんがその言い方では誤解を招くといいますか」

 これは今すぐにでも本当のことを打ち明けなければと、一人であたふたしている間にも、セシルバ様は挑発の手を緩めない。

「僕がなぜこ・う・なっているのか、君はよく分かっているはずだよ。オズベルト」

 彼が指しているのは間違いなく『香り』のこと。私からそれが香っていると言い出したのは旦那様で、仮にセシルバ様が惑わされてしまっても仕方がないのだから我慢しろと、そう言っているように聞こえる。

 セシルバ様はそんな効果はないと既に知っているので、とんだ演技派だと思う。だって、こうしている今も私に向ける瞳がとろりと甘く見えるから、思わず拍手を送りたくなるくらいだ。

「それは……、いや。お前の言いたいことは分かるが、彼女は僕の妻だ」

「それも、君はちゃんと理解しているよね?」

 ああ、今度は白い結婚の提案を持ち出している。あの項目には、確か干渉しないとか口を出さないとかそんな文章が書いてあった。自分がそうしろというなら、相手にそうされても構わないだろうと、セシルバ様の視線が物語っている。

「大体、婚約者の選び方からして普通じゃないし」

「あ、あれはお前が……っ!」

 極めつけは、サイコロの件。まぁ、それは別に親から勧められるがままの結婚だって同じようなものだし、私だって「どちらにしようかな」方式だし、気にする必要なんてない。というか、旦那様の台詞からしてサイコロを提案したのはどうやらセシルバ様みたいだ。

 確かに、生真面目な旦那様ではそんな方法は思い付かなそうな気がすると、今さらながら納得した。

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