第30話 白い結婚は、好都合だったのです
「昨日は様子がおかしかったから、少し心配していた。もう体調はいいのか?どこか辛いところはないか?」
「は、はい。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「迷惑などとは思っていない。君に元気がないと、僕が勝手に気になってしまうだけだ」
穏やかな瞳に私を映して、そんな殺し文句を口にするなんて。それもこれもすべて、私にジャラライラの香りが染みついているせいだと思い込んでいるからというだけの、ただの勘違い。
そう考えると、嬉しいと感じている自分が途端に滑稽に思えてくる。本来なら、彼が私なんかに興味を示すなんてあり得ないことだったのに。
「……それは、おかしいです」
顔を見られたくなくて、俯いたままぽつりと呟く。今の私はきっと、とんでもなく不細工な表情をしているに違いないから。
「私達は白い結婚で、互いのことについて一切の約束をしないと取り決めたじゃないですか」
「あ、あれは……」
微かに息を呑む音が聞こえる。私はまだ、顔を上げない。
「旦那様はいつも優し過ぎます。私なんか放っておけばいいのに」
「それは出来ない。君をこんな辺鄙な地に嫁がせて、あんな手紙まで送りつけて、王都での結婚式でも酷い態度を取った。僕はずっと、そのことを後悔しているんだ」
違う、違う、何もかも間違っている。決めたのは自分自身で、無理矢理連れて来られたわけじゃない。恋も愛も知らない私は、夫となる人を愛せる自信がなかった。だから白い結婚を喜んだし、田舎に嫁げば面倒な社交界に顔を出さなくてもいいと、そんな風にしか思っていなかった。
周囲の人達から歓迎され、旦那様から優しくされ、大旦那様から信頼され、その度に胸が痛くてたまらなくて、こんなにも素敵な人達を騙すような真似をしている自分が嫌でたまらなかった。
バルバさんが吐いた嘘を打ち明けられずにいたのは、本当はただの保身。旦那様を傷付けたくないなんて最もらしい理由をつけて、問題を先送りにした。セシルバ様まで巻き込んで、自分だけが悪者にならないような計画を立てて、私ってなんて最低なんだろうと泣きたくなる。
ジャラライラの花の香りに一番縋っていたのは、本当は私自身なのに。
「私なんか、そんな風に言ってもらえる資格ありません」
「フィリア……」
「だって私、旦那様がいつ白い結婚を撤回なさるのか怖くて仕方なかったんです」
絶対に泣かないと唇を噛み締めていたのに、とうとう目尻からぽろぽろと涙が溢れ出す。もうどうしようもなくなって、私は顔を上げて必死に手でそれを拭った。
「ど、どうしたんだ。なぜ泣いている、僕が傷付けるようなことを言ったせいか」
目に見えて狼狽えている旦那様は、紫黒の髪をしきりに掻き上げながら、私の顔の前にハンカチを差し出す。受け取ることはできないと、勢いよく顔を左右に振った。
「全部嘘なんです」
「嘘?」
「ジャラライラの花香に、異性を惹きつける効果なんてないんです……!」
矢継ぎ早にそう口にすると、彼の瞳が動揺に揺れた。息をしているのかと心配になるほど、真一文字に結ばれた唇がぴくりとも動かない。計画を台無しにしたこと、セシルバ様には後で謝らなければならないと思いながら、私は言葉を続けた。
「大旦那様やバルバさんは、旦那様のことを本当に大切に思っていらっしゃいます。悪戯に嘘を吐いたわけではないと、どうかそれだけは分かってください」
「……ああ、心配しなくとも分かっている。僕も昔は今よりさらに女性への態度が酷く、精神的にも追い詰められていた。花香のせいで意思関係なく惹きつけられているだけだという気持ちは、僕を随分楽にしてくれた。あの二人の配慮も理解出来るし、このことで責め立てる気もない」
冷静な口調でそう言いながらも、表情は固まったまま。もっと他に上手い伝え方があっただろうにと、私は再び自己嫌悪に陥った。
「話しづらいことを打ち明けてくれてありがとう、フィリア」
「本当は昨日すぐにでもお伝えするべきでしたのに、勇気が持てなくて。すみませんでした」
「そうか、それでずっと様子がおかしかったんだな」
私を案じるような声色を聞いていると辛くて、さっきよりももっと激しく頭を振った。
「違うんです、それだけではないんです」
「白い結婚を撤回するのが、怖いと?」
「……はい」
こんなことを言うつもりはなかったのに、これでは結局旦那様を傷付けてしまう。いや、私が嫌われる方が先かもしれない。
「私は、異性を好きだと思ったことがありません。自由気ままに野原を駆け回って、虫や木と会話して、食べたいものを食べて。歳を重ねても中身は子どもで、結婚も両親に言われるがまま適当に決めただけで、夫婦になる覚悟なんてこれっぽっちも持っていなかった」
「フィリア……」
目の前に差し出されたままのハンカチを、私はどうしても受け取れない。涙は止まってくれないから、拭う両手がぐっしょりと濡れてしまった。
「白い結婚は願ってもない提案で、これで堂々と今まで通りに過ごしていけると、そんな甘い考えでした。ですがここにやって来て、旦那様や大旦那様や屋敷の皆さんが私にとても優しくしてくださるから、自分のことしか考えていないことが申し訳なくなってしまって」
「……そんな風に思っていたのか」
「ただ、悪者になりたくないだけなんです。私は甘ったれのお子様で、妻として旦那様を支える覚悟なんてなくて、いいとこ取りしようとしているだけの嫌なヤツです……!」
泣いたら、旦那様に気を遣わせてしまう。もう一度強く唇を噛んだ瞬間、彼の長くて存外無骨な指がそこをなぞった。
「こら、噛んではいけない。赤くなっている」
「ご、ごめんなさい……」
「とりあえず、どこか落ち着いて話せる場所へ行こう」
そう口にした瞬間、なぜか私の体がふわりと宙に浮く。旦那様に横抱きされていると気付いた頃には、既に庭園から出ていた。
「ああああ、あの!私歩けます!」
「いいから、このままで。泣き顔を見られたくないのなら、肩に顔を埋めて構わないから」
そんな配慮を忘れない旦那様は、正に紳士の鏡。なんて余計なことを考えている間にも、大勢いる使用人達の間を堂々と抜け三階へ続く階段を息も切らさず上がっていった。
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