第28話 独り言はひとりの時に
セシルバ様は見るからに社交界の人気者という感じで、確か独身だと聞いたから競争率が凄まじいだろうと容易に想像がつく。ただ旦那様と違って、波風立てずに躱わすのも上手そうだ。
「……今すぐに帰れ、歩いて帰れ、そのまま帰れ、とにかく帰れ」
「うわっ、ごめんって。ちょっとふざけただけだから、そんなに怒らないでよ」
「知らん帰れ」
旦那様は不機嫌そうに喉を鳴らすと、ぐいっと私の腰元を引き寄せる。とっさのことで受け身が取れず、彼の胸元に飛び込むような形になってしまう。
「当然、フィリアとは接触禁止だ。俺の妻に色目を使うな」
「お、お客様にそんな言い方……っ」
「いや、テミアンは俺をからかう為ならなんでもする奇特な男だ。放っておくと、俺の妻に何をしでかすか分からない」
猫を威嚇するライオンのように、歯を剥き出しにして唸っている。どうしたらこの場が丸く収まるだろうと考えた結果、私は意を決して彼の胸にこてっと頭を寄せた。
「お、落ち着いてください旦那様。久しぶりに会えたのですから、楽しく過ごしましょう」
「あ、ああ、すまない。つい腹が立って」
「とにかく一度、ゆっくりとされてください。お二人共長旅でお疲れでしょうから」
必死のかわい子ぶりは、どうやら効いたらしい。旦那様はたちまちふにゃりと眉を下げ、さっきよりももっと優しい手つきで私の頭を撫でた。
「奥様のおっしゃる通りです。さぁどうぞ、こちらへ」
執事長バルバさんが、恭しく右手を前に出し道を誘導する。私とすれ違う瞬間、セシルバ様ににこりと微笑みをもらったけれど、私は苦笑いでやり過ごすより他に良い案が思いつかなかった。
どさくさに紛れて自室に逃げ帰った私は、ぽいぽいと靴を投げ散らかしてベッドにダイブする。それを拾いながら、マリッサが長い溜息を吐いた。
「しっかりなさってください。奥様は若旦那様の妻であり伴侶として神に誓った仲なのですから、ミセス・ヴァンドームとして相応の振る舞いを見せてこそ夫人の品格が現れるというもので」
「ちょっとそれ絶対わざと言ってるでしょう!全部同じような意味じゃない!マリッサの意地悪!」
「さすがにばれましたか」
真顔でしれっとそう口にする彼女に、私はぷくっと頬を膨らませた。
「そんなに悩まずとも、さっさと打ち明けてしまえば良いのです。若旦那様が惑わされているのは、花香などではなくフィリア様自身なのだと」
「い、いやその言い方もどうなの。自意識過剰過ぎる」
きっと旦那様は、刷り込みが強過ぎてそう感じているだけ。私が旦那様に誘惑されないことを特別だと思い込み、常に庭園に入り浸っているだけの私に「花の香りが移った」と勘違いしている。
けれど、果たして本当のことを告げてもいいのかどうか。当時のバルバさんに悪気がなかったことは理解出来るけれど、旦那様がこの歳まできっちり信じているとは思っていないかもしれない。私が打ち明けたとして、それが大旦那様やバルバさんを一因になったらと思うと、なかなか勇気が出せない。
だからといってこのままでは、彼の女性嫌いは一生治らないまま。女性からの好意を全て「花の香りに惑わされているだけの偽物」だと思い込んでいるなんて、やっぱり可哀想だ。
「それに旦那様の偏見がなくなれば、私ではない誰かを好きになる可能性も十分に……」
そこまで言いかけて、なぜか言葉が喉につっかえた。真実を伝えたら魔法は解けて、もう二度と私に笑いかけてくれないかもしれない。だって私には、他に彼を惹きつけておける魅力がないから。凄く寂しいけれど、旦那様が前向きになって、心から愛せる運命の相手を探そうという気になれるのなら、私は――。
「そうよ、勇気を出してフィリア!」
しんと静まり返った部屋で一人、固く握った両手の拳を突き上げる。片手じゃあ足りないと思ったから、しっかり両方使って気合いを入れた。
「ちゃんと旦那様に言うのよ!ジャラライラの花の香りが異性を誘惑するという話はまったくの出鱈目だと!」
「へぇ、そうなんだ。それは驚いたな」
「きえええぇ‼︎」
独り言に返事が返ってきたことに驚き、しかもその相手がセシルバ様だったから心臓が止まりかけ、そしてそのすぐ斜め後ろに無表情のマリッサが立っているのを見て泡を吹いて倒れそうになった。
「あはは、凄い声だね」
「これは母譲りの奇声で……って、そんなことはどうでもよくて‼︎」
当たり前のように部屋のカウチソファーに腰掛け、長い脚を優雅に組む。座りなよと促されて、思わずありがとうございますと答えてしまった。
「な、なぜここにセシルバ様が⁉︎ノックも声掛けもなかったわよね⁉︎」
「それは私が、いち早く気配に気付き部屋の外に出たからです」
「そういえばさっき私一人だったわ!」
しんとした部屋で高々と拳なんて掲げている場合ではなかった。それにしても、マリッサは有能が過ぎる。
「なんとなく様子が気になって見に来たんだけど、彼女がこういうポーズで僕に手招きするから、それを真似したんだ」
ぷるんとした自身の唇に人差し指を当て、非常にあざとい視線で私を見つめてくる。
「いくら侍女からの許可があっても、既婚女性の部屋に無断で立ち入るなんて良くないよね。ごめんなさい」
「い、いえ……。そんな謝罪なんて……」
「じゃあ、許してくれる?」
首を傾げてお願いなんて、そんなもの誰が断れるというのだろう。外見の良し悪しにさして興味のない私でも、やっぱり麗しの美青年には敵わない。まんまと頷いてしまい、セシルバ様は嬉しそうに微笑んだ。
マリッサがお茶の支度を始め、私はそろそろと彼の正面に座る。そういえば旦那様をほったらかしだけど、もうすぐ夕食の時間ではないだろうか。
「そうそう、だから君を呼びに来たんだ。使用人から止められたから、こっそりとね」
「そ、それはご足労をおかけいたしました」
旦那様のご友人で侯爵家のご令息ともあれば、そんなことは頼めないに決まってる。セシルバ様は随分気さくな方と、改めてまじまじと見つめてしまった。
「で?」
「はい?」
「さっき君が叫んでいた独り言について、もっと詳しく教えてほしいな」
すっかり頭から抜け落ちていた。そういえば、セシルバ様に大変なことを聞かれてしまったんだった。
「あ、あああれは寝言です!」
「天高く拳を突き上げていたけど」
「夢遊病の一種かと!」
「病気なら一大事だし、すぐオズベルトに知らせないと」
とどめを刺された私はぐうの根も出なくなり、彼はにっこりと笑う。もう観念して、大旦那様から聞いた話を洗いざらい打ち明けた。
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