第26話 悲しい過去と、衝撃の真実

「その乳母は私の後添いの妻におさまろうと、必要以上にオズベルトに取り入った。そしてそれが敵わないと知ると、次は必要以上にあの子に辛く当たるようになった。オズベルトは自ら乳母の証拠を完璧に集め私に提出し、そうなって初めてあの子が傷付いていたことを知った愚かな親だ。学生時代もオズベルトに取り入ろうとする令嬢が後を絶たず、いつしか女性に対し嫌悪感を露わにするようになった」

 旦那様から、女性が苦手になったなんとなくの経緯は聞いていた。けれどそれは、私が想像していた以上に辛く哀しい過去で、彼がどんな思いで白い結婚の手紙を綴ったのかと思うと、胸が痛くてたまらない。

「意地と見栄でこの歳まで生きてきた自分を今さら恥じても、もう遅い。私にしてやれることは、出来るだけ多くの資産を残し静かに死ぬことくらいだ」

「そんなことをおっしゃらないでください!」

 思わず立ち上がり、大旦那様の側に駆け寄る。私の行動に驚いたのか、紫黒の瞳を僅かに揺らす。旦那様と同じ、神秘的で美しい色。

「旦那様は私に、ブルーメルのいいところをたくさん話してくださいました。彼がどれだけこの地を大切に思っているのががとてもよく伝わってきて、私もすぐに大好きになりました。それは大旦那様の想いがちゃんと届いているからだと、私は思います。過去を変えることは出来ませんが、全てが悪い方向に働いていたわけではないと、旦那様を見ていたら分かります」

 その時の辛い気持ちは、本人にしか理解出来ない。恵まれた環境でのほほんと生きてきた私を、お二人は受け入れてくれた。自身の経験を他人に押し付けず、人を妬まず、努力を惜しまず、過ちを後悔することが出来る。

 それは決して簡単なことではないし、そんな彼らを私は心から尊敬する。

「フィリアは、まっすぐな心を持った素晴らしい女性なのだな」

「あ、あのそれは買い被りすぎです。年不相応で社交が苦手で、こんな大屋敷の女主人なんてとても務まらないような情けない人間で……」

「誰しも得手不得手はある。君が私達の欠けた部分を受け入れてくれたように、これからは家族として君を支えられたらと思う」

 ああ、どうしよう。泣きたくないのに、涙が溢れそうになる。その理由は自分でも上手く説明出来なくて、無理矢理笑顔を作って必死に誤魔化した。

「私に話してくださってありがとうございます、大旦那様」

「勝手なことをしたと、あの子に叱られるだろうか」

「お優しい方ですから、そんな風には言わないと思います」

 仏頂面も、困った顔も、恥ずかしそうな笑みも、温かな眼差しも。そのすべてが素敵で魅力的で、これから先彼を悲しませることが起こったら、私がそれを全力で跳ね返して遠い空の彼方に飛ばしたいと思ってしまう。

 だけど同時に、ただの偶然で結婚しただけの私がいつまでも旦那様の隣にいて、本当に良いのだろうかという気持ちも日に日に膨らんでいくのだ。

 女性が苦手な旦那様が私にだけそう感じないのは、ジャラライラの花の香りのおかげ。いつかもっと彼に相応しい人が現れた時、私が邪魔になることが辛い。


 それに効果が切れたら、また嫌な思いをさせてしまうかもしれない。一度ネガティブな方向に考え出したら、なかなか反対には舵を切れない。

「君がこの屋敷に来てから、オズベルトは変わった。あの子のあんな姿が見られて私は本当に嬉しいよ」

「あの……、大旦那様」

「ありがとう、フィリア」

 穏やかな笑みを浮かべると、目尻に皺が寄る。これまで積み重ねてきた苦労と功績、それから家族への愛情。元奥様のことで辛い思いをしてきた大旦那様にも、これから一層の幸せが訪れますようにと願わずにはいられない。

 どうすればいいのかと考えあぐねた結果、私は哀しげな表情を隠せないまま、恐るおそる口を開いた。

「違うんです、大旦那様。私は、これっぽっちもあの方のお役に立てていません」

 そう切り出した瞬間、紫黒の瞳の奥に私を案じるような色が差し込む。

「旦那様から聞きました。このヴァンドーム領の屋敷だけに咲くジャラライラという花の香りには、異性を惑わす効果があるのだと。彼の肌にその香気が移ったせいで女性から過剰に言い寄られて、とても辛い思いをしたと話してくださいました」

「ジャラライラ?ああ、あの花のことか」

 大旦那様の視線が、ちらりと庭園の方向に向けられる。私もそれに倣うように、ここからは見えないあの小さくて可憐な花を思い浮かべた。

「それがなぜか、私からも香っているらしいのです。自分では分からないのですが、旦那様からそう指摘されました。彼が私を嫌だと感じないのはそのせいであって、いわばとんでもないずるをしているのと同じことなのです」

 改めて口にすると、余計に気が塞ぐ。当初の予定通り互いに干渉し合わないままなら、こんな風に罪悪感を抱かずに済んだ。ただブルーメルを楽しむことだけを考えられたのにと、そう考えてしまう自分も嫌だ。

「ジャラライラの香気……。はて、なんのことか」

 どんな顔をしていらっしゃるのかが気になって、視線だけでちらっと伺う。大旦那様は何やら考え込むように顎の下を掌で摩りながら、しばらくして「ああ、あの時のあれか」と、ひとつのヒントもない台詞を口にした。

「すまない、それは出鱈目だ」

「へ……?で、でたら……?」

「つまり、まったくの大嘘、出まかせ、荒唐無稽な妄想といったところか」

 さらりとした口調でとんでもない真実をぶち込まれた私は、あんぐりと口を開けるどころか驚きのあまり逆に閉じてしまった。そうしなければ、屋敷中に響き渡る声で「嘘ってなんだ‼︎」と叫んでしまうから。

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