第17話 おや。旦那様の様子が……?

 それから瞬く間に一ヶ月が過ぎて、今日は王都へと出立する日。私は馬車に乗る前から顔面蒼白で胸元を抑えていた。

「フィリア、大丈夫か?気分が悪いのか?」

「いえ、違います。ここに来るまでが大変だったので、先に酔ったふりをしていれば体がそれに慣れたら少しはましになるかなって」

「まったく意味が分からない」

 旦那様が私の腰元を支えながら、心配そうに瞳を揺らす。この一ヶ月で、なせが私と彼の距離はぐっと縮まったように思う。それは男女の仲というより、まるで兄妹みたいな意識に近い。旦那様は意外と世話好きで、私が庭園で自然を満喫している時にふらりと現れては、ブルーメルのことを色々教えてくれた。

 自然豊かで気候が安定していて、領民同士も争い事が少なく、助け合って暮らしているのだとか。クイネ先生から聞いた話では、旦那様が陳情に細かく目を通していて、困りごとを放っておいたりしないおかげでとても住み心地が良いと、皆ヴァンドーム辺境伯家には感謝と尊敬の念を抱いているらしい。

 一方であまり表舞台が好きではないと思われているみたいだけれど、それはきっと香りのせいなのだろう。旦那様にそんな気はなくても、否応なしに惹きつけてしまう。私は、花香より彼自身の魅力も大いに関係していると思うけれど、そう言っても信じてもらえない。

 大旦那様と顔を合わせる機会はさほど多くないけれど、女主人としての役目を果たしていない私にも優しくて、やっぱり少し胸が痛んでしまうのだった。

「旦那様。私なら大丈夫ですから、どうぞ先に馬車へ乗ってください」

「じゃあ、中から手を伸ばして乗り込む君を支える」

「えっ、同じ馬車なのですか?」

 単なる疑問だったのだけれど、彼はなぜか石でも投げられたような顔をしてみせる。

「そのつもりだったけど」

「行きが別々でしたので、てっきりお一人が好きなのかと思っていました」

 ブルーメルから王都まで、休憩や宿泊を挟んでもかなりの日数がかかる。誰かに気兼ねしたくないという気持ちは、ちっともおかしなことではない。

「……フィリアは、別々の方がいいか?」

「もちろん一緒でも構いませんが、きっと醜態を晒してしまうと思います。ここへ来る時も、それはそれは酷い顔だったでしょうから」

 思い出すだけで、足がふらつきそうになる。またあの体験をすることになるかと考えると、正直部屋に籠城したい気分だ。

「それなら、答えは決まった。一緒に行こう」

「よろしいのですか?」

「道中具合が悪くなったら、僕が看病する」

 きりりとした表情でそう言った彼は素早く馬車に乗り込むと、先ほどの言葉通りに入り口からこちらに向かってまっすぐに手を伸ばす。

「おいで、フィリア」

「は、はい。ありがとうございます」

 なんだか妙にむず痒い気分になりながらも、私はその手を取った。すらりと長い指に固い掌、私より体温が高くて温かいなと、そんなことをぼんやり思った。


 ヴァンドーム家の馬車は、はっきり言ってマグシフォン家のそれとは比べ物にならない乗り心地の良さで、しばらくの間私は子どもみたいにきゃっきゃとはしゃいだ。

「あらかじめ長旅を想定した造りになっているからな」

「揺れ方が全然違います!我が家の馬車はもう、こんな感じでしたから!」

「それは大袈裟だろう」

 ぐわんぐわんと体を前後に揺らしてみせると、旦那様が小さく微笑む。彼は大体、私が周囲から変だと呆れられるような行動を取っても、今みたいに笑ってくれる。

「旦那様は、私に呆れたりしないんですか?」

 ふと、そんな質問をしたくなった。

「呆れる?なぜだ?」

「私は、おおよその貴族令息が求める理想の妻像からはかなりかけ離れていますし、母からはいつも怒られてばかりでした。いい歳して草だの虫だの食べ物だのと、子どもみたいなことばかり言って、淑女教育をしょっちゅう逃げ出していました」

「クイネから、君はダンスも所作も完璧だと聞いているが」

「完璧というか、出来なくはないというレベルですね」

 ぽんこつそうに見えるから、出来が人並みでもめちゃくちゃ褒められる。極悪顔の人が親切だったら神様みたいに感じる、あの現象だ。

「白い結婚と聞いていたので、もっと淡白な夫婦関係を想像していたんです」

 特に深い意味はなかったけれど、なぜか旦那様はぎくりとした表情で唇を結んだ。

「ま、まさか迷惑か?僕は君に、嫌な思いをさせているのか?」

「そんな風には思っていません。ただ、気を遣わせてしまっているのかと」

 ブルーメルでの生活を始めてから約二ヶ月、日に日に旦那様と顔を合わせる時間が増えている気がする。

 私はあの手紙をもらってから、すっかり甘えてしまっていたのだ。何もしなくていい、形だけの夫婦で構わない、田舎ライフやっほい!と。

 だけど旦那様が私に対してとても優しいから、罪悪感が芽生えてきた。私が庭に出ていると現れるし、時には花を摘んでプレゼントしてくれる。私が捕まえた虫を興味深そうに見たり、大したこともない話をちゃんと聞いてくれたり。

 さすがに朝昼晩ステーキが出てきた時は、五日目くらいで丁重にお断りしたけれど。だって贅沢過ぎるし、私のせいでヴァンドーム領の牛を食べ尽くしてしまうと思ったから。

 生誕パーティーへの同伴が決まってからは、クイネとのレッスン中に何度か顔を出しては「嫌じゃないか」と心配してくれた。

 本当に、結婚式の時とは態度ががらりと変わっているから、まさか双子か二重人格かもと本気で疑ったことも何度かある。

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