第16話 私はまだ本気出していないだけ
♢♢♢
「改めまして奥様、私は侍女長のクイネと申します。生誕パーティーまでの約ひと月、ダンスレッスンや淑女マナーなどに関する指導を一任されましたので、どうぞよろしくお願いいたします」
私の母と同年代だろうか。上品な大人の色香漂う侍女長クイネさんが、柔らかな笑みでこちらに向かって会釈をした。
「こ、こちらこそ!ご迷惑をおかけします」
「まぁ、奥様。使用人に対してその対応はいけません。このヴァンドーム家の女主人ともあろうお方が、軽々と頭を下げることは許されないのです」
「す、すみません」
「奥様、いけません」
優しそうに見えても、クイネさんはこのお屋敷の侍女長にまで上り詰めた人。間違いをびしばしと指摘されるこの感覚は、母と対峙しているみたいで冷や汗をかく。
まだ爪を武器とされないだけましだと、私はいま一度ぐいんと背筋を伸ばした。
昨朝旦那様から言われたことは、どうやら幻聴ではなかったらしい。彼は、本当に私を生誕パーティーのパートナーに選んだ。
「信じられない」
「ご夫婦なのですから、当たり前では?」
側でレッスンを見ているマリッサが、淡々とした口調でそう言った。
貴族同士の結婚に愛がないことは当たり前で、私はそれに抵抗がない。好きとか嫌いとか、そういう目に見えない感情論の方がよっぽど怖いと思う。
もし夫に「僕を愛しているなら尽くして当たり前だろう?」なんて言われたとしたら、だったら今すぐ嫌いになりますと答えるだろう。
親愛でも友愛でも家族愛でも、それを搾取するのは非常によろしくないことなのだ。
「ではまず、ベーシックステップから参りましょう」
「はい、先生!」
「クイネで構いません」
「はい、クイネ先生!」
にこにこしながらそう言うと、彼女は妥協したような表情で小さく頷いた。身分関係なく、教えを乞うなら相手には敬意を払いたい。
クイネの右手を取り、左は軽く肩に添える。私の方が背が高いけれど、今日は彼女が男性役だ。ミンストレルの伴奏に合わせて、リズムよくステップを踏んでいく。
こんな風に誰かと踊るのは、一体いつぶりだろう。弟のケニーは歳が離れている上に最近は思春期で構ってくれないし、母に無理やり連れられたパーティーで名前も覚えていないどこかの令息と、お互い申し訳程度に踊ったくらい。
煌々と照らされたシャンデリアの灯りの下、大勢の人に見られながら踊るのは好きじゃないけれど、ダンス自体は楽しいと思う。太陽と緑と美味しい空気の中で好き勝手にターンやステップを踏んでいる時間は、私にとってとても有意義だった。
私が慣れたと判断したのか、ステップだけでなくターンやポーズと、クイネは徐々に難易度を上げていった。
「奥様、少しよろしいですか」
ほどなくしたところで、彼女がぴたりと動きを止める。何やら神妙なその様子に、どこか間違いでもあっただろうかと、はらはらしながら彼女の顔を見つめた。
「完璧です」
「へ?」
「ですから、すべてが完璧ですと申し上げました。私が指導する必要はないでしょうと、旦那様にお伝えしておきます」
柔らかな表情のクイネを見て、思わずぽぽっと頬が熱くなった。そんな風にまっすぐ褒められたら、さすがの私ももじもじしてしまう。
「マリッサ、私完璧ですって!先生に大絶賛されてしまったわ!」
「それは少し盛りすぎでは?」
「あら、そうだった?」
彼女はいつも通りの表情だったけれど、どことなく嬉しそうなのが可愛い。他の人から見たらわからないかもしれないけれど、長い付き合いの私には一目瞭然。本当のマリッサは、とても優しい人なのだ。
「とはいえ、フィリア様はやろうと思えば大抵のことはそつなくこなせる方なのです。そう思わないだけで」
「ちょっとやだ、マリッサまで褒めないでよぉ」
「別に褒めてはいませんが」
私達のやり取りを見て、クイネがぽかんとした顔で瞬きを繰り返している。
「お二人は随分と仲がよろしいのですね」
「ええ、マリッサは昔からずっと一緒ですから!」
「違いますよ、フィリア様。クイネさんは、侍女と主人の関係性があまりにもくだけていると、そうおっしゃっているのです」
言い直されても、結局よく分からない。
「つまり、私達が仲良し過ぎるってことか」
「もうそれでいいです」
「身分だけでいえばマリッサも私と同じ子爵家の出身だし、仮にそうでなかったとしても大切な家族だもの」
にこにこしながら彼女の手を握ると、意外にも握り返してくれた。
「いたたた、痛い!マリッサ痛い!」
「申し訳ございません、少々愛が強過ぎました」
涙目になりながら抗議したけれど、そう言われるとこの痛みも受け入れようと思える。愛が込められているのなら、それは仕方ない。
「クイネ先生、続きをお願いします!」
「いえ、ですから奥様は完璧で」
「久しぶりに踊ると凄く楽しくて!出来れば、もう少しお付き合いしてもらえると嬉しいです」
私の言葉にクイネは一瞬目を丸くして、それからふわりと微笑んだ。
「若旦那様は、とても素晴らしい方と結婚をなさいましたね」
「えっ、それって私のことですか⁉︎」
「ええ、もちろん。きっとお二人は、この先も良きパートナーとしてヴァンドーム家を盛り立てていくことでしょう」
その瞬間、胸の奥がぐぐっと詰まるように痛んだ。いくら政略結婚といえど、なんだか周りの人達を騙しているような感覚に陥る。本来なら私は、旦那様にもヴァンドーム辺境伯家にも相応しくない人間なのだから。
彼に事情がなければ、私に結婚を申し込むなんてことは絶対になかった。
「フィリア様」
事情を知っているマリッサが、先ほど私がしたようにぎゅっと手を握る。
「私も、そう思いますよ」
「……ありがとう」
私を慮ってくれる彼女に、心配いらないという意味を込めて笑いながらこくりと頷いた。
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