第11話 白い花の香りに誘われて


「この花は《ジャラライラ》というのですね」

「変だろう」

「はい、私好みのヘンテコで可愛い名前です」

 昔から、自然に囲まれた場所が大好きだった。何をするでもなく、ただそこに座ってゆっくりと呼吸を繰り返す。時には寝そべって、マリッサに怒られたり。

 そうしていると、もう知っていることもまだ知らないことも、全部を受け入れられて、あちらからも受け入れてもらえるような。上手く表現出来ないけれど、とにかく好きなのだ。

「あっ、そういえば私って臭いんでしたよね⁉︎すみません、すぐ部屋に戻りま」

「違う、そうじゃない。君からこの花の香りがするんだ」

 悪臭でなかったことにほっとしながら、旦那様の言葉に首を傾げた。さっきと同じように、自分の腕辺りをくんくんと嗅いでみるが、やっぱり無臭。香水は好きじゃないから、母に無理矢理振り撒かれる以外で身に纏ったことはないし。

「それはどうしてなのか、教えてくれ」

「申し訳ないのですが、旦那様のおっしゃっている意味がさっぱり分かりません。花の香りが服に移るくらい、よくあることでは?」

「いいや、それはない」

 実にきっぱりと断言された為に、それ以上何も言えなくなる。

「この花は特別なんだ。意志があるという表現もおかしな話だが、気まぐれで非常に扱いにくく、こう見えて気性が荒い」

「旦那様は、花に対してまるで人間みたいな言い方をなさるのですね。とても素敵です」

「べ、別にロマンチックにさせようと思っているわけではないからな」

 心外だとでも言いたげにふんと鼻を鳴らす姿は、なんだか可愛らしい。

 そういえば、昨晩部屋の前でも匂いがどうのという話をしていたような。てっきり体臭を気にしているのかと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。

「よろしければ、もっと詳しく聞かせていただけませんか?」

「興味があるのか?」

「はい、とっても!」

 希少な花の香りに関する話だなんて、わくわくするに決まってる。急に食いついてきた私を見て、旦那様は少々引いている様子だった。

「あ、すみません。口は出さない約束でしたのに」

「いや、構わない。元は僕から言い出したことだ」

「でしたら、あちらに座りましょう!」

 さっきまで私が座っていた芝生。さすがに旦那様はそのままというわけにはいかないので、マリッサに目配せするとどこからかござを出してくれた。彼女のエプロンのポケットは異空間に繋がっているのではないかと、私はずっと昔から真剣に考えている。

「き、君は変わっているな。あまり出会ったことのないタイプの女性だ」

「あはは、よく言われます」

「褒められてはいませんよ、フィリア様」

 恥じらうように笑った私に、すぐさまマリッサの鋭い突っ込みが入った。


「君はいいのか?」

「はい、芝の感触が好きなんです!」

「そうか。僕は遠慮なく使わせてもらう」

 昨日は少し威圧的な雰囲気の方かと思ったけれど、今はそんな風に感じない。これも、ヴァンドームの屋敷の素晴らしい庭園のおかげなのかもしれない。

「ベンチの方がよろしければそちらでも」

「いや、構わない」

 心地良い朝風がそよそよと吹き、旦那様の紫黒の髪を揺らす。外の光に照らされたそれは、室内の時とはまた違った色合いに見えた。

 彼はマリッサが敷いたござの上に座り、私はその隣に腰を下ろす。いくら自由が許可されているからといって、これははしたなかったかもしれないと今さら後悔した。

「僕が今まで結婚を避けてきた理由はいくつかあるけれど、最大の要因は《香り》なんだ。ジャラライラの香りは、自分の意思とは関係なく異性を惹きつける」

「ほえぇ、お伽話みたい」

 あまりに現実味がなくて、つい子供みたいな反応をしてしまった。

「香りが肌に移る人間は、決して多くない。その条件も改善案も、詳細はまだ解明されていない。少なくとも今のヴァンドーム家では、僕一人だった」

「なるほど。つまり、蟻達が角砂糖に群がるのと似たようなものということですね?」

「間違ってはいないが、もう少し表現の仕方があったように思う」

 旦那様は渋い顔をするけれど、シーズンの蟻達は本当に素晴らしいと思う。長い隊列を組んで協力して餌を運び、道しるべとなる匂いを地面につけて、ちゃんと巣に帰ることが出来る。

 観察するたびに新たな発見があって、あの黒々とした体が美しく光って見えてくる。

「そういえば、旦那様の髪と瞳の色ってなんだかクルンクトゥスオオアリによく似て……」

「やめてくれ。鏡を見るたびに思い出しそうになるから」

 さらに頭を抱えてしまったので、フィリアの蟻講座はここまでにすることにした。

「話を元に戻すが。大げさな表現をすれば、ジャラライラには媚薬香水のような効果があると」

「ええっ、凄い!」

 口元を手で覆いながら大いに驚くと、彼は驚いている私を見て驚いている様子だった。

「まさか理解していなかったのか」

「私が肉の焼ける匂いにつられるようなものなのかと」

「……はは、君は初心なんだな」

 なぜか憐れむような表情で、優しく肩を叩かれた。

「僕が女性に言い寄られるのは、主にこの香りのせいだ。家名や財産も含め、非常に厄介な女性たちに絡まれてばかりで、いい加減うんざりしていた」

「それはなんとも、大変そうですね」

 そんなに辛い思いをしていても、立場上独身を貫くわけにもいかない。旦那様は、サイコロで結婚相手を選んでも構わないと思うほどに追い詰められていたのかもしれないと思うと、つきんと胸が痛んだ。

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