第10話 白い結婚、満喫中


 

♢♢♢

 早朝。鳥の鳴き声で目を覚ました私は、マリッサに準備を整えてもらい庭へと駆け出した。この屋敷に来てから早十日が過ぎ、ようやく緊張からも解放された。

「嘘おっしゃい。初日からいびきをかいてそれはそれはぐっすり寝ていらっしゃったくせに」

「仕方ないじゃない。だって、とっても疲れていたんですもの」

 もう二度とブルーメルから出たくないと思うくらいに、道中は辛かった。慣れていないせいもあるだろうけれど、とにかく王都から距離があり過ぎる。

「だけど、幸せだわ。朝からこんな風に自由に出来て、お母様が長い爪を見せつけながら追いかけてくることもなくて、めいいっぱい時間を使えるなんて」

「普通の女性なら、暇だと感じるのでは?」

「こんなに贅沢なことはないわよ!だって、一日中好きにしていられるのよ?蟻を追いかけたり、魚を追いかけたり、リスを追いかけたり、蝶を追いかけたり!」

「追いかけ過ぎです」

 朝日を受けてきらきらと光る芝生に腰を下ろすと、ふかふかと心地良い。さすがにマリッサ以外の前で寝転がったりは出来ないから、この朝の時間は結構貴重だ。


「私だけこんなに幸せだと、なんだか申し訳ないわ」

「これはヴァンドーム様からのご提案なのですから、気になさる必要はまったくありません」

「マリッサ、なんだか怒ってる?」

「そこまでは」

 彼女は冷静に見えて意外と情に熱い人だから、きっと

 私の行く末を案じてくれているのだと思う。旦那様にいずれ愛する方が出来て離婚となった時私が不利にならないように、少しは考えた方が良さそうだ。

「見てみて、朝露が降りてる!昨晩は珍しく冷えたものね。今日は晴れるわね、楽しみ!」

「フィリア様は本当に、逞しい方ですね」

「そう?ありがとう」

「褒めたわけではありません」

 なんにせよ、今はこの生活を満喫したい。私は芝についた露を慎重に指の腹に乗せると、ぱあっと顔を輝かせた。

「上手く出来たわ!とっても綺麗!」

「何がそんなに綺麗なんだ」

「これです、この朝露の……って、わぁ!」

 あまりに突然のことに驚いてしまい、思わず露を握り散らしてしまった。

「だ、旦那様⁉︎なぜこちらに」

「僕がいては不都合か?」

「いえ、そういうわけではありません」

 朝の挨拶もそこそこに、私はしゅんと俯く。せっかく朝のひと時を満喫していたのに、旦那様がいらっしゃったからもうここにはいられない。

「では、失礼いたします」

「お、おい待て!」

 がっかりした気分のまま、早々に立ち去ろうとした私の手首を、旦那様がなぜか焦ったように掴んだ。

「あれ?なんで?」

「い、いや、その……。僕が追い出したみたいで申し訳ないなと」

「まぁ。お優しいですのね!けれど、ここは旦那様のお屋敷なのですから、お気遣いは結構ですわ」

 ううん、どうしたものか。白い結婚を成り立たせるのは、私が想像していた以上に難しいらしい。

 それとも、同じ空間で息をするくらいは別に構わないのだろうか。昨日食事をした時も思った以上に話しかけてくださったし、同居人としては認められていると考えて良いのかもしれない。いやだけど、気を遣わせているという可能性も捨てられない。

「あっ、そういえば!」

 ぱっと思い付いた私は、マリッサが手にしているバスケットを受け取り、にこにこ顔で旦那様に差し出した。

突然のことに彼は困惑の表情を浮かべており、説明不足だったと口を開く。

「これは、昨晩のお礼です!」

「お礼だと?」

「はい。ディナーの時、私にステーキをくださったでしょう?旦那様はご自分で品質改良をなさるくらいにお肉がお好きですのに、悪いことをしたなと思って」

 食欲に負けて貪り食ってしまったけれど、あとあと部屋に戻って横取りを反省したのだ。もしも逆の立場だったなら、私は相手を末代まで呪ってしまうかもしれない。

「ですから、ぜひこちらを。朝にぴったりの品ですから」

「礼などする必要はないが……。まぁ、君がそこまで言うなら」

 本当はただの思いつきなのだけれど、感謝しているのは事実だ。あんに美味しいものがこれからの人生で何度も食べられると考えるだけで、口内が勝手に涎を作り出して止まらなくなる。

「はい、ぜひどうぞ!」

「朝にぴったりといえば、マフィンか?それともサンドイッチ?」

「いえ、それは――」

 バスケットを受け取った旦那様が、上に掛かったナプキンをぱさりとめくる。そしてなぜか、すぐに閉じてしまった。


「どうかいたしました?遠慮なさらず、あちらのベンチで召し上がってください。マリッサがポットにお茶を入れて持ってきてくれていますから」

「……これは、なんだ」

「えっ?干し肉ですけれど」

 ブルーメル品質には遠く及ばないだろうが、マグシフォン領の加工品もなかなかのものだ。この干し肉も名産品の一つで、こと海運商人からの評判はすこぶる良い。

「朝にぴったりだと言ったよな?」

 旦那様は、どうしてか頭を抱えている。

「ええ、言いました。朝から干し肉を噛み締めていると、寝ぼけた頭がすっきりとするのです。歯も丈夫になりますし、先に少しお腹を満たしておくと朝食もより一層美味しく感じられて、お得づくしです!」

 こんなに力説しているのに、一向にバスケットを受け取ってくれない。まさかブルーメルには干し肉を食べる習慣がなくて、食べ方が分からないのだろうか。

 そう思った私は、中から小さめのものを一切れ摘んで彼の口元へと差し出した。

「はい、どうぞ!」

「い、いや俺は」

「騙されたと思って、さぁ!」

 ずいっとさらに近付けると、旦那様の形のいい唇が僅かに開く。かと思えば、まるでやけっぱちのように豪快に口の中に入れた。

「どうですか?どうですか?」

「まぁ、確かに美味い」

「でしょう?良かった!」

 自分の領地の食べ物を褒めてもらえることは、素直に嬉しい。やはり朝は干し肉に限ると、私は満足げな表情で残りも手渡した。

「では、これにて失礼いたしますね」

 昨日の恩も返せたし、もう思い残すことは何もない。マリッサをちらりと見ると、彼女もこくりと頷いた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 急に後ろから勢いよく腕を掴まれ、そのままバランスを崩す。旦那様の胸板はガチガチに鍛え抜かれているらしく、まるで石にでもぶつかったかのような音がした。

「い、痛い……!」

「あ、も、申し訳ない!そんなつもりでは」

 あたふたと慌てる様子は、昨日の夕食の席での姿とまるで違う。混乱しているせいか、彼は私をぎゅうっと抱き締めた。

「旦那様落ち着いてください!このままでは、一向に起き上がれません!」

 いくら愛のない結婚相手とはいえ、こんな風に密着するとさすがに恥ずかしい。昨日はちゃんとお湯を浴びたよね?と、乙女のような思考回路に陥った。

「この香り……」

「えっ!やっぱり私、お風呂に入らず寝ちゃいましたか⁉︎」

 臭いがどうのと言われた私は、思わずくんくんと自らの腕を嗅いだ。体臭なり口臭なり、どうして自分では自分の臭いが分からないのだろう。

「いや、そうじゃない。この花の……《ジャラライラ》の匂いがつき始めている」

 そう言って、彼はちらりと花壇に視線を移した。この屋敷のあちこちに咲き誇る、甘く艶やかな香りの白い花。見た目は小ぶりで可愛らしいのに、少し手を伸ばせばたちまち飲まれてしまいそうな蠱惑的な雰囲気を持っている、不思議で素敵な花。確か、ヴァンドームの屋敷でしか見ることの出来ない大変貴重なものなのだとか。

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