⑪少女は虹を渡る
◆◇◆◇
空気は、ほのかに冷たかった。
ほんのりと寒々しさが、肌を撫でる。
10月も、じきに終わりを告げる。
冬が訪れるのも、そう遠い話ではないらしい。
ぼんやりとかすれた意識。
漠然と揺らいでいた記憶。
ズレていたピントが、じわりと重なっていく。
暗闇の視界が、徐々に光を取り戻していく。
呻くような声を零しながら、目蓋を擦る。
ぼやけていた視界が、少しずつ広がっていく。
眠りこけていた脳が目覚めていく。
目の前の世界を、淡々と認識していく。
細かな記憶は曖昧だけれど。
いつの間にか眠っていたらしい。
床に座り込んだまま、ソファの端に突っ伏していたらしい。
顔に手を当てて、軽く擦るように自分の意識を覚ましていく。
バースデーイベントをやって。お酒で景気付けして。
気丈に振る舞って、ニコちゃんを送り出して。
感情が溢れて、わんわん泣きじゃくって。
けれど、トシキくんが私に寄り添って。それから、私もニコちゃんに寄り添って――。
で、そこから記憶が飛んでいる。
思えば昨日はシネ横にも行ったし、ヨスガくんともやりとりをした。
動かなくなったニコちゃんを運びながらコンカフェまで行った。
それからあんな姿になったトシキくんとも対峙して、バースデーに付き合わせて。
振り返ってみれば色々あった。だから、疲れがどっとやってきたのかもしれない。
私はゆっくりと顔を上げて、細い両目で視野を確認する。
カウンターの上に置かれたデジタル時計。
じっと目を凝らして、時刻を確認した。
――5時過ぎくらい。もう早朝だった。
じきに夜明けであることを知り、それから私は目を丸くする。
「あれ、トシキくん……」
あの“まむし男”がいないことに気付いたのだ。
ひょろりと突っ立つ、あのデカい姿が何処にも見当たらない。
不思議に思って店内をきょろきょろと見渡してみたけれど、やっぱり消えている。
私が寝ちゃってた間に、そのまま宇宙とか帰ったんだろうか。
置き手紙とか、メッセージとか、そういう書き残しの類いも存在しない。
宇宙人がいなくなり、この場に私がぽつんと取り残されている。
そして、店の中を見渡して気づいたこと。
荒れ果てた内装が綺麗に“掃除”されているのだ。
割れたグラスなど、散乱していた残骸なんかは全て無くなっていた。
床とかにぶち撒けられていたはずの赤黒い汚れもさっぱり消えている。
シャンパンタワーも、バースデーイベントの飾りつけも、全部まっさらに片付けられているのである。
まるで昨夜のことなんて、何事もなかったみたいに。
何もかもが元どおりになって、がらんどうになっている。
トシキくんや宇宙人が、証拠隠滅でも図ったんだろうか。
それとも、バースデーイベントは全部夢かなんかだったんだろうか。
何かにつままれたような気分になって、呆気にとられる。
――それだけじゃない。
もっと重要なことがあった。
「……ニコちゃん?」
あの夜、ずっとソファに座っていたはずなのに。
ニコちゃんが、どこにもいないのだ。
まるで幻みたいに、あの娘は忽然と姿を消していた。
◆
かつん、かつん、かつん――。
スチール製の非常階段を、一歩一歩と上っていく。
静寂に包まれた雑居ビルの片隅で、靴裏による鈍い音が淡々としたリズムで響く。
背中にのしかかる重みは、もう何処にもない。
昨夜のように、誰かを背負う必要なんかない。
ひどく身体が軽くて、哀しさが静かに込み上げてきた。
ニコちゃんは、ここにはいない。
それでも私は、もうひとりで歩き続けるしかない。
全てを終わらせて、そう決めたのだから。
そうしてただただ、階段を上り続ける。
思えばニコちゃんは、こういうところでトシキくんと束の間のひと時を過ごしていた。
非常階段で愛し合っていたふたりの姿は、いまだ鮮明に思い出せる。
ただ待ち続けていた私は、いつも複雑な気持ちだったけど。今となっては、それも過ぎ去った過去の記憶でしかない。
此処にはただ、あの娘がいた残り香だけが横たわっている。
空は仄暗い藍色。遥か彼方から、朝焼けが緩やかに迫っている。
なぜだか、朝の空を見たくなった。
夜明けの温もりを、なんとなしに求めていた。
だから私は、こうして階段を上っている。
すべてが終わったあと。
残された想いを癒す“なにか”が、ふいに欲しくなった。
ただ、それだけのことだった。
十数分前まで、そう広くもないコンカフェの店内をあちこち探していた。
もちろん、いなくなったニコちゃんを見つけるためだった。
キャストの休憩所とか、事務所とか、ロッカーとか、色んなところを覗いてみた。
けれど、ニコちゃんはいない。どこにも姿が見えない。
神隠し、なんて言葉を思い出したけれど。
まさにそんなふうに、ニコちゃんはいなくなってしまった。
なんでだろう、と私は思った。
現場の証拠隠滅でニコちゃんも処理した――というのは、多分ないと思う。
だってそうするなら、宇宙人と相対した生き証人である私こそ消さなきゃいけないだろうから。
もしかすると、トシキくんかその仲間が連れ帰ったんだろうか。
“まむし”の寄生による不完全体の貴重なサンプルとかそんな感じで。
宇宙人にさらわれて、遠い空の彼方にでも行ってしまったのだろうか。
ともあれ、尤もらしい答えがあるとすれば、それくらいしか浮かばなかった。
けれど、私は思った――なんか、違う気がする。
深い根拠なんて特にない。向こうがそこまで義理を立ててくれる理由もない。
それでも何故だか、あのトシキくんが、黙ってニコちゃんを連れていくことはないような気がした。
仮に連れ帰っていたとしても、せめて私に一言なにか残してくれるであろう。
あのまむし男はそんな感じに、妙な律儀さのあるやつだと思っていた。
じゃあニコちゃんは、どこへいってしまったのか。
静かに眠っていた私の友達は、どこに消えてしまったのか。
階段を上りながら思慮にふけって、やがて導き出した答え。
それは酷く奇妙で不条理なものであり。なのに何故だか、それこそが真理だと思った。
「……ほんとに、いっちゃったんだなあ」
どこにもいけない私たちだったけど。
ニコちゃんは本当に、“どこか”にいってしまったのだ。
――夢の国。不思議の国。空の向こう。天国のかなた。
もっと変な言い方をすると、虹の果て。
ニコちゃんは、その先へと旅立った。
きっと私だけが、現実の世界へと帰ってきた。
未知の世界を彷徨っていた“ふたりのアリス”。
その片割れだけが、こうして戻ったのだ。
そんな結末を受け入れたのは、私自身だ。
私は、ニコちゃんとはもう一緒にいられないことを悟った。
だから、ニコちゃんを葬るために最後の儀式をした。
天国の扉を叩いて、ニコちゃんを送り出したのだ。
そうしてニコちゃんは“去っていった”んだと思う。
どこにもいないのは、きっと当然だ。
だってニコちゃんは、もう死んでしまったから。
ニコちゃんがいない明日を、受け止めることを選んだから。
その先にあるのは、ささやかでまばゆい“現実”だけ。
もう“ばか”のままではいられない。
空想と真実が曖昧になった境界から、私は抜け出したから。
私たち二人は、それぞれの虹を渡った。
灰色の街の、小さな片隅。
残された“へび”は、私ひとり。
◆
茜色の光が、世界を照らす。
灰色の街が、鮮やかに染まる。
夜明けが来た。街が目をさます。
夢の終わりが、やってくる。
雑居ビルの屋上。
ずっと彷徨い続けてきた街が、朝焼けに照らされる。
色あせていた世界が、色彩を取り戻していく。
雲ひとつない空に見下ろされて、私は目の前の景色を眺める。
囲いのフェンスに肘を置いて、軽くもたれかかりながら、其処に立ち尽くす。
安らぎのような沈黙と静寂の中。
私はただ、思いを馳せている。
天国では、みんなが海の話をしているそうだ。
前にニコちゃんから聞いた。なんか映画の台詞らしい。
如何にもニコちゃんの好きそうな、詩情あふれる言い回しである。
あの娘はああ見えて、いつだってロマンチストだ。
淡い夢を見て、見失った神様のかけらを信じている。
ニコちゃんは、そんな女の子だった。
思えば私たち、最後まで海になんか行かなかった。
薄汚れたコンクリートの迷宮が、私たちのすみかだった。
“パパ”を喪って、“パパ”を金に替えた子ども。
へびのように這い回る、薄汚れた都会のアリス。
それが私たち。イトとニコ。
出口を見つけないまま、ついぞ終わりを迎えた。
ずっとこの都会に留まって、抜け出すこともしなくて。
そうして私は天国の扉を叩いて、ニコちゃんを遠いところへと送り出した。
あの娘がいない街で、私は夜明けを見つめる。
藍色の空は、少しずつ朱く染まっていく。
暖かな光が、世界をじわりと覆っていく。
そんな眩い輝きを、私は茫然と見つめる。
ひとつ、わかったことがある。
宇宙人が来ても、世界なんてものは大して変わらなかったということだ。
勝手に始まって、勝手に事が進んで、勝手に終わっていく。
そんな世界の外側で、私たちだけが変わってしまった。
みんなが外側に迷い込んで、何かが変わった。
ネズミさんは、自分のぜんぶを諦めるための踏ん切りを付けた。
アズサちゃんは、夢の終わりを前にして最後のひと時を過ごした。
ヨスガくんは、大切なひとが遠いかなたへと過ぎ去っていった。
そして、ニコちゃんは――長い旅の果てに、“どこか”へといった。
何処にも行けなかったはずの私たち。だけど、ニコちゃんはこうして旅立った。
みんなが、こうして変わってしまったのに。
ニコちゃんが、いなくなってしまったのに。
それでも、この世界というやつは、ひどく眩しい。
きれいな暁の光が、地平の果てから空を包んでいく。
微かなぬくもりが、静かな風とともに運ばれてくる。
なんだか暖かくて、安らかだった。
穏やかな朝焼けが、この街を包み込んでくれる。
世界はまだ終わりじゃないと、慈しく伝えてくれるみたいに。
私は、見つめていた。
茜色へと照らされる空を。
静かに登りゆく朝の光を。
想いは、さざなみのように穏やかだった。
旅の果てに得られたものを、胸に抱いて。
私は、そっと微笑みながら、空を見つめ続ける。
遠い彼方の果てに祈りが届くことを、信じながら。
変わりゆく朝の色彩を、私は見届けていく。
もう隣には、誰もいない。
大切なひとは、傍にはいない。
イトとニコは、どこにもいない。
ここには、私ひとりだけ。
――
神様を見失って、この街に迷い込んで。
つがいの“へび”になって、気ままに這い回った。
そんなちっぽけで、しあわせな、14歳の子ども。
2023年、10月31日。
ニコちゃんがいなくなった日。
“ふたり”の旅は終わる。
“わたし”の旅は終わる。
◆◇◆◇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます