⑩ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(後編)
◆◇◆◇
『おーい』
『どうしたキミ』
記憶。フラッシュバック。
『泣いてんの?』
『顔ぐしゃぐしゃじゃん』
『平気?』
追憶。いつかの出会い。
『……おう』
『その顔で大丈夫って言われても』
『あんま説得力ないな』
真っピンクの髪と、片足に刻まれた蛇のタトゥー。
『ねえ、キミ』
『あたし今ヒマだし』
『話ぐらいなら聞くけど』
『どう?』
マーチンのブーツを踏み鳴らして、“あの娘”は私を見下ろす。
『……へえ』
『“立ちんぼ”やったんだ』
『で、今日が初体験だったと』
思えば、あの日が初めてだった。
『言っとくけど』
『あんま無理してやるモンじゃないよ』
『そんなことさ』
誰かに寄り添ってもらえたことは。
『家に帰りづらい感じ?』
『……そっか。なるほど』
『家出して、金尽きて、それで思い切って、ね』
飄々としてて、気まぐれで、掴みどころがなくて。
『まあ、たまにあることだよね』
『ここに来るような子なら、特にさ』
けれど、“あの娘”は私の話をぜんぶ聞いてくれた。
『キミさ』
『名前、なんて言うの?』
ママも、パパも、だれも聞いてくれなかったのに。
『……アマミ、イト?』
『おっけ、イトね』
だからこの日から、私は“へび”になったんだろう。
『あたしは――』
『まぁ、ニコって呼んで』
“つがい”を見つけた、泥だらけの“へび”に。
◆◇◆◇
「トシキくん」
「うん」
「バースデーシャンパン残ってる?」
「なにそれ」
「キャストのバースデーイベント用の特製シャンパン。こういう店じゃよくあるってニコちゃん言ってた」
「そうなんですか」
「ほら、ラベルに顔写真貼られてるボトルとか無い?」
「だれの顔写真?」
「いや人間だった頃のトシキくんのだよ」
「あ」
「どした新トシキくん」
「もしかして」
「うん」
「これ?イトちゃん」
「それだよ」
「なるほど」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「ねえ、トシキくん」
「はい」
「なんでずっとラッパ飲みしてたん?」
「いや何となく」
◆
私たちが店来たときから、コイツずっとシャンパンがばがばラッパ飲みしてたけど。
それトシキくんのバースデー用のやつだったんかい。
◆
カウンターテーブルは、すっかり鮮やかに飾り付けられていた。
トシキくんを意識した黒や紫の造花を並べて、カボチャやコウモリみたいなハロウィンを意識した小物をアクセントとして添えている。
中央には装飾に囲まれるように、トシキくんの写真が配置――加工キメキメである。バースデー用に撮られたと思われる。
そして、ニコちゃんが腰掛けるソファの前。照明に照らされた硝子の器が、ビビッドな紫色に染まる。
こじんまりとしたテーブルの上で、グラスが三段に積み上げられていた。
ちっちゃいタワー。少ないグラス。仕方がない。そのへんはトシキくんが悪いのだ。
トシキくんが店内を血みどろのめちゃめちゃに荒らしていたせいで、色んな資材が使い物にならなくなっていた。
けれど店の中にかろうじて残っていたものをトシキくんに無理やりかき集めさせて、見様見真似でバースデーイベントの飾りつけを行ったのだ。
スタッフしか入れない休憩所や物置も物色して貰った。そうして無事だったグラスも何とか用意して、不格好で小柄なシャンパンタワーを作ったのである。
トシキくんの在籍するメンズコンカフェ『Eden』にはシャンパンコールの概念が存在する。
通称シャンコ。シャンパンを頼んだお客様――すなわち“姫”の前で、キャスト達が場を盛り上げる掛け声を入れてくれる。そして“姫”もまた、キャストに対して一言マイクできるのだ。
そこで“姫”は推しキャストへの想いを好きにぶつけるのである。シャンパンを頼んだ者にのみ許される、至福の瞬間というわけだ。
――規模はささやかでも、やってることは最早ホストクラブである。
というかこれ、本来ならホストクラブでやるようなサービスだ。
この店に関してはオーナーがホストクラブも経営してるとか何とかで、ホストと同様のサービスが持ち込まれているらしい。
実態は店によりけりらしいけど、こういう若者向けのお手軽版ホストみたいなメンコンは最近になって一気に増えたそうだ。
お店やトシキくんにとって、ニコちゃんは立派な客だ。稼ぎの相手だ。
トシキくんがニコちゃんに優しくて、ニコちゃんの“夢”を守るような振る舞いをしてくれるのも、きっとそういうこと。
トシキくんには、トシキくんなりの筋がある。けれどそれは、きっとトシキくんが“良い人”であることを意味するわけじゃない。
ニコちゃんはトシキくんに貢いでて、トシキくんはニコちゃんで稼いでる。結局のところ、それがすべてなのだ。
そのことに、ずっと思うところはあったけれど。
もう何もかも、過ぎてしまったことだから。
今の私は、ただニコちゃんの望みを叶えたい。
最期に夢すら見られないなんて、あまりにも哀しいから。
ニコちゃんが去りゆく中でも、神様を信じさせてあげたい。
私はそう思ったから、こうして“最後の儀式”をする準備を整えた。
蓋のシールを剥がして、適当な布巾を被せて、蓋に封をしている針金を恐る恐る外して――コルクを握ったまま、瓶をぎこちなく回す。
シャンパンの開封作業である。さっき検索して、私がぶっつけ本番で実行している。
店の中で生き残ってた安いシャンパンを引っ張り出して、雰囲気作りのためにバースデー用のトシキくんラベルに貼り替えたのである。
きゅぽんっ。
瓶口からコルクが外れる。
辛うじて泡は吹き出ずに済んでいる。
そのままゆっくり、ゆっくりと、グラスのタワーへと注いでいった。
おっかなびっくり、慎重に。
積み上げた器を透明な液体で満たしていく。
泉のように溢れる聖水を零さないように。
気を付けて、気を付けて――ぴたりと注ぐのを止める。
成功。本当に奇跡的な分量とタイミングで、薄い琥珀みたいな色でタワーを染め上げた。
何だかほんのりと達成感を感じて、ふっと微笑んでしまった。
「ほい」
そんで私は、シャンパンの瓶を適当なテーブルに除ける。
それからひょいっと、トシキくんにマイクを差し出した。
トシキくんはきょとんとした素振りで、マイクをまじまじと見つめている。
「え、何これ」
「マイクだけど」
トシキくんは、ぽかんとしている。
でも私は、グイっとマイクを近付ける。
無茶ぶりであることは、正直自覚している。
けれど肝心のトシキくんにコールしてもらわないと、なんというか締まらないのである。
それがたとえ、本物のトシキくんじゃないとしても。
寧ろこんな状況を作った宇宙人そのものだからこそ、せめて責任として付き合ってもらうのだ。
「まさか僕にコールをさせようと?」
「そうだけど」
「マジで言ってる?」
「マジだけど」
「トシキくんじゃないよ?僕」
「だから代理として」
「意外と手段選ばないね……」
――まあ、こればっかりは私のが強引なのは否定できない。
呆れてるトシキくんの反応の方が尤もである。
「君さ」
「うん」
「どうかしてるよね」
だから、トシキくんに真顔でそんなふうに突っ込まれるのも納得してしまう。
分かっている。とっくに知っている。
「まともだったら」
きっと、その通りなのだ。
「こんなトコにいないよ」
どこにも行けないから、ここに居る。
それが、“私たち”という女の子。
けれど、終わりの時は迫っている。
最後の晩餐。最後の儀式。
ささやかに、鮮やかに執り行われる、葬式である。
ニコちゃんの手を引いて。
私は、天国への扉を叩く。
「イトちゃん」
きょとんと沈黙していたトシキくんだったけど。
ふいに口を開いて、顔をグイッと私に近づけてきた。
「思ったんだけどさ」
酒と鉄の香りが、再びぼんやりと鼻を突いてくる。
「君は、恋をしているの?」
私の表情でも覗き込むみたいに、へび頭がそう問いかける。
恋をしているのか。――誰に対して?
きっと、私はニコちゃんのことが好きなのかという話だ。
思えば前も、そんなことについて思いを巡らせた気がする。
ニコちゃんからも聞かれた。恋愛的な意味で好きなのか、って。
私がニコちゃんをそういう意味で好きなのかは、よく分からなかった。
正直、どっちでもいいって思った。
ニコちゃんもラブなのはあくまでトシキくんだけど、それでも私と一緒にいる。
私とニコちゃん。お互い一緒につるんでて、お互い気が合う。
そしてお互いに友達として、相方として、何となく好き同士でいる。
それで十分だった。それ以上のことは、どうでも良かった。
「別に、恋かどうかなんて――」
だから、同じように言葉を紡ごうとしたけど。
何故だかその直前で、口が止まってしまった。
気が付けば私の視線は、ニコちゃんに向いていた。
ニコちゃんはもう、動かない。
ぴくりとも、唸りさえしない。
生きているのか、死んでいるのかさえ、もう分からない。
動かなくなったニコちゃんを、私はここまで運んできた。
そうして宇宙人相手に物を言って、最後のバースデーイベントを開かせてる。
なんのために?――ニコちゃんの願いを叶えたいから。
どうして?――ニコちゃんが報われてほしいから。
なんで?――ニコちゃんが大好きだから。
ニコちゃんにとって、トシキくんは“信仰”で。
私にとって、ニコちゃんも“信仰”で。
神様を見出しているのは、どっちも一緒で。
気がつけば、心がぽわんとしてきた。
浮遊感。高揚感。なんだろう、この気持ちは。
恋か、そうじゃないか、どっちでもいいってことは。
ニコちゃんのことを“好き”だったとしても。
私はきっと、納得できるのかもしれない。
そうだろうと、そうでなくても。
私が私のまま、ここにいるのなら。
きっと、どっちも私自身の答えになるのだから。
そんなふうに思いを巡らせていくうちに、何かがすとんと落ち始めた。
心の奥底。感情に嵌まっていく、最後のピース。
この数日間。私とニコちゃん。二人で過ごした旅路。
終わりゆくニコちゃんを連れ歩いて、色んな“終わり”を見つめてきて。
そうして最後に、私とニコちゃんの“終わり”に向き合っている。
ああ。なんて言えばいいんだろう。
悲しいのに。つらいのに。
この気持ちだけは、すっごく清々しくて。
とても幸せで、仕方がない。
「……うん」
――ねえ、イト。
――ニコちゃんと一緒に居て。
――どんな気持ちだった?
「そうかも」
そんなことを考えてみて。
ただ一つ、答えが浮かんできた。
「こういうのが、恋なのかも」
なんだか、頬が仄かに熱くて。
胸の奥底が、ひどく暖かかった。
微笑みと、喜びが、止まらなかった。
◆
『あたしはさ』
『こんな生き方しないで済むんなら』
『それが一番だと思うよ』
記憶。フラッシュバック。
『だから、基本は突っぱねる』
『軽はずみに首突っ込んでる奴とか』
『シネ横みたいな連中とかはさ』
追憶。いつの日かのやりとり。
『……でもさ』
『あたしさぁ』
『なんだろ』
『こう』
“あの娘”は、言葉を詰まらせて。
『なんていうかさ』
『あんたは、いてほしかったんだよね』
複雑な想いを込めて、はにかんでみせる。
『イトは……あたしといっしょで』
『何かを諦めてるのに』
『何かを愛したがってるから』
私の手を握る、“あの娘”のぬくもり。
『あたしも、あんたも』
『最初に“パパ”がいて』
『今も、“パパ”がいて……』
『うん。そういうとこ』
おんなじだから、一緒にいられる。
『やめたかったらさ』
『やめてもいいけど』
『イトは――』
『まだ、ここにいるでしょ?』
ああ。振り返ってみれば、やっぱり。
『そっか』
『だよね』
『……よかった』
これって、告白みたいなものだったんだろう。
◆
♪バースデー、バースデー。バババババースデー。
私とトシキくん、二人でハモって歌唱。
♪バースデー、バースデー。バババババースデー。
かつてニコちゃんから聞いた、ホストクラブじゃ定番のコール。
♪バースデー、バースデー。バババババースデー。
姫やキャストが誕生日のときには大抵これを歌うらしい。
♪バースデー、バースデー。バババババースデー。
やっぱEdenってほぼプチホストじゃん、と思ったのは内緒。
♪今日はトシキの誕生日。わっしょい。姫の愛に感謝です。わっしょい。
コール担当はパパ活女子と、へび頭の宇宙人。主役は眠り姫。
奇妙な三人組が、もうこの世にいないホストの誕生日を祝っている。
ひどく滑稽で、不思議な状況だったけれど。
傍から見たら、妙ちくりんだったけれど。
それでも私は、何かに背中を押されるように、イベントを進めていた。
義務感なのか。責任なのか。友情なのか。きっと、どれも正しい。
けれど、一番の気持ちは――敢えて言うなら。
ニコちゃんはもう“降りる”から、悔いなく送らなきゃいけないのだ。
出だしのコールの勢いだけで、なんとか場を盛り上げて。
それから再び、ちょっとした沈黙が訪れる。
「で、僕からのコメント?」
「うん」
「やんなきゃダメ?」
「がんばって」
「しょうがないなぁ」
“まむし頭”のトシキくんが、マイクを片手に握る。
今にも天井に届きそうな背丈で、ひょろりと突っ立って。
これから吐き出す言葉に迷うように、唸ったままでいる。
「そうだねえ……」
のらり、くらり、首を揺らすトシキくん。
ぶっつけ本番。無茶振り。当然、言葉も詰まる。
それでも私は、じーっとトシキくんを見上げる。
私もトシキくんも、正しいシャンコのやり方なんて知らない。
メンコン狂いなのはあくまでニコちゃん。私は付き添いである。
トシキくんに至っては今じゃ立派な(?)宇宙人だ。
お互いよく知らないまま、見様見真似でやっている。
さっきのコールもニコちゃんのおかげで覚えていただけである。
それでもトシキくんは、言葉を考えてくれている。
うんうんと唸りながら、言葉を絞り出そうとしている。
何だかんだ言って、彼なりに筋を通そうとしているのかもしれない。
申し訳なさのような、有り難さのような。
なんだか奇妙な気持ちがこみ上げてくる。
そして、暫しの間を置いた後。
すぅと一呼吸して、トシキくんが口を開く。
「まずは、ごめんなさい」
トシキくんが、ぺこりと頭を下げた。
まむしの頭で、何処かぎこちなく。
「“まむし”のせいで、バースデーがこうなってしまったので」
淡々と、黙々と、ざらついた声で紡ぐ。
ざりざり。ざりざり。砂嵐のような雑音が揺れている。
「だからこれは、せめてもの償いです」
色々と思うところもあったけれど。
それでもトシキくんの感情は、やっぱり読み取れない。
何を考えながら、言葉を伝えているのか。
霧のように飄々としてて、私には掴みきれなかった。
それでもトシキくんについて、確かなことがあるとすれば。
「きょう誕生日を迎えたトシキくんに」
曲がりなりにも、謝ってくれて。
「トシキくんを祝いに来てくれたお姫様に」
曲がりなりにも、付き合ってくれて。
「感謝の意を込めて、乾杯です」
曲がりなりにも、祝ってくれているというとだ。
“本物のトシキくん”のバースデーを。
ニコちゃんが待ち望んでいた、今日という日を。
「ほい、イトちゃん」
「どうも」
そうしてトシキくんは、一礼をした後。
こちらの方へ、すっとマイクを差し出してくれた。
私はそれを受け取って、顔の前へと持っていく。
そのまま私は、座席から立ち上がる。
もう、分かっていた。
この時間。この瞬間。
ここが旅の終着点なのだと。
思うところは、沢山あるけれど。
今やらなきゃいけないことは、たった一つ。
――そうだよね、ニコちゃん。
すぅ――深呼吸を、数回。
息を整えて、まっすぐに真正面を見つめて。
シャンパンタワーのてっぺんの一杯を、ひょいっと手に取る。
そのまま迷うことなく、自分の口に運んだ。
ぐい、ぐい、ぐい。
グラスのシャンパン、ガブ飲み。
しゅわしゅわと泡立つ液体を、躊躇いなく呑み下していく。
甘ったるいアルコールの熱が、喉を通って落ちていく。
そうして一気飲みを果たして、ぷはぁと空になったグラスをテーブルの傍に置く。
顔が赤い。頭があたたかい。
あっという間に、勇気のようなものが込み上げてくる。
クスリに比べれば、高揚感はささやかだけど。
少しばかり、景気付けをさせてもらった。
険しくなっていた表情を、微笑みへと切り替える。
大丈夫、大丈夫。まるで自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
勇気が必要だった。
とにかく、踏み出さなきゃいけなかった。
だって、これからやることは。
私にとってすごく怖くて、けれど大切なことだったから。
◆
『ねえ、イト』
『あたしと一緒にいて』
『楽しかった?』
『あたしは、楽しかったよ』
『あんたと、ずっと過ごせて』
◆
マイクを、両手で握り締めて。
私は静かに、言葉を紡ぎ始める。
「ニコちゃん」
とっくに分かっていた。
永遠に続くように思えた何かが、私達に別れを告げようとしている。
神様がくれたほんの僅かな猶予が、じきに終わろうとしている。
「これで良かったよね」
私とニコちゃん。
いつも一緒。二人でひとつ。
掛け替えのない、無二の親友。
愛するひと。きっと初恋の、大好きなひと。
「ずっと、楽しみにしてたもんね」
けれど。
私がどれだけ想ってても。
私がどれだけ祈り続けても。
ニコちゃんは、もういなくなる。
それだけは、変えようのない事実だった。
「トシキくんのこと、ちゃんと祝ってあげなきゃさ」
神様は、慰めであり、支えであり。
生きる誰かのための、拠り所であり。
けれど、奇跡を叶えたりはしない。
神様は、都合の良い力なんかじゃない。
訪れる結末は、幾ら願っても変わらない。
「死んでも、死にきれないよね?」
だからこれは、ニコちゃんの葬式だ。
後腐れなく、ニコちゃんとお別れするための儀式。
「ねえ、ニコちゃん」
私は、この旅を終わらせようとしている。
ちゃんとやりきって、区切りをつけて。ニコちゃんが死ぬことを、“本当のこと”にしようとしている。
「ニコちゃん……」
だって、そうしないと――夢と現実のはざまを、ニコちゃんはずっと彷徨い続けることになるから。
「ニコちゃんは、何処かにいっちゃうんだよね?」
私の中で、ニコちゃんがいつまでも生き続けたら。ニコちゃんは今度こそ、何処にもいけなくなる。
私に居場所をくれたニコちゃんを、私の影にしたくない。私に縛られ続ける、曖昧な亡霊にしちゃいけない。
「……また、会えるよね」
けれど、それでも。
これでお別れなんかじゃない。
だってひとは、いつか必ず死ぬから。
「いつか、遠いところでさ……」
その時がいつ訪れるかなんて、分からない。
結局、若くしてぽっくり逝っちゃうのかもしれないし。何だかんだしぶとく生きて、おばあちゃんにでもなっちゃうのかもしれない。
未来なんて分からないけど、死ぬことだけはどう足掻いても覆せないものだから。
「今度は私が、ニコちゃんを見つけるから」
だからニコちゃんとは、いつか同じところに辿り着ける。
そうして遠い彼方でまた会えたら、今度こそ“ずっと一緒”になれるから。
「私の方から、ニコちゃんに話しかけてあげるから」
そのときは、私が声を掛けあげよう。
あの日のニコちゃんみたいに。
私のことを救ってくれた、かつての貴女みたいに。
「ニコちゃん」
いろんな過去が、思い出が。
走馬灯みたいに、記憶として押し寄せてくる。
「楽しかったよ。ずっと一緒にいられて」
大都会。雑踏の片隅。薄汚れた路地。
落書きに溢れて、ゴミが散らかって、鼠が這い回る。
そんな光景をよそに、私と貴女は手を繋ぐ。
「楽しかったよ。ばかになっちゃってからも」
悪くて、汚くて、腐ってて、疲れ果ててて。
神様を見失った街の中を、私たちは笑顔で駆けていく。
「二人で一緒に、ずっと旅ができて……」
イトとニコ。この街で出会った、二人の女の子。
神様を見失って、彷徨って、やっと光のかけらを見つけた。
ひどくみじめで、ひどくしあわせなアリス。
「だから」
きっと、代わりなんて二度と見つからない。
貴女の代わりは、絶対にいるはずがない。
そんなニコちゃんと、お別れをしなきゃいけない。
「だから……」
言葉が詰まる。言葉が消える。
喉に引っかかって、何も言えなくなる。
沈黙が、この場に横たわる。
静寂の中で、何かが訪れてくる。
それは朝焼けのように物静かで。
ひどく、遣瀬ないものだった。
「――ニコちゃん」
あの娘の名前を、もう一度呼んだ。
その瞬間に、心のなにかが崩れた。
◆
確かな納得を手に入れたくて。
いくつもの言葉を重ねたけど。
行き着くところは、ただ一つ。
ニコちゃんは、こうして死ぬ。
ただ、それだけのことだった。
ニコちゃんに恋しているから。
感情の行き着く果ても決まる。
波のように、押し寄せてくる。
哀しみと切なさがやってくる。
ニコちゃん。――ニコちゃん。
遠いとこ、行っちゃうんだね。
◆
どんっ。
ほんの微かに響く衝撃。
勢いよく床に衝突した黒い塊。
見開かれる両眼。唖然とする身体。
感情が、思考を飛び越えていた。
考えるよりも先に、心が震えていた。
まるで振り下ろすみたいに、私はマイクを投げていた。
自棄糞に、力任せに、乱暴に、床へと叩きつけたのだ。
きぃんっ――。
スピーカーから、甲高い怪音が響く。
引き裂かれるような、金切り声みたいに。
あるいな、感極まった慟哭か何かみたいに。
コンクリートに広がる波紋のように、マイクは絶唱にも似た叫び声を零す。
悲鳴を上げながら壁際まで転がっていったマイクをよそに、私は沈黙する。
マイクを放り投げた自分自身をふいに俯瞰して、我に返ったように口元を震えさせる。
――何やってるんだろ。
それは、今の自分の行動に対する疑問だった。
溢れ出る感情に突き動かされた、自分自身への問いかけだった。
眼の前の“へび人間”は、何も言わない。ただじっと、私のことを見つめているらしい。
私に答えを与えてくれたりはしない。私だけが自分を省みられる。どうやら、そういうことらしい。
――何をしているんだろう。
私は、自分に問いかけようとした。
けれど、答えは上手く出てこなかった。
絞り出そうとしても、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
悲しさとか。虚しさとか。
嘆きとか。遣る瀬無さとか。
怒りとか。憎しみとか。
なんだか、色んなものが掻き混ざっていく。
形を掴みきれなかった想いが、あべこべになって零れ落ちていく。
視線は、落ちたままだった。
視界にあるのは、床とテーブル。
マイクを放り投げた時から、意識はずっと留まっていた。
感情の行き場を、上手く見いだせないままだった。
沈黙と静寂の中で立ち止まって、困惑と動揺に飲まれる。
自分自身を掴めなくて、宙に放り出されたような感覚に絡め取られる。
何だろう。何なんだろう。私はいったい、どうしたんだろう。
答えはやっぱり、上手く導き出せない。
それでも、私は。
そうしなければならない、と。
何故だか、思ってしまったから。
――だから。
そうすることに、したのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと。
その場から、視線を上げて。
“あの娘”のことを、見つめた。
「ニコちゃん」
ニコちゃんは、ソファにもたれかかってる。
瞼を閉じたまま、じっとしている。
顔はすっかり白くなってて。
吐息の音さえも、聞こえてこない。
指先ひとつすら、ぴくりとも動かない。
ただそこで、私の友達は、静まり返っていた。
「ニコ、ちゃん」
そんなニコちゃんを見つめた瞬間から、胸の内の何かがどっと溢れ出す。
私の中で渦巻いていた感情のぜんぶが、あの娘への想いになっていく。
それを自覚して、やがて気持ちが堪えきれなくなって。
そうして私は、打ち拉がれるように、言葉をぽろぽろと零していく。
「ねえ、ニコちゃん……」
私の目の前に横たわっているもの。
“大切な友達がいなくなる”という、変えることのできない現実。
――ニコちゃんは、ちゃんと葬ってあげないといけない。
そう願って、私はトシキくんの誕生日を祝うことを選んだ。
背伸びして胸を張って、気丈に振る舞って、友達のために最善を尽くそうとして。
ニコちゃんが死ぬことを、前向きに受け入れようと努力した。
ニコちゃんを弔って、送り出して、悔いのないように終わらせようと頑張った。
ああ、けれど。
それでも――どうやら。
心というやつは、やっぱり。
他の何よりも、純粋だったらしい。
「ニコちゃんっ……」
気がつけば“それ”は、私の頬を伝っていた。
ほんのりと温もりの篭った、感情のかけらが滴り落ちた。
それが何なのかを理解するまで、そう時間は掛からなかった。
――泣くのって、いつぶりだろう。
そんなことを、ふいに考えた。
最後に泣いたのは、たぶんだけど、初めて身体を売った日。
つまり、ニコちゃんと初めて出会った頃。
ニコちゃんと友達になってから、泣くことなんてなかった。
ニコちゃんと友達になってから、悲しみを割り切ることが出来るようになった。
ニコちゃんと友達になってから、私はなんだかんだ、笑ってばかりだった。
だから、ほんとうに、久しぶりだったのだ。
泣き方というものを、忘れそうな気さえしていた。
涙なんてものは、もう尽きていると思っていた。
――ニコちゃんも、そうだったらよかったのに。
脳裏をよぎるのは、ニコちゃんの泣きじゃくる顔。
過去のトラウマに苦しんで、嗚咽の声を零して、小さなこどものように啜り泣く、そんなあの娘の姿。
私は泣き方を忘れてたけど。ニコちゃんは、そうじゃなかった。
そのことだけが、ひどく哀しくて――そんな想いさえも、今の涙に入り混じっていく。
「ニコちゃぁん……っ――――」
ニコちゃんが、いなくなる。
それはすごく、ものすごく、つらくて。
こんなにも、涙が止まらなくなる。
天国の扉を叩くことを、決めたのに。
それでも私は、こうなってしまう。
気がつけばもう、立っていられなくなっていた。
私は泣きながら、前のめりに腕を伸ばした。
ソファの端っこに座ったままぴくりとも動かない、ニコちゃんの身体に触れる。
そうして私は、ニコちゃんへと縋るようにへたり込んでしまった。
ニコちゃん。ニコちゃん、ねえ、ニコちゃん――。
私はずっと、名前を呼び続けた。
もう何も言わなくなってしまった、あの娘の名前を。
返事もないし、反応だって戻ってはこない。
それでも私は、ただ友達の名前を、呼んでいた。
悲しみとか、切なさとか、押し寄せてくる感情に心を掻きむしられて。
ただひとりの親友を――大好きなひとを求めて、寄り添っていた。
周りのことなんか、もう見ていなかった。
どころか、気にも留めていなかった。
今の私が感じているのは、ニコちゃんだけだった。
どれだけ泣いても、どれだけ呼んでも、彼女は応えてはくれない。
分かっている。分かりきっている。
でも、ニコちゃんはここにいる。
確かに、確かに、ここに存在している。
だから私の心は、ニコちゃんだけを見つめている。
この娘に寄り添うことしか、考えられない。
――そんなんだから、気付くのに遅れた。
涙を流して、その名前を呼び続けていた最中。
私とニコちゃんを上からぬらりと覆ったのは、形のない真っ黒な影だった。
まるで木か柱か何かみたいに、そいつはひょろりと伸びていた。
ニコちゃんに縋っていた私は、やっと“それ”の存在に気付いた。
目元から涙を溢したまま、ぽかんとした表情で呆気に取られる。
暫くの沈黙。暫くの静寂。口が微かに震えて、心が揺らいでいく。
哀しみに高ぶった感情に水を差されて、微かな困惑に囚われる。
やがて忽然と現れたその影へと、私はゆっくりと視線を向けた。
私たちを覆うように現れた黒い影の正体――いつの間にか傍まで来ていた、トシキくんだった。
トシキくんは、その大きな身体で、ぼんやりと私たちを見下ろしていたのだ。
佇むその姿は、やっぱり枯れ木のように細長くて、どこか無機質だった。
表情もなんにもない眼差しで、私たちをじっと見つめている。
裂けた口の端から零れる吐息は、薄い霧みたいにふわふわと漂っていた。
相変わらず、鉄と酒の入り混じったような匂いが仄かに鼻を突く。
ニコちゃんに触れたまま、私は振り返ってトシキくんを見上げていた。
トシキくんは、人間味を感じさせない“へび顔”を、ぽつんとこちらに向けている。
妖しげな照明に照らされた黒い鱗が、漆か何かみたいに鈍く光っている。
しん、と静まり返っていた。
目元を赤くした私と、物言わないニコちゃん。
そして、ただそこに突っ立っているトシキくん。
バースデーの祝福も、形振り構わずに流した涙も、静寂の中へと緩やかに沈んでいく。
残されたものは、見上げる“私たち”と、見下ろすトシキくん。
やがて、ぬるりと何かが伸びた。
黒く細長いものが、ゆっくりと私たちの前へと突き出された。
それがトシキくんのヒョロっとした右腕であることに気付くのに、そう時間は掛からなかった。
トシキくんは、背中を丸めた前屈みの姿勢になっている。
緩やかに伸びたトシキくんの右手は、まるでUFOキャッチャーのクレーンみたいにぎこちなく動いていた。
そうしてゆっくりと下ろされた掌は――私の頭へと、そっと据えられていた。
わしゃ、わしゃ、わしゃ、わしゃ――。
鱗で覆われた黒く冷たい掌が、髪の上から私の頭を撫でていた。
その手つきは、何というか。さっきニコちゃんの頭を撫でていた時みたいに、か弱い子犬でも愛でるみたいな。
けれど――なんか、ちょっと違う感じもする。
何処か不器用で、妙にぎこちなさがあるような。そんな何とも言えない仕草だった。
髪が乱れるかもとか、そういう気遣いも特に無くて。トシキくんはただ何も言わず、私の頭を撫で続けていた。
視線を上げて、トシキくんの表情を伺ってみた。
――真顔。無表情。相変わらずの“へび頭”が、其処にあるだけだった。
けれどトシキくんの大きな右手は、まるで私を慰めるみたいに、頭を淡々と掻き撫でている。
不器用に慈しむような手に、私はただ身を任せていた。
止め処無く溢れていた涙が、少しだけ引いたような気がした。
暖かさとか、温もりとか、そういうものを感じたというより。何処か、呆気に取られていた。
「……トシキくん」
「うん」
「なにしてんの」
「まあ、なんというか――」
なんだか、へんな感じがした。
“友達”の終わりを前にして、“宇宙人”に慰められてる。
それも、この“まむし禍”の原因となった張本人――ニコちゃんがこうなった元凶みたいなヤツに。
私は慈しまれて、哀れみを向けられている、ような気がする。
安らぎのような、腑に落ちなさのような、なんとも言えぬ気持ちが入り交じる。
「こうしなきゃいけない気がしたから」
――こんな“へび人間”になっちゃっても。
根っこの心には、まだ“トシキくん”が残っているのだろうか。
答えは分からない。答えを聞く気も起きなかった。曖昧なまま、私は漠然と身を委ねる。
もっとコイツをちゃんと憎んだ方が良いのかもしれない、なんてことをふと思った。
けれど、もう誰かを憎む気はなれなかった。憎んだって、ニコちゃんは帰ってこない。憎んだところで、私は納得を手に入れられない。
「……あのさ」
そうして私は、ぽつりと言葉を零した。
こういう妙な温度には、何となく覚えがあったから。
「“パパ達”もさ」
夜の街。駅前とか、公園の前とか、繁華街のランドマークの前とか、お洒落なお店の前とか。行き交う人達の流れに紛れ込むように、ぽつんと待ち続ける。
そうしてやってくる“パパ”は、大抵ニヤニヤと微笑んでて。“これからの時間”を、楽しみに待ち侘びている。
それで――私に、スキンシップを取ってくることもあった。
それはトシキくんがニコちゃんにやるような、仔猫を愛でる手付きともちょっと違ってて。
「たまに、私の頭とか撫でてきたんだよね」
まさに、こんなふうに。
不器用な手つきで、ぎこちなく、私の頭を撫でたりしてくるのだ。
“パパ”と違って、トシキくんはもっと無機質な感じだ。まるで人間の仕草をよく知らないなりに、そのまま真似しているみたいだった。
「何なんだろ。あれ」
――なんで、そんなことするんだろう。
見当はついてるのに、理由なんてぼんやりと分かっているのに。
何故だか私は、トシキくんを相手にぼやいてしまった。
トシキくんは、私を見下ろす。
ほんの少し考えるように、沈黙してて。
それから間を置いて、ぽつりと“答え”を返した。
「君が“子ども”だからだと思うよ」
淡々と紡がれた言葉は、あまりにも簡潔で。
けれど。私たちが何者なのか、それを再び思い知るには十分な一言だった。
このときの私がどんな顔をしていたのか、自分でも知る由はなくて。
けれど胸の内では、色んな感情が渦巻いていて。その全部が入り混じって、最後には何故か“安心”のようなものが残されていた。
なんでだろう、と私は自分を見つめた。
それから間もなく、私は答えを見つけた。
結局のところ、私たちは“子ども”だ。
夜の街に出て、年の離れた男の人達と関係を持って、なけなしの金を手にして――そうやって背伸びしても、私たちは10代の少女でしかない。
パパたちはそれを知ってて、そのことにお金を払っているのに、敢えて目を逸らしていた。
パパたちは、きっと“大人”という責任を捨てることで、私たちを買ってて。
けれど“大人”だからこそ、私たちに値打ちをつけることが出来る。
そんな矛盾によって、私たちとパパは成り立っている。
私たちは、本当の意味での“パパ”には愛されない。
だってお金を介したことで、“大人と子ども”のあるべき姿を壊してしまったから。
だからこそ――私たちを“子ども”扱いして、慰めてくれる“誰か”がそこに居たことに、安堵してしまった。
ただ、それだけのことだった。
それを言ってくれたのが、地球侵略を目論む“宇宙人”だったというのは、何だかひどく滑稽な感じがした。
言いようのない感情の果てに、再び涙が零れ落ちて。安堵と可笑しさの入り混じった奇妙な笑みが、ふいに口元へと浮かんできた。
それから私は、右手を伸ばした。
何も言わなくなったニコちゃんの冷たい手に触れた。
そうして、ぬくもりを失った手をギュッと握り締めた。
大丈夫だよ、ひとりじゃないよ――そう伝えるように、私は微笑みを浮かべ続けていた。
◆◇◆◇
左手に、くしゃりと潰れた紙切れ数枚。
神様を見失って、自分の純潔と引き換えに手に入れたもの。
なけなしのお金。数万円。私のカラダの価値。私が差し出したものの値打ち。
右手に、あの娘のぬくもり。
神様を取り零した私が、手探りで掴み取った信仰。
親友。相方。大切なひと。大好きなニコちゃんの手を、ぎゅっと握り締める。
ちっぽけな“子ども”ふたり。
“大人”に自分を差し出して、ささやかな幸福にすがっていく。
自分たちの可能性を捨てて、未来から見放されていく――そんな“私たち”だけど。
こんな世界で、微かにでも。
神様というものを、見つけられたなら。
ほんのちょっぴりだとしても、救われるのだ。
みんなが何かに祈れて、みんなが報われる。
願わくば、そんな世界が訪れますように。
◆◇◆◇
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