⑨ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(前編)

◆◇◆◇



「ねえ」


 荒れ果てたコンカフェの店内。

 メインのカウンター席と、その傍にこじんまりとしたソファのテーブル席三つ。

 色々なものが散乱して、砕けたりしてて。

 赤黒い汚れが、あちこちにこびりついてる。


「あなた達が“まむし”の原因なんだよね」


 カウンターの座席に腰掛けていた私は、すぐ隣に座っている“へび頭の怪人”に問いかける。

 2メートルを超す体格を持った異形の宇宙人が、私のことをぬらりと見下ろしている。

 執事風メンズコンカフェ『Eden』のキャスト、トシキくん――だったはずの存在。言うなれば、元トシキくんである。

 

 コンカフェはホストと違って、カウンター越しに接客しないと風営法とかなんとかに引っ掛かって色々とマズいらしい。

 でも、今のトシキくんはもうお構いなしだ。ぐびぐびとシャンパンをラッパ飲みしながら、客側の席にふてぶてしく居座っている。


「ニコちゃんのこと、助けられる?」


 そんなトシキくんに、“まむしの宇宙人”に、私は聞いてみた。 

 ――変なの。私(あなた)は、ずっと夢の中を彷徨ってきたのに。今さら聞いたって遅いのに。

 私の中で、誰かが意地悪に囁いてくる。それくらい、とっくに分かってる。

 私がそれを望んだから、ニコちゃんをここまで連れてきたのだ。

 そして、眼の前へと立ちはだかった現実に揺さぶられて、私はほんの少し“しらふ”へと戻ってしまった。


「ごめんね、それは無理」


 それからさしたる間も置かず、即答で返事が戻ってきた。

 へびの両眼が、ぎょろりと私を見つめる。合成音声みたいに無機質な声が、ざらざらと不気味に響く。

 その裂けた口から零れる吐息は、酒と鉄が入り混じったような変な匂いがして――私は思わず眉間に皺を寄せてしまう。


「その状態になった時点でもうダメ」


 ニコちゃんは、ソファー席で休ませていた。

 背もたれと肘掛けに寄りかかるみたいに、ぐったりとしている。

 呼吸はひどくか細くて、もう唸り声さえ上げてない。きれいな顔も、生気を失ったみたいに白くなっている。


「病院連れてった?その娘」

「ううん」

「それで正解」


 トシキくんはビシッと私を指差しながら言ってくる。

 私はきょとんとして、トシキくんを見つめることしかできない。


「……一応聞くけど、なんで?」

「連れてったところで治せやしないから」


 私の問いに対して、トシキくんはあっけらかんと答えてきた。


「“まむし”に脳をやられて、しかも変異にも失敗してる」


 へび頭のトシキくんは、横たわるニコちゃんを流し見つつ、飄々と言葉を続ける。


「つまり、後はもう衰弱していくだけってコト」


 要するにそれは、余命宣告だった。

 “もうニコちゃんは助からないし、じきに死にます”――そういうことである。

 不思議なくらい気張らない緩さで、トシキくんは伝えてきた。


 私はいったい、どんな顔をしていたんだろう。

 胸の奥底では、諦観のような感情が押し寄せていた。

 何かの終わりを見つめて、心は凪のように落ち着いていた。

 さっきまでの情動なんて、嘘だったみたいに。


 けれど、やっぱり。

 今のニコちゃんを見るたびに。

 ひどく、ひどく、切なくなる。

 夕焼けのように、哀しくなる。


 あと少しの幸せな夢を、神様に願った。

 ニコちゃんの――“私達”の望みを叶えるために、此処まで来た。

 縋って、祈って。なけなしの命を、必死に追い求めて。やがて辿り着いた先に、こんな奇妙な現実が待ち受けていた。

 全てが掻き乱されて、私はそこに呆然と佇んでいる。

 

 ねえ、ニコちゃん。まだ聴こえますか。

 ニコちゃん、やっぱりもう助からないみたい。

 おまけにトシキくんは、こんなになっちゃってる。

 これから、どうしよっか。





 でん、でん、でん、でん――。

 ソウルフルなメロディが、ふいに響き渡る。

 メロウで儚げなビートが、店内のスピーカーから飄々と流れ始める。

 

 過去と未来。自分の人生から目を逸らして、生と死のはざまを彷徨い続けてきた。 

 何処にも辿り着けない旅。しゃぼん玉のようにふわふわ漂うだけの日々。これは夢から抜け出せなかった、私たちへの罰なのかもしれない。

 

 パキって、パキって、パキって、パキって。

 何度もパキって。ばかになって、だめになって、何もかもがあべこべになって――。

 

 そんなふうに自分をずっと傷付けてきたから、とうとう現実と空想の境目がぶっ壊れた。 

 虚実の最果てへと至ったアリスは、空の向こうからやってきたジャバウォックに出会ってしまった。

 少女と怪物。それぞれの世界を彷徨って、同じ場所で交錯を果たした。


 ここは謂わば、終着点。

 宇宙の果て。暗い闇の彼方。

 そこに境界線は存在しない。

 全てが飲み込まれて、ぐちゃぐちゃになるだけ。

 

 世界の終わりは、もう間近に迫っている。

 どこか滑稽で、調子外れなユーモアと共に、そいつは飄々とやってくる。

 添えられるのは、ローファイなサウンド。

 ジャジーな旋律と共に、仄暗い夜明けがやってくる。





「“まむし”ってのは、寄生した生命体の脳を乗っ取るの」


 カウンターテーブルの傍ら。私の直ぐ側にグラスが置かれている。

 カラメル色の液体が注がれた器は、さっきからしゅわしゅわと泡を立てている。

 コーラである。ホントはドクペが良かったけど、店には置いてないのでこれで妥協である。


「脳の思考回路を食い破ることで地球人固有の思念を破壊して、更にそっから神経細胞を侵食して肉体を変異させます」


 現トシキくんは店の内装をよく分かっていなかった。

 “冷蔵庫まだコーラあるよね”と聞いてみても、きょとんとした顔で“冷蔵庫ってどこ?”と聞き返された。

 トシキくんとして体験した記憶はもはや欠けたパズルみたいに朧気になっているらしい。

 結果、いちおう客であるはずの私が冷蔵庫の位置を教えてあげることになった。

 ニコちゃんに何度も連れられてるせいで自然に覚えてしまったのである。


「そうやって“まむし”は宿主の身体を変化させて、一度壊した脳も肉体に合わせて作り変えちゃうの。で、最後は身も心も宇宙人になります」

「何それ……こっわ」

「未成年の娘がこんな店来てるのも怖いからね」

「確かに」


 トシキくんはすっかり奇天烈な姿になってるくせに、こんなど正論を言われたら型なしである。

 宇宙人のくせに変なところでまともだ。何とも癒えない気持ちになって、私はコーラを一口こくりと飲む。


「なんでそんなことすんの」

「地球侵略のためだけど」

「マジか」


 それからトシキくんは、あっけらかんと答えてくれた。

 まともぶってるくせに、えらく物騒な目的だった。


「いや逆に何だと思ったの」

「なんだろ……なんか地球に来ちゃった的な……?」

「えらくアバウトだね」


 トシキくんから呆れられてるけど、実際“まむし”が地球に来た理由なんてよく分からなかった。

 なんか急に現れて、なんか急に蔓延したみたいな。そんな感覚で捉えていた。

 

 宇宙からやってきて、この星まで辿り着いてきたらしいことに、ちょっと思うところはあった。

 私とニコちゃんは、何処かに留まり続けている。けれど“まむし”は、きっと遠い旅の果てに此処まで来ているのだ。

 

「“まむし”を散布することで地球人をみんな同族にして、星をまるごと乗っ取っちゃおうって計画だったの」


 そんなふうにちょっと感傷に浸っていたけど、トシキくんはやっぱりなんてことのない様子で物騒な計画を語ってくれた。 

 “まむし”による完全変異が完了した瞬間に、遺伝子を通じて宇宙人としての知識と使命が脳内にインプットされる――とのこと。

 元はトシキくんなのに、どうりで詳しいわけだ。宇宙人にとっちゃ便利なシステムである。

 そうやって地球人を丸ごと乗っ取り、仮に乗っ取られなかった人類がいたとしても数の力で根絶やしにしてやろう、ということだったらしい。


「まぁ、でも……地球人の構造との相性が今ひとつだったんだよね。免疫機能で普通に撃退されちゃうし」


 けれど、“まむし”の殆どは無症状のまま死滅している。それくらいはみんな知っている。

 とにかく“まむし”は物凄く沢山いて、もう色んな人が感染してるけど、それで体調を崩すのはごく少数。

 ウイルスみたいにめっちゃ小さい寄生生物でしかないので、二次感染とかも起きないらしい。

 だから行動制限の必要がホントにあるのかどうか、みたいな話も一杯あったらしくて――まぁ、詳しいことはよくわかんないけど。

 

「ごく僅かな個体が運良く脳を侵食できたけど、そういう“まむし”も免疫にやられて瀕死になってたりして、結局は地球人を中途半端にしか変異させられないケースが殆どだった」


 ――言うなれば“不完全体”、とトシキくんは言う。

 やがてトシキくんは、ぬらりと首を動かす。

 視線を向けた先にいるのは、ソファにぐったりともたれかかるニコちゃん。

 

「“不完全体”の地球人って、宇宙人になれないまま身体機能だけがボロボロになってるからね。だから、大抵はそのまま拒絶反応で衰弱死してるんだけど――」


 シャンパンの瓶を片手に握り締めたまま、トシキくんは緩やかに立ち上がる。

 まるで枯木のように細長くて、ぬらりとした佇まい。見窄らしくも見えるのに、不安定に大きな体格が異様な存在感を放っている。

 そんな出で立ちだから、ただ見上げるだけでも気押されてしまいそうになった。


「たまーに脳や身体が半端にぶっ壊れたまま生き延びた個体もいたらしいんだよね。ウチの仲間によると」


 のそ、のそ、のそ。さっきから流れてるローファイなビートに似つかわしい、緩慢な動作でトシキ君が歩く。

 いちおうは酔っ払っているのか。それとも、単にのんびりしているだけなのか。

 答えは分からないけど、そんなゆったりとした動きでトシキくんはニコちゃんへと近寄る。


「君の友達も、そのうちの一人ってコト」


 ソファにもたれかかるニコちゃんを、トシキくんが見下ろす。

 そのまま左手をゆっくりと伸ばして、ニコちゃんの頭を撫でていた。

 まるで弱った犬や猫を慈しむみたいに、穏やかな手つきだった。

 

 表情はずっと変わらない。表情があるのかもよく分からない。

 今のトシキくんは、何を考えているのか分からない。

 ぎょろっとした眼でじっと見つめて、裂けた口でしゅーと唸ったりするばかり。

 ニコちゃんが好きだった“人間のトシキくん”の面影は、もう何処にもない。


 ――私は、トシキくんの話したことを振り返る。

 “まむし”は宇宙人が差し向けた寄生生物。

 ホントはそれで地球をまるごと侵略する予定だった。

 けれど、地球人と“まむし”の相性が悪くて上手くいかなかった。

 大半は死滅したけど、半端な形で寄生に成功しちゃう“まむし”もいて。

 そいつらは拒絶反応を起こして、宿主を死に至らしめたり。

 宿主の思考力とかだけ破壊して、上手く変異できずに終わっちゃう奴らもいた。

 

 つまり、それが今のニコちゃん。

 たぶんアズサちゃんも、そういうことだったんだと思う。

 

 どっちもヘンになってた――つまり“ばか”になっちゃってた。

 会話すらおぼつかないニコちゃんと、感情が不安定なアズサちゃん。

 二人とも生身にしては明らかに固くて、おまけにアズサちゃんは馬鹿力の持ち主だった。

 身体もちょっとは変化してて、けれど宇宙人にはなりきらなかった――きっとそういうことなんだと思う。


 衰弱し切ったニコちゃんに触れるトシキくん。

 黒い鱗に覆われた細長い指が、ピンク色の髪を軽く掻き分ける。

 ニコちゃんは、何の抵抗もしない。何も反応しない。

 私はコーラを一口飲んで、その様子を見つめていたけど。


「ねえ」

 

 さっきまでの話を頭の中で反復して、物思いに耽った。

 そうして胸の内に浮かんだことを、私はトシキくんに問いかける。


「トシキくんは、運が良かったの?」

「そういうことです」


 ――僕は、本当に貴重な“完全変態に成功した地球人”。

 ――宿主の遺伝子が“まむし”と奇跡的に噛み合った。

 ――だから、何事もなく変異できたってワケ。

 

 トシキくんは、抑揚のない調子でそう語る。

 その答えを聞く私は、なんの表情も浮かべていなかった。

 ただ真顔のまま、不条理な事実を受け止めていた。


 私はふいに、周囲の様子を横目で見た。

 血みどろに汚れた床。赤黒い染みのような液体は、奥側のスタッフ専用の部屋へと伸びている。

 何が起きたのかなんて、聞く気にもなれなかった。

 アズサちゃんだって、あんだけの怪力を持っていた。

 本物の宇宙人であるトシキくんにも、あれくらいのことは朝飯前なのだろう。

 

 他のキャスト達の姿は、やっぱり影も形もない。

 自分の存在をバラされる前に口封じとか、単に邪魔だったとか。

 凶行に走る理由なんてものは、幾らでも思い浮かぶ。

 私がこうして生かされているのは、ちょっとした奇跡みたいなものかもしれない。

 

 今のトシキくんは、飄々としてて、のらりくらりとしてて。

 どこか間の抜けた雰囲気もあるけれど、“今まで”のトシキくんとは何もかもが違う。

 

 それから少しの間を開けて、私はまた口を開く。

 視線はもうトシキくんには向けていなかった。

 私が見つめていたのは、たったひとり。

 

「……ニコちゃんは、運が悪かった?」

「うん。そういうこと」


 奇跡的にハズレくじを引かされた、たった一人の親友。

 ニコちゃんは、もう何も語らない。呼吸だけが微かに聞こえる。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう――その吐息の音は、ずっと弱々しい。

 

 トシキくんは、もうニコちゃんに色目を使ったりはしない。

 気障ったらしい言葉で寄り添うこともないし、色恋じみた素振りも匂わせたりしない。

 ただ無機質な声で淡々と語って、死にかけた犬でも見つめるみたいにニコちゃんを見下ろすだけ。

 そりゃそうだ。今のトシキくん、人間じゃないんだから。


 ありふれた事故でお母さんを失って、お父さんまでおかしくなって。

 そうして全てを投げ出して、ずっとクスリと性に生き続けて。

 殆どが無症状で終わるはずの“まむし”のせいで、“ばか”になっちゃって。

 挙げ句の果てに死にかけて、最後の願いだったトシキくんもこうなってて。

 ――ああ。思えばニコちゃんは、今も昔もすごく運が悪い。


「ニコちゃんはさ――」

「潮時と判断されました」


 私はふいに思ったことを、喉の奥から溢しそうになったけど――トシキくんが、割り込む形で唐突に口を開いた。

 機械じみた声が、ざらざらと砂嵐みたいな音を出している。

 ニコちゃんを撫でる手は、もう止まっていた。行き場を失ったように、左腕をそのままスッと下ろしている。


「……潮時?」

「僕たちはこの星を去ります」


 きっぱり。トシキくんは、突然そんなことを告げてきた。

 急転直下の展開をいきなり突きつけられて、私はぽかんと口を開く。


「地球侵略は?」

「既に失敗です」


 ぽわん。トシキくんが、吐息を零す。

 酒と鉄の匂いが混じった白い息が、まるで霧のように薄く広がってゆらゆらと漂う。

 その奇妙な光景も、鼻につくような異臭も、私はもう気に留めていなかった。


「もう割に合わなくなっちゃったんだよね」


 そうしてトシキくんは、標識のように突っ立ったままつらつらと語り始める。

 

 ――“まむし”による地球人の乗っ取りは明確に失敗。侵略開始以降、宇宙人への完全変態が確認された地球人は惑星全体で32体のみ――。

 ――そうして侵略に出遅れている間に、各国の政府や機関が我々の存在を感知し始めて――。

 ――「宇宙人とコンタクト取りたい」って秘密裏に手を回してきたもんだから、色々厄介になってきて――。

 ――“まむし”の散布も頭打ちになり、現状では実力行使による地球制圧も困難を極めるため――。


「だから僕みたいな“完全体”だけ回収して、侵略は諦めようってことになりました」


 色々なんか事情を語っていたけれど、要するにダメだったってことで。私が真っ先に思ったのは「こんなのが32人もいるんだ」であった。

 そうして長々と連ねられた御託が意味することを、私は遅れてやってきた波のように理解していく。


 トシキくん、なんで私を口封じで黙らせたりしないんだろうって思ってた。

 要するに――もう帰ることが決まったから、わざわざ消したりする理由もなくなったんだろう。

 私がトシキくんのことを外にバラすか否かなんて、もうトシキくんは警戒する必要もない。どうせじきに帰るから。


 私の頭の中に浮かんだのは「そうなんだ」の一言。それからじんわりと遅れて、「なんで?」がやってきた。

 茫然とした想いが、ざあざあと潮が満ちていくように押し寄せてくる。

 沈黙の裏側で、困惑と動揺がごちゃ混ぜになって――感情の行き場がなくなっている。


 地球侵略のために“まむし”はばら撒かれて、でも上手くいかなくて。

 結局は成果も何もないまま、この宇宙人どもはそそくさと引き上げるというのだ。

 作戦は失敗で、もはや割りに合わない。だから地球にはもう用はないし、侵略も無意味だった。


 結局“まむし禍”は、宇宙人が勝手に失敗した侵略計画でしかなかった。

 勝手に始まって、勝手に行き詰まって、勝手に終わろうとしている。

 私達は、偶々そこに居合わせてしまっただけ。


 ――じゃあ、なんで。

 ――ニコちゃん。

 ――なんのために、“ばか”になっちゃったんだ。


 トシキくんの言っていることを飲み込むならば、ニコちゃんは特に意味のない犠牲だったということだ。





『ねー、トシキくん』


 いつの日かの記憶。たぶん、春先くらいのころ。

 カウンター席でぐでっとしながら、おつまみのチョコをつまんでいた。

 テーブルを挟んで向こう側。私はもそもそとチョコを食べながら、ふいに声を掛ける。 

 グラスを拭いていたメンズコンカフェのキャストは、ふっと微笑みながら私へと視線を向けた。

 その“お兄さん”は、気取った感じの爽やかな声で返事をしてくる。


『――なに?イトちゃん』


 ミディアムウルフの黒髪。垂れ目ぎみの顔立ちは、拘ってるらしいアイメイクによって柔和さが強調されている。

 細身な上に小顔なのもあり、中性的な雰囲気がことさらに際立っている。

 スキンケアもしっかりとやってるらしく、モデルか何かみたいに綺麗な色白である。 

 顔に関しては間違いなく美形。黒を基調とした執事風衣装を纏ったそのルックスは、アイドル顔負けと言っても差し支えはない。

 

 まあ、私は別にかっこいいと思ったことないんだけど。

 なんかスカしてるし、言うことはクサいし、人目のつかないところでニコちゃんと平気でちゅーしまくるし。

 今もこうして、うさんくさい感じに微笑んでいるのだ。 

 ともあれ――彼がニコちゃんの想い人、トシキくんである。


 相変わらず気障ったらしい雰囲気のお兄さんなのに、とうのニコちゃんからは物凄く入れ込まれている。

 思うところが無いと言えばウソになるけど、少なくとも店にいる間は気楽に話しかけられる仲なのである。


『ニコちゃんのこと、ぶっちゃけ好き?』

『それキャストに直球で聞く?』

『いーじゃん、別にぃ』


 私からの直球の質問に、トシキくんは苦笑いしながら相槌を打つ。

 ニコちゃんの相方として、私は思わずそんな疑問をぶん投げてしまったのだ。

 トシキくんっていつもニコちゃんに思わせぶりな態度して、明らかに粉かけてるもんだから。

 見るからに営業目的だとしても、その場の勢いでなんとなく聞いてみたくなってしまった。


 ニコちゃんは私の隣でふにゃふにゃと何かぼやきながら、テーブルに突っ伏している。

 悪酔いして意識が朦朧としているのである。たまにあることだ。

 トシキくんの店に来たときのニコちゃん、調子に乗ってカクテルとかしこたま飲んだりしがちなのである。

 

 まあ、今の私もニコちゃんに釣られて飲んだから酔っ払ってるんだけど。だいぶ。

 だから妙に気が大きくなって、トシキくんにも直球の質問をぶっこめたのだ。

 酒は苦手だから普段は飲まないけど、今日はなんかニコちゃんに煽られて飲んでしまった――そのニコちゃんのが先に潰れてるのはヘンな話である。

 

 未成年飲酒じゃないかって?この店はそんなこと気にしない。

 悪質なメンコンにとって、年齢確認でホストから弾かれるような“未成年の女子”は寧ろ格好の客なのだ。

 ニコちゃんは売掛(要はツケ払いである)で借金してまでキャストのトシキくんに貢いでいるので、すっかり上客扱いである。

 

『んー、ナイショ』

『なんでぇ?ケチ』

『ケチとかじゃないよ』


 それで、肝心のトシキくん。ニコちゃんが好きかどうか――ナイショとか言って、質問への答えをはぐらかしてきた。

 すっかり出来上がってる私は、ぶーたれるように唇を前に突き出した。アヒルとかみたいに。

 そんな私の様子を見て、トシキくんは「かわい」なんて言いながら笑ってる。そりゃどうもです。


『ここで“好き”って言ってもウソっぽくなるでしょ?』


 カウンターテーブルに突っ伏しているニコちゃんを、トシキくんが微笑みながら見下ろす。

 そのまま左手をすっと伸ばして、ニコちゃんの髪を優しく撫でていた。

 まるで飼い猫を可愛がるみたいな、穏やかな手つきだった。

 なんだか複雑な気持ちになる。ニコちゃんを自分のものみたいに扱ってるから。


『大事なのはさ、ニコが俺のこと好きで』


 くいっと、トシキくんが首を傾けた。

 ニコちゃんを愛でながら、私の顔を覗いてくる。


『俺がそれに応えてる、ってことだし』


 そんなことを言いながら、トシキくんはにやっと笑いかけてくる。

 トシキくん、外見はすごく整っている。ニコちゃんも日頃から熱弁してるように、顔が良いのは間違いない。間違いないんだけど。

 目を細めながら、口の端を不敵に吊り上げるその面持ちは、なんかこう――チェシャ猫とかみたいだった。

 なんとなく気味悪くて、なに考えてるのかよく分からない。そんな感じである。


『イトちゃん。愛は報われるべきだよ』

『カッコつけたこと言うなぁ』

『カッコつけるのが水商売の男』


 胡散臭いトシキくんの調子に、私は何とも言えぬ気持ちになって眉を歪めた。

 またチョコを口に運ぼうとしたけど、無心でつまんでるうちにいつの間にか全部食べ切ってしまってた。

 甘ったるくてほろ苦いカカオの余韻を名残惜しく思いながら、私はトシキくんを訝しげに見つめる。


 “愛は報われるべき”。

 トシキくんを見つめる自分の表情とは裏腹に、その言葉に関しては理解できた。

 トシキくんのクサい調子はともかくとして。なんというか、その通りだと思ったから。


 トシキくんは、伏せた目で再びニコちゃんに視線を向けていた。

 微笑むように口角を軽く吊り上げて、相変わらず子猫でも眺めるみたいな様子でニコちゃんを見下ろしている。

 

 ニコちゃんは、トシキくんが好きである。本人は“推してるだけ”と言ってるけど、たぶん恋愛対象として意識している。

 自分の孤独と欠落を埋め合わせてくれるトシキくんに入れ込んでいるし、失った愛の拠り所をトシキくんに見出している。

 言うなれば、私と一緒につるんでいるのとは別腹なのだ。ニコちゃんにとって相方は私だけど、ぞっこんなのはトシキくんなのだ。


 ニコちゃんにとって、トシキくんは特別だ。

 だって、ぐちゃぐちゃになった過去を塗り潰してくれる存在だから。

 壊れていく身と心に、甘い夢を与えてくれるから。

 トシキくんへ入れ込むことに、ニコちゃんは神様を見出している。


『イトちゃん。愛ってのはね』


 ニコちゃんだけじゃない。

 この街に迷い込む人間は、みんな一緒だ。

 

『人間にとって、最後に残る“信仰”なの』


 何もかもがむなしくて、やるせないから。

 せめて神様がいることを、信じたがっている。

 なけなしの救いを、お金で買おうとしている。

 自分が望むものを、他の誰かに見出している。

 夜を彷徨うというのは、そういうことなのだ。


『で――”神様”を信じさせてあげるのが、俺のお仕事』


 トシキくんは、きっとそれを知っている。

 だから悟ったように、神様や信仰について語ってくる。


『人間ってさ、悪い生き物だからね』

『だろうねえ』

『悪いからこそ、救いが必要なんだよ』

『……うん、だろうね』


 どこかの誰かは、世界の汚さについて語る。

 どこかの誰かは、世界の醜さを暴きたがる。

 嘲笑って、斜に構えて、気取りたがる。

 言いたいことは、分かるけれど。


『みんな“神様”がいてほしいんだよね』


 そういうのは、遣る瀬無いものだから――私は一言、そう呟いた。

 愚か者だからこそ、この世界にはせめて愛や希望があってほしいと願いたいのだ。

 汚くて醜いのは、世界そのものじゃなくて。なにかに失敗して、未来を捨てて、だめになっていく私たちなのだから。

 そんな人間にこそ、魂かなにかの拠り所が必要なんだと思う。

 例えそれが、ガラクタのようにどうしようもない生き方だとしても。

 

 愛に身を捧げるニコちゃんはロマンチストだけど、私も大概なのだろう。結局私たちは、弱い子どもでしかない。

 そしてトシキくんは、少なくともロマンチストであることの意味を知っている。

 

 私のとなりで、相変わらずニコちゃんはうにゃうにゃと呻きながら突っ伏している。

 意味のわからない呪文みたいなものをぼやいてたけど、「としきくん……」と寝言のように零していたのだけはハッキリと聞き取れた。

 それを耳にした私はほんの少しの沈黙してから、焼きもちを込めてニコちゃんの頭をペシンと軽くはたいた。トシキくんは笑ってた。





 私とニコちゃんは、似たもの同士だ。

 

 本物の“パパ”に心をぐちゃぐちゃにされて。

 偽物の“パパ”をお金にして生きている。

 だから私たちは、“神様”を見失っている。


 先のことを考えず、自分を壊しているのに。

 それでも“神様”がいてほしいと願っている。

 だから土壇場で、私たちは縋ってしまう。


 ニコちゃんが救われなきゃ、私だって救われない。

 そういうものだ。そういうものなのだ。

 だから、私は――。


「トシキくん」


 私は、ぽつりと零す。


「ニコちゃんはさ」


 言葉を、静かに吐き出す。


「こうならなきゃいけなかった?」


 胸の内で渦巻き、くすぶる感情を絞り出す。


「こうなって当然なくらい、悪いことしてきた?」


 何も話せなくなって、一人じゃ生きられなくなって。

 そうして今では、すっかり衰弱しきっている。


「ねえ、トシキくん」


 ニコちゃんが被った受難に、意味なんてなかった。

 たまたま“まむし”がやってきて、たまたま運が悪くて、宇宙人が勝手に失敗して。

 そうして捨て置かれた世界で、ニコちゃんは野ざらしのまま放られている。


 なんで、ニコちゃんなの。

 なんで、ニコちゃんがそうなったの。

 なんで、ニコちゃんがそうならなきゃいけなかったの。


 運が悪かったなんて。

 そんな一言で片付けられて。

 受け止められるはずがなかった。

 宙ぶらりんになった心が、行き場を欲している。


 何処にも辿り着けないと諦めていたのに。

 私は今、“何処か”を求めている。


 トシキくんは、何も答えてはくれない。

 相変わらず、表情は何も読み取れない。

 何を思っているかなんて、私には知る由もない。


 まるで砂場に突き立てられた棒切れみたいに、トシキくんは突っ立つ。

 ニコちゃんにも私にも目をくれない。どこか遠くを見つめて、ぽけっと口を開いている。


 トシキくんは虚空を見つめながら、口から「ぽわん」と酒臭い吐息の塊を吐き出した。

 まるでボール型の雲みたいにまんまるくて、真っ白だった。

 ふわふわ、ふわふわ――吐息の塊は、しゃぼん玉みたいに漂う。

 それは部屋の壁にぶつかって、なんてこともなく掻き消えた。


 無言のトシキくんをじっと見つめる私。

 何を考えているのか分からない、明後日の方を見つめるトシキくん。

 

 静寂がその場を包んで、しんと静まり返る。

 数秒。十数秒。店の中は、音を失う。

 沈黙に支配されて、ただただ時間が流れる。

 この瞬間が永遠に続くんじゃないかって、錯覚してしまいそうになる。

 私は息を飲んだまま、視線を外さなかった。


「その娘はなにも悪くない」


 そうして、トシキくん。

 ぬらりと首を傾けて、やっと口を開いた。


「“僕たち”がこの星に来てしまって」


 つらつら、ざらざら。

 一つ一つの言葉に、ノイズが走る。


「その娘は、“まむし”で運悪く“ばか”になった」


 淡々と語られる一言一言は、飄々としているのに。

 機械か何かで打ち出したみたいに、どこか無機質だった。

 無感情というより――なんかこう、もっと違う。

 上手く説明できないけど、変な感じがある。


「ただ、それだけだよ」


 そして、トシキくんが首を伸ばす。

 背中を屈めながら、私の顔目掛けて、自分の顔をぐいっと近づける。

 私は思わずぎょっとして、目を丸くしてしまった。

 

 爬虫類のまんまるい両目が、私の眼差しをじっと見つめる。

 真正面から、私の表情を捉えてくる。


「その娘に、罪はない」


 気押される私に、トシキくんは尚も語りかける。

 しゅーと“へび”みたいに喉から音を鳴らして、私を凝視してくる。

 ぬらりと大きな体格も相待って、私は茫然と見上げることしかできない。

 

 その異様な姿が、眼光が、私を捉えて離さなかった。

 相手がその気になれば、すぐにでも私をどうにか出来てしまう。

 目の前に呆然と存在する現実を前にして、私はそれを思い知らされてしまう。

 

 この大きな体躯と、この空間を血みどろにするだけの腕力。

 トシキくんがそれを振り回せば、私はあっという間に御陀仏になる。

 ああ、そうだ。命を握られているのは、明らかに私の方だ。

 

 下手なことをすれば、私は今すぐに殺されても不思議じゃない。

 例え口封じの意味がなくなったとしても、それは私を殺さない理由にはならない。

 だって今のトシキくんは、やっぱり人間じゃないから。

 地球を侵略しに来た宇宙人に、変身してしまったから。

 

 なのに――私の心は、不思議と落ち着き始めていた。


 何故だろう。ほんの少しだけ、そう考えた。

 けれど、答えなんてものはすぐに湧き出てきた。

 私が引き出したかった言葉は、こんな御託じゃなかったからだ。

 

 トシキくんがどれだけ凄くても、怖くても。

 それよりもっと恐ろしいことが、私のすぐ傍にある。

 手のひらから去っていった温もりの先に、その答えがある。


 ――ニコちゃんに、罪はない。何も悪くない。

 そんなことじゃない。聞きたいのは。

 それくらい、とっくに知ってる。聞くまでもない。

 わざわざそんな話のために、私は言葉を絞り出したんじゃない。


 けれど、目の前のトシキくんは、そんなことを知る由もない様子だった。

 ただ淡々と有りのままに、事実だけを並び立てる。

 表情なんか読み取れないけれど。まるで過不足なく伝えましたと言わんばかりに、私をじっと見つめている。

 

 だから――そんなトシキくんのことを、私も見つめ返した。

 意地を張るみたいに、不満を示すみたいに、目を細めて“へび”の眼差しを見据えた。


 私はふいに、さっきまで関わっていたヨスガくんのことを思い返した。

 ヨスガくんには世話になったし、何だか放っておけないところがあった。

 好きな人がいて。好きな人のそばに居られなくて。そうして好きな人の手を取ることもできない。

 そんな境遇に置かれたヨスガくんを、私は自分に重ねていた。


 仮に私が同じ立場だったら、きっと打ちのめされていたと思う。

 私はニコちゃんが好き。でも、ニコちゃんから突き放されて、勝手に遠くへと行かれてしまう。

 そんなことになったら、私の心はきっと行き場を失ってしまう。

 

 あれからヨスガくんは、どうなったのだろう。

 ユイくんとは連絡を取れたのだろうか。それとも、音沙汰がないままだろうか。

 あの子はきっと、あの先も真っ当に生きていける。

 自分の未来をちゃんと信じられているし、自分が孤独じゃないことを知った時点で救われているから。


 けれど、それでも。

 あのままユイくんを失ってしまったら。

 きっとヨスガくんは、大きな喪失を背負うことになる。


 誰だって、納得があってほしい。

 誰だって、報われることがあってほしい。

 それが愛するひとのことなら、尚更だ。

 

 私はヨスガくんを通じて、改めてそれを受け止めた。

 私たちは孤独だからこそ、逸れものだからこそ。

 心の何かが救われることが、何よりも大切なのだ。


 私はずっと、この街を這い回ってきた。

 大好きなニコちゃんと、二人でいっしょに。

 “ばか”になっても、ずっと気ままに彷徨ってきた。

 それは一体、何のためだったんだろう。

 きっとこの旅に、意味があってほしいと願っていたから。


 ネズミさん。アズサちゃん。ヨスガくん。

 みんな旅の果てに、この街へと迷い込んでいた。

 それぞれの終着点を迎えて、私たちは別れを経てきた。


 彼らは、納得ができたのだろうか。

 現実と空想のはざまで、欲しいものを見つけられたのだろうか。

 その答えはわからない。わからないけれど。

 確かなのは、私とニコちゃんの番が来ているということだった。


 ニコちゃんは、じきに命を落とす。

 認めたくなんか、ないけれど。

 それが、それだけが、現実なのだから。





『イトぉ』

『色々思うけどさ』

『あたしはやっぱ、トシキくんが好き』


『お金で買った愛かもしれないけどさ』

『そういうもんじゃん。なんていうか』

『どうしようもない生き物じゃん』

『あたし達って奴らはさ』


『何処にも辿り着けない』

『パキって這い回って、それだけの人生』

『得られるものなんて、きっと何もない』

『そういう道を選んだのがあたし達だから』


『でもさ、イト――』

『愛は、やっぱ報われてほしいよ』

『それだけはせめて、嘘じゃないって思いたい』


『だって』

『あたしの“ほんとのパパ”が』

『奪っていっちゃったから』

『愛のぬくもりってやつを』





 トシキくんの纏う執事服。

 その首元を締める黒いシルクのネクタイを、私は掴んでいた。

 まるで胸ぐらを掴み上げるみたいに勢いよく、乱暴に。

 強い力を込めて、グイっと引っ張っていた。


 私の顔を覗き込むために、身体を屈めていたから。

 遥かに大きな体格であるトシキくんの首元に、手を伸ばすことができた。

 後はもう、なりふり構わずに突っ込むだけだった。

 そうして私は、トシキくんのネクタイを掴み上げる。


「トシキくん」


 精一杯のガンを飛ばしながら、私は口を開く。

 へび頭が、ぼんやりと私を見つめている。

 ネクタイを掴まれたことに、ほんの少しばかり驚いた様子を見せていた。


「誕生日」

「なに?」 

「きょうが誕生日なの、トシキくんの」


 ――10月31日。いわゆるハロウィン。

 今日が、トシキくんの誕生日。

 ニコちゃんは、この日をずっと待っていた。


「誕生日だからって、僕は何もできな――」

「ニコちゃん、トシキくんのこと大好きでさ」

「あの、お嬢ちゃん、ちょっと」


 トシキくんの一言をぶった切って、私は語り出す。

 ちょっと、とトシキくんが抗議の声を上げていた。

 私は気にしない。そのまま口を開き続ける。

 トシキくんは思わずぽかんとしてて、諦めたように黙りこくってしまった。

 

「バースデーのお祝いしたくて、この日を待ってたの」

 

 私は、ニコちゃんと一緒にバースデーに行く約束をしていた。

 ニコちゃんが“ばか”になってからも、それは変わらない。


「ずっと、ずーっと……楽しみにしてたんだよ、ニコちゃん」

 

 いつも通りにふらふら彷徨って、二人で過ごして。

 そうして、トシキくんへ会いに行く。二人で誕生日をお祝いする。


「ねえ、宇宙人のトシキくん」


 前々からそう決めていたし、ニコちゃんはずっと楽しみにしていた。

 だから私は、ニコちゃんをここまで連れ歩いてきた。


「わかる?女の子の心って」


 ――なあ、宇宙人。知ってるか。

 恋する女の子って、執念深いんだよ。

 鬱陶しくて、面倒臭いんだよ。


「愛に生きる女の子のこと、知ってる?」


 特に私たちみたいな女なら、尚更だ。

 病みとか、メンヘラとか、依存症とか。

 きっとそう呼ばれて当然なんだろう。


「愛ってさ。人間にとって、きっと神様なんだよ」


 今の私はもう、思考よりも先に感覚が動いている。

 心から込み上げた言葉を、原液のまま吐き出している。


「信じられるものがなきゃ、みんな救われないの」


 みんな――いや、“私たち”だ。

 今は、私とニコちゃんの話なのだ。


 ニコちゃん。私の半身。私の相棒。

 この娘が信じてきたものが、今この瞬間に懸かっている。

 だって。ニコちゃん、このまま突き放されたままじゃ、なんにも報われない。

 本当に、救われなくなる。

 

 そうなったら、やるせないじゃん。

 一体なんのために生まれてきたんだ、って。

 そう思っちゃうじゃん。


 例え私たちが、どれだけ“がらくた”であったとしても。

 この世界に愛や希望がないなんて、思いたくない。

 少しでも報われる何かがあるって、信じたい。

 そしてなによりも、愛というものは報われるべきなのだ。


「私の言いたいことさ」


 だから今だけは、どうしても。

 このわがままを、ぶつけるしかない。

 

「ちょっとでも、わかるんなら――」


 そして、一呼吸だけ。

 間を置いてから、口を開いた。



「――帰る前に!!今すぐ付き合え!!“トシキくん”のバースデー!!」



 私は、声を張り上げて。

 力の限りに、その言葉を吐き出した。


 生まれてこの方、叫んだことなんて滅多にない。

 大声で喚いたりとか、怒鳴ったりとか、全然慣れていない。

 けれど、今は。トシキくんに想いを叩き付けなきゃいけない、今だけは。

 私は、腹の底から感情を絞り出したのだ。


 再び、沈黙が場を支配した。

 トシキくんは、呆気に取られたように口を半開きにしている。

 もう手を振り払うことも忘れたみたいに、ただ茫然と私を見ている。

 

 私はもう躊躇なく、トシキくんを見つめ続けていた。

 ただただじっと、トシキくんに視線を真っ直ぐに向けていた。

 そんな私のことを見つめて、圧にやられたみたいにぽかんとしていた。

 

 またしても続く静寂は、さっきとは全然違っていた。

 捉える側と、捉えられる側。立場はもう、ひっくり返っていたから。



「…………あ、はい」



 そうして、トシキくん。

 おずおずと、返事の一言を呟いた。

 唖然としてるような。あるいは、慄いてるような。

 さっきまでの飄々とした調子は、何処かに吹き飛んでいた。



◆◇◆◇

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