⑥Million Dollar Baby

◆◇◆◇



『イトってさぁ』

『なーに?ニコちゃん』

『ぶっちゃけあたしのこと好きな感じ?』

『いきなり突っ込んできたな』

『いや、なんか気になって』


『そりゃ私はニコちゃん好きだよ』

『いや、そうじゃなくてさ』

『じゃなくて?』

『恋愛的な意味で好き?って話』

『あー』




 

 たったか、たったか。

 たったか、たったか。


 空は、仄暗い曇天。

 今にも雨が降りそうな灰色。


 たったか、たったか。

 たったか、たったか。


 人はいつでも時間に追われている。

 学校、仕事、趣味、日課、その他もろもろ。

 明日の予定とか、残された課題とか、社会での義務や責任とか、色んなモノがのしかかってくる。

 生きているだけで、荷物はどんどん増えていく。


 たったか、たったか。

 たったか、たったか。

 

 時は有限で、いずれ失われていくもので。

 だから皆、せっかちに駆け回っていく。

 働いて、勉強して、恋愛して、遊んで――。

 そうしているうちに、段々歳を取って。

 最後に残るのは、しわしわでよぼよぼの身体。

 

 たったか、たったか。

 たったか、たったか。


 人というものは、どうにも時計の奴隷らしい。

 ささいな一分一秒が、何度も何度も積み重なって。

 やがて、なにもかも壊してしまう。

 みんな飲み込まれて、ぷちっと潰される。


 たったか、たったか。

 たったか、たったか。

 

 私(イト)とニコちゃんは、そういうのヤだから。

 せめてちょっとだけでも、足掻いている。

 どこにも辿り着けやしないのに。

 今という瞬間だけは、いつまでも欲しい。


 たったか、たったか。

 たったか、たったか。


 永遠が何処にあるかなんて、知らない。

 永遠が在るのかも、分かりやしない。

 それでも、”いつまでも“が欲しいから。

 私達は、祈るしかないのだ。


 たったか、たったか。

 たったか、たったか。


 何に対して?

 “神様”に。


 たったか、たったか。

 たったか、たったか。

 

 ――ずってん。


「ちょ、ニコちゃん」

「う、ぉ、ぅ、ぅ」


 ――いや、急にどうした。

 私は思わずぽかんとする。

 ニコちゃん、コンクリートの歩道に顔をうずめている。

 黒いマスクが汚れちゃってる。

 

「だいじょーぶ?」

「ぅ、ぅう」

「ニコちゃーん」


 つまるところ、ニコちゃんがこけた。

 ニコちゃん、さっきまで私の手を握ってたけど。

 急に力が緩んで手を離して、その場でバランスを崩すように横転したのだ。


 そんなこんなで、ニコちゃんがばかになってから4日目。




 

『どうだろ……好きなのかなぁ』

『玉虫色の回答が来た』

 

『なんだろ、ニコちゃんは好きなんだけど』

『うん』

『恋愛的な意味?って聞かれると……』

『うん』

『そういやどうなんだ?みたいな……』

『煮え切らない感じだ』


『てかニコちゃん、なんでこんな話振ったの?』

『……なんとなく?または好奇心?』

『二択問題?』



 

  

 昨日までと同じように散歩してただけ。

 なのに、ニコちゃんが急にずっこけた。 

 段差に転んだとか、何かに躓いたとか、そういうんじゃない。本当にいきなり、脈絡もなくこけたのだ。


 またニコちゃんが変な挙動してるのかと思って立ち上がらせたけど、その後もニコちゃんの動きは微妙に覚束ない。

 足取りがよろよろとしてて、またしてもずっこけたりして、要するに不安定だったのだ。

 

 アズサちゃんに石畳へと叩きつけられてどっか怪我してるのかな――なんて思ったけど、どうもそういう様子ではない。

 そもそも昨日の時点ではピンピンしてた。今日の日中になって、いきなりニコちゃんの動きがヘンになったのだ。


 ひゅー、ひー、ひゅー、ひー。

 コンクリートの歩道で俯せになったニコちゃんの口から、呼吸の音が漏れ出てる。

 ひゅー、ひー、ひゅー、ひー。

 なんだか変な感じだった。器官になにか詰まってそうな吐息を数回ほど繰り返してた。

 けれど自然にその異音は収まって、いつも通りの吐息へと戻っていった。


「ニコちゃん?」

「う、おぅぅ」


 心配するように見つめてた私だったけど、とうのニコちゃんは急にむくりと起き上がった。

 まるで何事もなかったかのように周囲をきょろきょろと見渡して、それから私の方へと視線を合わせる。


「お、ぉ、ぅ」

 

 ニコちゃんが私の顔をじーっと見つめている。

 ちょっとぽかんとしてから、私もニコちゃんを見つめ返す。

 私たちの眼差しが交差する。ニコちゃんは虚ろな眼差しだけど、それでも私のことを見ている。

 どんな表情をしてても、ニコちゃんは可愛くて綺麗だ。

 金魚みたいに口をもごもごしてて、段々マスクがズレてきてる。なにか言いたげにも見えるけど、気の所為なのかもしれない。


「ひゅ、お」


 よろ、よろ。ニコちゃんが歩を進めた。

 私の方へと、ゆっくり近付いてくる。

 そして――こてん、と真正面から寄りかかってきた。


「ニコちゃーん?」

「ぅ……」

「どしたの」

「ぉ、う」

 

 私は呆気に取られたけど、ニコちゃんを抱きしめるみたいに両手で受け止める。

 相変わらず唸り声を上げてるニコちゃんの背中を、私はぽんぽんと優しく叩いてあげる。

 ニコちゃんは動かない。私に寄りかかったまま、ぽつんと佇んでいる。


「……よしよーし」


 ばかになったニコちゃんが何を考えてるのかなんて、実際のところよく分からないけれど。

 今は何だか甘えてくれてるような気がして、どうにもくすぐったい気持ちになってしまった。

 よしよし、よしよし。子供をあやすみたいに、私はニコちゃんの背中をさすったり頭を撫でたりしてあげる。


 そうしてニコちゃんを何となしに抱き止めたまま、緩やかな時間が流れて。

 私達の頭上では、灰色の曇天がうごめいていく。

 やがて冷ややかな風が吹くと共に――ぽつぽつと、冷たい雫が疎らに降ってきた。


「ニコちゃん」

「うぁ」

「雨降ってきたね」

「お、ぁ」


 ぽつぽつ、ぽつぽつ。

 ぴったりと温もりを分かち合う私たち。

 雨はお構いなしに、冷たい粒を落としてくる。

 

「どっか行こっか」


 あいにく、傘は持ってない。

 お互いしょっちゅう忘れて、雨から逃げ出す。

 せこせことした、いつもの日常である。


  


  

『言うてニコちゃんだってどーなのよ』

『イトが恋愛的に好きかってこと?』

『そゆこと』


『……好きと言えば……まぁ好きか……?』

『ニコちゃんもタマムシ色じゃん』

『よくよく考えればあたしもよく分かんなかった』

『人のこと言えないじゃん』

『こらこら、どつくな』


『トシキくんと私だったら、どっち好き?』

『は?トシキくん』

『ニコちゃんにフられたぁ』

『あたりめーよ』


『じゃあさ、ニコちゃん』

『なに』

『トシキくんと私、可愛いのはどっち?』

『それはあんた』

『えへへへへ』 


『調子のんな』

『えへへへへへへ』

『へにゃへにゃすんな』

『じゃあさじゃあさ、ニコちゃん』

『聞く耳持たずかい』

 

『トシキくんと私が今にも崖から落ちそうになってたとします』

『何その急展開』

『ニコちゃんはどっち助ける?』

『恨みながらあんた助ける』

『えへへへへへへ』


『てかあんたとトシキくんは別腹だし』

『崖から落ちちゃって、さよならトシキくん……』

『さっそく別れ告げんな』




 

 ぷかぷか、ぷかぷか。

 しゃぼん玉が浮かぶ。

 

 ニコちゃんの隣に座る私が、ストローに息を吹きかける。

 淡い虹色の玉が、ふわふわと揺蕩う。

 幾つもの数が、綿毛のように宙を舞う。

 雨粒が降り注ぐ中でも、お構いなしに。

 いつぞやの光景。いつぞやの反復。


 ぷかぷか、ぷかぷか。

 しゃぼん玉が舞う。


 シャボン玉というものは、雨が降ってても飛び続けるそうだ。

 湿度が高くて液体の水分が蒸発しにくいとか何とか、よく分からないけどそんな理屈があるらしい。


 ぷかぷか、ぷかぷか。

 しゃぼん玉が浮かぶ。

 

 このシャボン玉の玩具、以前ニコちゃんが百均で買ったものである。

 なんでこれ買ったの、と前に聞いたけど。ニコちゃん曰く「なんか楽しそうじゃん」とのことだった。

 それ以来、二人でつるんでて暇な時に何となくシャボン玉を飛ばすようになった。


 ぷかぷか、ぷかぷか。

 もうニコちゃんはシャボン玉を吹けない。

 だから私が、こうして飛ばしている。


 休業中の張り紙が貼られた定食屋の入口前。

 私達はシャッターの壁に寄りかかって、店舗テントのささやかな屋根の下で雨宿りをしている。

 ふーっと息を吹いてシャボン玉を飛ばす私と、ぽけっとした顔で雲に覆われた空を見上げるニコちゃん。

 雨はすっかり本降りになっていた。


 “トシキくんの誕生日”は着々と迫ってる。

 ニコちゃんがばかになった日から数えて5日後が誕生日なので、つまり“ニコちゃんがばかになってから6日目”が当日である――振り返ってみると微妙にややこしい。

 要するに、明後日がトシキくんバースデーということだ。


 ニコちゃんはトシキくんの誕生日をお祝いするのをめちゃくちゃ楽しみにしていた。

 “当日は絶対にイト連れて、トシキくんのメンコンに突撃する”――そんな感じに息巻いてた。

 だけどニコちゃんは“ばか”になってしまった。前後は不明瞭、意識も曖昧、食事から排泄まで私の世話なしじゃ生きられない。

 

 もうトシキくんのこと、ちゃんと認識できるのかさえ定かじゃないけれど。それでもニコちゃん、あんなに楽しみにしてたんだから。

 例えばかになっちゃったとしても、トシキくんのバースデーには連れて行ってあげたい。

 

 だってニコちゃんならきっと、何があろうと意地でも行くと思うから。そういう娘である。

 大好きなトシキくんの誕生日。待ちに待ってためでたい日。ニコちゃんは、トシキくんに会いたいに決まってるのだ。


「……あ、ぅ」


 雨の降る空をぼんやり見つめて、ニコちゃんが呻く。

 その眼差しは虚ろ。何を映して、何を捉えているのかもよくわからない。

 確かなのは、ニコちゃんが其処にいるということだけ。



 


 ニコちゃんは、トシキくんが大好きだ。

 それは間違いないけれど。

 

 実のところ、ニコちゃんは。

 恋というものを、疑っている。

 自分のお父さんに酷いことをされた日から。

 恋というものに、不信を抱いている。


 ニコちゃんは髪をピンクに染めて、ピアスをバシバシに開けてる。右足には巻きつく蛇のタトゥーまで彫られてる。

 本人曰く“ナメられたくないから”そうしてるらしい。

 いつだってニコちゃんは強がってる。もう二度と、誰かにナメられたくないのだ。 

 

 ニコちゃんによれば、始まりはランドセルを背負ったばかりの頃。 

 ニコちゃんは大好きだったお母さんを“ありふれた交通事故”で亡くして、茫然自失のまま父子家庭での生活が始まった。

 それからニコちゃんのお父さんはどんどん精神的に不安定になって。お母さんの喪失を埋め合わせるみたいに、お父さんからの執着は日に日に強くなっていった。


 初めは単なる過保護だったり、大袈裟な心配だったり、そんな感じだったらしいけど。

 お父さんは次第にニコちゃんの日常を縛るようになっていったそうだ。

 疑り深くなって、束縛的になって、まるで何かの拍子にニコちゃんを失うことを恐れるみたいに。

 そしてニコちゃんのお母さんと重ねるみたいに、お父さんはニコちゃんを“過剰に”愛するようになった。

 きっとそのお父さんは、とっくにまともじゃなかったんだと思う。

 

 それからニコちゃんは小学校高学年くらいの頃に、お父さんから無理やり迫られて、それが初体験になった。

 ニコちゃんからこの身の上を聞いたのは一度きり。以後はそのことを一切話さなかった。


 ――その後のことは、詳しく知らないけれど。

 今のニコちゃんが、そのお父さんをぶん殴って家を飛び出したことは知ってる。


 ニコちゃんは恋を信じられないから、身体を売ることを“稼ぐ生業”として割り切れている。

 大人に身体を差し出す。心の傷に迫るような生き方を、お金を介することで“手段”に変えている。


 そして、過去のトラウマがきっかけになって、ニコちゃんは“オーバードーズ”にのめり込んだ。

 お父さんに押し倒された日のことを今でも思い出すから、ずっとクスリを手放せずにいる。



 

  

 トイレや洗面台に顔を向けて。

 胃の中のものを、げえげえ吐き出して。

 苦しそうに咽びながら、泣きじゃくってる。

 そんなニコちゃんの姿を、私は何度も見てる。

 寝覚めが悪い朝は、いつもそうなってた。





 で、恋を疑ってるんだけど。

 ニコちゃんはメンコン狂いだ。

 メンズコンカフェ、縮めてメンコン。

 

 嫌なことがあれば何かと“推しキャスト”のトシキくんに貢ぐ。むしろ嫌なことがなくても貢ぐ。

 だから頻繁にメンコンでの“売掛”の返済に追われてる――最近のメンコンはたまに簡易版ホストクラブじみてる。同伴にアフターとか。

 ホストと違って年齢確認も緩いし、なおかつホストよりかは割安なので、要するに“未成年”を引き込みやすい。

 おまけに緊急事態宣言にも従わず、もぐりの酒場みたく営業を続けている店も少なくないのだ。


 なんでそんなにトシキくんへと入れ込んでるのか、ニコちゃんに聞いたことがあった。

 “色々あって死ぬほど傷ついてた日に声掛けられて、すごく優しくしてくれたのがトシキくんだった”とのことである。

 それ以来トシキくんとの付き合いが生まれて、彼の在籍するコンカフェに通ってるうちにトシキくんのことをめちゃくちゃ好きになってしまったらしい。

 

 トシキくん、私からすれば“スカしたお兄さん”にしか見えないので不思議なものである。

 だってニコちゃんが店来たら、いつもめっちゃ顔近づけて「ニコと会えなくて苦しかった」とか「ニコが来てくれて嬉しい」とか開口一番に囁いてるもん。 

 非常階段でニコちゃんと平気でチューしまくったりもするし。たまにやらしいこともしてる。

 ちなみにその間、私はすぐ傍で階段に座って待機してます。最初気まずかったけど慣れちゃったのが切ない。


 ニコちゃんに「トシキくんと付き合いたい?」なんて聞いてことはあったけど、返ってきたのは「そういうのはいい」の一言だった。

 ニコちゃんはずーっとトシキくんにお金を貢いでる。トシキくんが大好きである。本人曰く、あくまで“推し”として好きとのことだ。

 だから付き合うとかそういうのじゃない、というのがニコちゃんの談だ。あくまで色恋営業も含めて楽しんでやってるとか何とか。

 

 けれど私が見た感じ、ニコちゃんのトシキくんへの想い入れはそれだけじゃない。

 何だかんだ言ってニコちゃんは、トシキくんのことを恋愛対象として好きなんだと思う。

 そして自分の欠落を癒やしてくれる相手として、ニコちゃんは彼に執着している。

 “女の子”を買う“パパ”。“ホスト”に狂う“姫”。“推し”に貢ぐ“ファン”。自分が望む何かを、他の誰かに見出しながら生きる。

 結局みんな、同じ人間なのだ。

 

 こなごなに打ち砕かれて、自分で捨ててしまった青春を、ニコちゃんはトシキくんで埋め合わせている。

 お父さんに汚された愛や性というものを、トシキくんへの入れ込みで塗り潰そうとしている。

 だからニコちゃんは、トシキくんに身体も許してる。トシキくんが好きだから。トシキくんに夢を見ているから。トシキくんが過去を食い潰してくれるから。

 

 ぐちゃぐちゃになった“水埜頼子ちゃん”を、“ニコちゃん”という今で書き換えたがっている。


 恋を信じられないけど、無意識に憧れてる。

 漫画や映画とかをいつも見漁ってるから、そういうものに何処かで関心を抱いている。

 だからニコちゃんは推しに貢いでるし、親友(わたし)が恋してるかを確かめたのだと思う。

 ニコちゃんは、無自覚のロマンチストだ。きっと。


 ほぼ毎日、だらだらつるんでるから。

 ニコちゃんのことは何となく分かってしまう。

 

 ニコちゃんは明らかに、私をラブの意味で好きって訳じゃない。

 ニコちゃんはトシキくんがラブだし、私も正直ニコちゃんのことがラブなのかはよく分からない。

 けれど、そんなのは些細なことなのだ。

 

 私(イト)とニコちゃん。

 一緒につるんでて、いつも二人。

 大事なのは、ただそれだけ。

 形はどうだとしても、ニコちゃんは私が好き。

 そして私も、ニコちゃんが好き。


「ニコちゃん?」


 そうして、色々と物思いに耽っていたけど。

 私の隣に突っ立っていたはずのニコちゃんが、いつの間にか雨の下へと躍り出ていた。

 ふわふわ、ふわふわ。ニコちゃんが見つめる先にあるのは、降り注ぐ雨の中を漂う球体。

 ――飛んでいくシャボン玉を追いかけたかったらしい。


「ちょっと、ニコちゃーん!」


 ニコちゃんは雨に曝されながら、どたどたと歩道を突き進んでいった。

 シャボン玉を追いかけて、びしょ濡れになるニコちゃん。私はそそくさとシャボン玉の道具を置いて、ニコちゃんを追いかけるように雨の下へと飛び出した。

 




『イトぉ』

『なにーニコちゃん』 

『自分で聞いといて何だけどさ』

『うん』

 

『“恋かどうか”とか、考えたってしょうがないなぁ』

『それはマジ。なんか私達らしくない』

『そだね。“答え”なんてどうでもよかったわ』

『そうそう。私達はもっと気楽にやりたいの』

 

『イト、あたし達ってさ』

『うん』

『別にこれでいいよね、やっぱ』

『いつも一緒にいるしね、私達』


『“答え”がなくちゃ、きっとみんなから受け入れられないんだろうけど』

『私達は、なんだっていいわぁ』

『二人でつるんでる“今”が一番』

『うん。他のことなんて知らない』


『イトがいれば何だっていい』

『こっちこそ』

 

『あたしとイト』

『出会いに感謝』

『どこにも行けないから、ずっと一緒』

『ニコちゃん愛してる』

『イェーイ』

『イェーイ』

 

『へへへへ』

『へへへへ』

 



 

 街は灰色。街は無言。

 飲食店が立ち並ぶ大通りだというのに。

 どの店もシャッターが降りてて、閑散としている。

 喧騒に満ちてた筈の都市は、コンクリートで作られた廃墟になっていた。

 

 “まむし”のせいで緊急事態宣言が出されてから、ずっとこの有り様。

 人の賑わいは何処かへと消え失せて、都会は声を喪ったように沈黙してしまった。

 私達を押し流す群衆の流れは、もう此処にはいない。

 社会から飛び出した“逸れもの”は、この不思議の国へと迷い込んでいく。

 

 冷たい雨が降り注ぐ。

 ざあざあと、街を洗い流す。


「ニコちゃん!」


 どたどた、どたどた。

 たったか、たったか。

 

 雨もお構いなしに突き進んでいくニコちゃん。

 もうとっくにシャボン玉は割れてるのに。

 ニコちゃんってば、明後日の方へと向かっていってる。


「ニコちゃーん!もうシャボン玉ないよー!」


 どたどた、どたどた。

 たったか、たったか。


 少し後ろから追いかける私。

 同じく雨に濡れてる。傘なんて持ってない。

 だからニコちゃんと同じように、冷たい雫に打たれている。

 後で風邪引くかもしれないなぁ、なんて暢気に思ってしまう。


「ニコちゃーん?」


 どたどた、どたどた。

 たったか、たったか。


 ニコちゃんは、有り体に言えば速歩きだった。

 けっこう速い。というか普通に速い。

 ばかになったニコちゃんがこんなに機敏に動くのは初めて見た。


「ニコちゃん、風邪引いちゃうよー」


 どたどた、どたどた。

 たったか、たったか。

 

 アズサちゃんも動きは素早かったけど、ニコちゃんもホントはそれくらいのポテンシャルとかあるんだろうか。よく分からない。 

 まるでニコちゃんの視界には、まだシャボン玉が映ってるみたいに。彼女はずんずんと、灰色のメインストリートを進んでいく。


「ニコちゃーんっ」 


 どたどた、どたどた。

 たったか、たったか。

 

 黙々と降り続く雨。

 冷たい風と、透き通った空の泪。

 彷徨うのは、女の子ふたり。

 さんざんに濡れながら、這っていく。


「ニコちゃんっ」


 なんだろう。不思議な感じだった。

 ニコちゃんは勝手に動いてるし。

 お互いびしょ濡れだし。

 今日一日、なんも大したことしてないのに。

 なんだか、悪くない気持ちだった。


 何気ない時間。他愛のないひと時。

 ニコちゃんとだらだら過ごしてる瞬間。

 そんな下らない日常が、やっぱり心地良い。

 

「ニコちゃ、」


 どたどた、どたどた。

 たったか、たったか――。


 速歩きで突き進んでいたニコちゃんが、急に糸でも切れたみたいにバランスを崩した。

 まるで身体から急に力が抜けたかのように、ずるっとその場で滑って。

 そのままニコちゃんは、またしても頭からずっこけそうになっていた。


「――ニコちゃん!」


 その様子を見て。

 私は思わず、ばっと駆け出した。

 

 今のニコちゃん、しぶといのに。

 別に転んだくらいじゃピンピンしてるのに。

 でも私は、殆ど反射的に飛び出してしまった。

 

 頭からコンクリートに突っ込もうとしたニコちゃんを、咄嗟に支えようとして。

 けどニコちゃんの身体、思ったよりしっかり重くて。そんで私もまた、雨に濡れた地面をつるっと滑っちゃって。


「ぼぅわあ!?」


 で、結局ふたり仲良くこけた。

 小さな水たまりへと豪快に突っ込んで。

 ふたり一緒に、もっとびしょ濡れになった。


 

 


 私とニコちゃん。

 仲良く横倒れになって。

 雨に打たれて、地べたに転がってる。


 ニコちゃんを支えようとしてた私。

 転んだ拍子に、真正面から密着しちゃって。

 まるで二人で寄り添い合うみたいに。

 私達は寝転がって、見つめ合っていた。


 ぽけっとしながら、私はニコちゃんと視線を合わせた。

 ニコちゃん。黒いマスク越しの顔で、私のことを見つめ返している。

 惚けたような眼差し。微睡むような瞳。

 何を想ってるのかも、どう感じてるのかも、よく分からなくて。

 

 けれど、ふとした瞬間。

 冷たい雨粒に打たれる身体に。

 ほんの少し、温もりが帯びた。

 その正体を知ろうと、私は僅かに視線を落とした。


 ニコちゃん。

 私の右手を、ぎゅっと握ってる。

 いつも連れ歩いてる時みたいに。

 私の掌に、しっかり指を絡めてる。


 あ、と私は声を漏らして。

 そのまま再び、視線を上げた。

 眼の前にあったもの。

 いつも見慣れた、ニコちゃんの顔。

 

 もうすっかりばかになっちゃってて。

 虚ろな面持ちのまま、変わらないけど。

 それでも、ニコちゃんは。

 私の顔を、じーっと見つめてくれている。

 まじまじと眺めて、凝視でもするみたいに。


 手のひらの温もり。

 眼の前のニコちゃん。

 それぞれ、交互に確かめて。

 いじらしさと、可愛らしさが押し寄せてきて。

 何だか、胸の内がくすぐったくなって。

 

「っ、あは――」


 気が付けば。

 私の口から、笑みが溢れていた。

 なんだか、おかしくなってきて。

 すごく愛おしくなってきて。

 

 だから、何だろう。

 そうしたくなってしまった。

 

「はははっ――!」


 ニコちゃんの口元。

 黒いマスクを、ぐいっと下ろした。

 リップが塗られた唇が顕になる。

 やっぱりよだれ垂らしちゃってるけど。

 そんなのもう、私はお構いなし。


 ぐいっと顔を近づけて。

 お互いの目線を交錯させて。

 そうして、微笑みながら。

 私は――ニコちゃんの唇を奪った。

 

 ちゅ、と重なる音。

 ほんのり触れ合う熱。

 一瞬なのに、永遠みたいな時間。

 

 心の奥底が、幸せで高鳴る。

 昂揚する想いが、私の胸を満たす。

 なんでもいい。どうだっていい。


 もしもし、トシキくん。

 ニコちゃん、前に言ってたよ。

 私の方が“可愛い”って。

 私と“ずっと一緒”だって。

 ――ざまーみろ、えへへ。

 

 やがて顔を離した私は、ニコちゃんをじっと見つめた。

 何が起きてるのか分からないように、ぽけっとした顔のまま動かないニコちゃん。

 キスされたことにさえも無関心と言わんばかりに、唸り声をもごもごと口から漏らす。

 ――構わない。たとえ興味がなくたって。ニコちゃんが何も感じなくたって。


 例えばかになっても、ニコちゃんはニコちゃん。“ニコちゃんが大好きな私”は、なにも変わらない。

 “私のことが大好きなニコちゃん”も、ここにいる。それでいい。それ以外、なんにもいらない。


「ニコちゃん!」


 だって、ニコちゃんは。

 私の“半分”だもん。

 二人で、ひとつ。

 愛は、最強だ。


「――大好き!」


 ニコちゃん。ねえ、ニコちゃん。

 恋でも、友情でも、なんだっていい。

 私にとって、ニコちゃんは。

 100万ドルよりも価値がある、愛しい人。

 




 “好きだから、ずっと一緒”。 

 永遠を手に入れたつもりになって。

 真実はいつも、私たちの掌をすり抜けてる。

 自分を壊したがってるくせに。

 今がこんなにも惜しい。

 

 ネズミさんも、アズサちゃんも。

 夢から醒めたから、この世界を抜け出した。

 私たちもいつかは、その日が来るのかもしれない。

 

 けれど、信じることはタダなんだから。

 お祈りくらいはさせてほしい。

 まだ終わらないで。

 願いは、ただそれだけ。

 クスリ漬けの夢に、すがっていたい。

 

 私とニコちゃんは、飛べもしないくせに跳ねる。

 空に届かない蛇が、まぬけに足掻くみたいに。

 必死にもがいて、のんきに這い回る。

 羽がなくて地を這うふたりの、ガラクタの跳躍。




 

『ねえ』

『なーに』

 

『イトも、家族のこと嫌いなんだよね』

『嫌いだよ。ママも、クソ親父も』

 

『“妹”はどうなの?』

『あー……うん』

『いたんだよね、確か』


『“トマリ”だけは好きだったなあ』


 

◆◇◆◇

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