⑤エンター・ザ・ドラゴン(後編)

◆◇◆◇◆◇◆



 ぱららららら。

 映写機が動く。フィルムが回る。

 

『梓さんは、まぁ』

『中学で一緒でした』

『クラスでは浮いてましたね』

 

『明るい子だったけど』

『人と接するのが不得意みたいな』

『空気が読めないというか……』

『脈絡のない自分の話ばかりで』

『落ち着きがなくて、挙動不審というか』


『いじめられてたって感じじゃないんですけど』

『こう、腫れ物みたいな扱いでしたね』

『あの子、たまに癇癪とかも起こしてたから……』

『誰も相手にしたがらないけど、無下にもしづらいというか』


『こういう言い方は何ですけど……』

『あの娘って見た目はめちゃくちゃ可愛いから』 

『なんか世話焼いてくれてた先生に手ぇ出されたらしくて』

『それで色々パニック起こしたとかで、不登校になって……』

『その後は分からないです、すみません』

 


◆◇◆◇◆◇◆



 きゅーきゅー。

 甲高い鳴き声が溝から聞こえてくる。

 下水道から大きなネズミがひょっこり顔を覗かせていた。

 そいつはキョロキョロとあちこちを見渡してから、そそくさとコンクリートの地面へと這い出る。

 17時を過ぎたホテル街の暗がりを、薄汚れたネズミは足早に駆けていった。

 

 ここいらではよくネズミがうろついている。ゴミが多くて衛生状態が悪いのもそうだけど、人の出入りが減ったから駆除されにくくなったらしい。

 だからネズミがこうして眼の前を機敏に走り抜けていくような光景も、今ではそんなに珍しいことではない。


 飛び降りた”ネズミさん“は、あれから無事に天国か地獄にでも行けたのだろうか。

 視界を横切るネズミをぽけっと見つめて、私(イト)はふとそんなことを思った。

 答えはわからない。死んじゃったネズミさんは何も教えてくれない。真相は神のみぞ知る。


 ぱっ――と、街に光が灯った。

 気が付けば夕方。日没も手前。


 ぱっ――と、茜空の下に煌めく。

 愛欲が転がり、ネズミが駆け回る。

 そんな通りの中で、幾つもの明かりが照り出す。


 ぱっ――と、作り物の星空に包まれる。

 荒んだ路地が、夜の訪れを告げる。

 今じゃ大して人が居るわけでもないのに。

 此処はいつものように、街燈とネオンで輝く。


 暗がりにひっそり佇んでいた私たち3人が、まるでサーチライトに晒されるみたいに照らされた。

 空のように爽やかな青色で塗られたラブホテルの外壁。そこへ横並びで寄り掛かって、背中を預けていた。

 

 真ん中に私。銀のインナーカラーが入ったショートヘアの黒髪が、青とのコントラストを作る。

 “咳止め”を何錠か混ぜた缶コーラをグイッと呷る。ちょっとした景気付けである。

 

 私の左手の側にニコちゃん。髪は真っピンク。背景の青と鮮やかに反発し合う。

 口をマスクで覆って、ぽかんと突っ立ってる。うあーとかおうーとか呻いて、何か口ずさんでるようにも見える。気の所為かもしれない。

 

 そして、私の右手の側。

 一際目立つ真っ赤な女の子がいた。

 青く澄んだ情景に、ぬらりと紛れ込むみたいに。

 その娘の全身は、赤く汚れていた。

 

 血まみれの白ジャージを纏ったその娘は、ぼけっと虚空を見つめていた。

 光に照らされ、蒼い景色に佇みながら、日が落ちていく茜色の空を見上げている。

 私があげたイチゴ味の飴玉を口の中でコロコロと弄んで、ぼんやりと立っている。

 直前まで目を擦りすぎたせいで、目元は軽く腫れていた。


 その女の子――アズサちゃんは、肘を曲げて右手を胸の前辺りに上げていた。

 くねくね。うねうね。波打つような忙しない動きで、右手の指を何度も上下に揺らしている。

 ぱちぱち。ぱちぱち。指の動きとともに何度も瞬きをしたり、落ち着きのない所作を繰り返している。


 クローズアップ。 

 三者三様の顔、代わる代わる映る。

 虚ろな眼差しの私。

 ぽわんと惚けた顔のニコちゃん。

 瞬きばかりのアズサちゃん。


 ロングショット。

 間の抜けた女の子が3人。

 真っ青な壁を背景に、忽然と佇む。

 スポットライトは、そのへんの街灯。

 様になっているかは、定かではない。


「頼子さん、なんでそうなっちゃったんですか?」

「ニコちゃんだってば」

「あ、う、あぅあ」

 

 ニコちゃんがばかになってから3日目、もうちょっと続く。



◆◇◆◇◆◇◆



 ぱららららら。

 映写機が動く。フィルムが回る。


『あそこのご家庭?』

『旦那さんがすごいだらしなくて』

『しょっちゅう遊び歩いてるみたい』

『なんか夜の街に行ってるとか何とか……』

 

『これはまぁ、ウワサなんだけど』

『そこのご夫婦、娘さんがちょっと頭がヘンで』

『歳の割にすごく幼いとか、そんな感じで……』

『その子のことでしょっちゅうケンカしてたみたいで』

『旦那さん、それで家庭がイヤになってたんじゃないかって言われてた』

 

『その娘さん、最近はもっと酷くなったんだって』

『前よりヘンになったとか何とか』

『すごい力で人を叩いたり物壊したりするとか』

 

『ボケちゃったお年寄りってたまに情緒不安定になるらしいけど』

『いまの娘さん、どうもそんな感じみたい』

 

 

◆◇◆◇◆◇◆



 このホテル街の奥底には、何故かパワースポットがある。

 愛と欲望うずまく歓楽街を抜けた先に、鬼の王様の名を冠する神社がぽつんと建っているのだ。

 ビルに囲まれる中で、木々に包まれるみたいにこじんまりとした境内が存在する。

 鳥居をくぐったら石造りの狛犬に睨まれた気がした。日頃の行いが悪いせいかもしれない。

 

 ここは何やら色んな病気を癒やす御利益があるらしい。この神社のお守りで傷や病のある部位を撫でれば、神様の加護が貰えるとか何とか。

 巫女さんとか神主さんとか、人の気配は特に無いけれど。ここでお祈りすれば、ニコちゃんもそのうち元に戻ったりするのかもしれない。そんなこともちょっと思った。


 尤も、この神社に来たことに深い意味はない。

 御利益も今さっき知ったばかりである。

 

 ばかのニコちゃんと、血まみれになったアズサちゃん。二人を連れて意味もなくホテル街を歩き続けて、偶々辿り着いたというだけなのだ。

 ニコちゃんは変なところで信心深いので、よくお参りとかしていた。私もそれによく付き合っていた。

 今日もそれに倣っただけ。今回は私のお参りにニコちゃんを付き合わせる形だった。

 日没前後の薄暗い神社の境内。何処か厳かで、おどろおどろしい雰囲気がある。


 お賽銭をちゃりん。

 でっかい鈴をがらがら。

 そして、二度のお辞儀。

 ぱん、ぱん――合掌。

 

 目を閉じようとして、視線を動かした。

 ニコちゃんはぼけーっと突っ立って、狛犬をじーっと見つめてる。

 アズサちゃんは身を乗り出して、賽銭箱の中を覗き込もうと足掻いてる。

 同行者ふたり、全く神を敬っていない。


 真面目にやってるの私だけかい――急に切なくなったのち、私はぺこりと神様にお辞儀をした。

 


 


「キックミー」

「……なに?」

「キックミー」


 賽銭箱の前で腰掛けて、何となく黄昏れていた私とニコちゃんだったけど。

 私達の前に立っていた血だらけのアズサちゃんが、急に訳のわからないことを言い出す。

 キックミー。なんだ急に。


「キックミー」

「なに?キック?」

「キックミー」

「アズサちゃん?」

「だから」

「あ、はい」

「蹴りだってば」


 “Kick me”。きっくみー。

 ジョン・ウィックのスペルすらまともに読めなかった私だけど、アズサちゃんが望むことはかろうじて理解できた。

 つまり“蹴ってみろ”らしい。ここでちゃんと理解できなかったら、アズサちゃんにしばかれていたかもしれない。


「……蹴るの?」

「キックミー」

「スカートで蹴りはちょっと」

「キックミー」

「あっはい」

「キックミー」


 私の躊躇いなどお構いなしに、アズサちゃんが促してくる。容赦なしである。

 アズサちゃんは「アチョー」とか「ホォーウ」とか奇妙な鳴き声を発している。どうやらカンフーらしい。

 こうして蹴りを促してるのも、映画に出てくるカンフーの修行か何かを真似っこしているのだろう。たぶん。きっと。


 で、アズサちゃん。

 さっきから真顔だけど。

 じっと私に視線を飛ばしている。

 立て。立て。立て。

 目がそう訴えかけてきている。

 立つしかないらしい。立たざるを得ないらしい。


 今のアズサちゃんには、付き合ってあげた方がいい。そんな気がした。

 だってアズサちゃん、大変なことが遭ったから。


「じゃ、まあ、蹴らせていただきま――」

「ぅあ」

 

 そうして私が渋々と立ち上がろうとしたら、それよりも先にニコちゃんがぬらりと立ち上がった。

 私もアズサちゃんも、目を丸くしてニコちゃんを見つめる。なんだ急に(パート2)。


「頼子さ、」

「あぅ」


 ――べしん。べしん。

 ニコちゃん、いきなりアズサちゃんの頭を思いっきり叩き始めた。キックじゃない。普通に平手である。

 マスクの内側からぽけっと涎を垂れ流しながら、子供が癇癪を起こすみたいにアズサちゃんへと打撃を与えている。

 叩かれるアズサちゃんは、暫く茫然としてたけど。


 ――ずどごぉんっ。

 次の瞬間、聞いたこともない轟音が響いた。

 

 ニコちゃんの身体が豪快に引っくり返って、顔が地面へと突っ込んでいた。

 コンマ数秒くらいの、ほんの僅かな合間に起こった出来事だった。


 呆気に取られた私は、ようやく事態を飲み込む。

 ニコちゃんが髪を掴まれて、足元の石畳へと思いっきり顔面を叩きつけられたのだ。

 誰がやったのか。無論、アズサちゃんである。 

 石畳が衝撃でスポンジか何かみたいに砕けて、頭を突っ込んだニコちゃんがぴくぴくと痙攣している。


「頼子さん」

 

 そんなニコちゃんを見下ろして、アズサちゃんは何度も瞬きしたり首を揺らしたりしてる。すごく苛ついてて、落ち着きの無さそうな様子だった。


「蹴れっつったじゃん」


 言葉を何度もつっかえさせながら、アズサちゃんがぼやく。


「なんでわかんないの?」


 どもるように言葉を吐き出すアズサちゃんを、私はなんも言えないまま見つめてたけど。

 そんな私の動揺なんて知る由もないと言わんばかりに、ぶっ倒れてたニコちゃんがむくりと起き上がった。


「あぅ、あ、お」

「ひぃ」


 私は素っ頓狂な声を上げる。なんかアズサちゃんよりも、ゾンビみたいに復活したニコちゃんにビビってしまった。

 

 起き上がったニコちゃんの状態――おでこらへんに軽い擦り傷らしきもの。以上。 

 超がつくほどの軽症である。石畳が砕ける勢いで地面に叩き付けられたのに、全然大した怪我してない。

 ニコちゃんは何事もなく突っ立ってるし、またアズサちゃんに平手でちょっかい掛けようとしてたので、私は全力で止めに行った。

 

 そういえばばかになったニコちゃん、私が薬瓶で頭を思いっきり叩いた時も全然怪我してなかったなぁ。ふとそんなことを思い出した。

 それに以前のニコちゃんの話によれば、アズサちゃんも自販機に蹴り入れてぶっ壊してたのに脚はピンピンしてたらしい。下手すればその勢いで折れてもおかしくなさそうなのに。


「あう」

「キックミー」

「うぁ」

「キックミー」

「うぅお」

「キックミー」

  

 二人ともやけに身体が頑丈で、妙に感情的で、ちょっとばかで、しかも平気で何かを叩いたりする。

 程度の差はだいぶ違うけれど、ニコちゃんとアズサちゃんはやっぱり何処か似通っていた。


「蹴れって」

「おごぉう」


 ばっごぉん。

 アズサちゃん、今度は張り手を叩き込んでいた。

 頬を全力ではたかれたニコちゃんは豪快に横転。腕力に関してはアズサちゃんが段違いである。


「キックミー」

「うぉ、おおう」

「キックミー」

「う、あ」

「蹴れよ」

「アズサちゃん待った待った待った待った」


 結果、私が全力で止める羽目になる。

 ニコちゃんはばかだから礼儀知らず。

 アズサちゃんはすぐに人を叩く。

 だからニコちゃんはほっといたら、ひたすらアズサちゃんに殴られる。

 世知辛い構図である。


「私がやるってば!キック!」



◆◇◆◇◆◇◆



 ぱららららら。

 映写機が動く。フィルムが回る。

 

『……梓はねぇ』

『お父さんが大好きだったの』

『小さい頃はお父さんにすごい可愛がられてたから』


『旦那、昔はすごい遊んでる人だったんだけどね……』

『結婚して子供ができて、“良い人”になろうとしてくれた』

 

『でもあの人、梓から懐かれるのをどんどん疎むようになった』 

『大きくなるにつれて、梓が“個性的な子”なのが分かってきて』

『そんな梓とどう接すればいいか分からなくて、凄いストレス抱えてたみたいで』

『だから、どんどん昔みたいに……昔より酷くなっていったの』

 

『私とも、そのことで言い争いばかりになって……』

『“まむし”が流行って、みんな家にいることが増えたでしょ?』

『旦那も外を出る口実が作れなくなって、余計に荒れるようになった』 


『旦那はね、映画が好きだった』

『変なアクションものとか一杯見てて……』

『今どきブルース・リーとかが大好きで』

『カンフーか何かのグッズも持ってた』

 

『お父さんから疎まれるようになってから』

『梓はずーっとあの人の好きな映画見漁ってた』

『お父さんの好きなカンフーものを真似っこしてた』

『修行シーンの“Kick me!”とかね』

『ライジング?って自分であだ名付けたりとか』

『それだけお父さんに構ってほしかったみたい』


『私達がいっつも喧嘩してたこととか』

『トラブルがあって、学校に行かなくなったこととか』

『お父さんとの距離が埋まらないこととか』

『……私も、あの子を腫れ物みたいに扱ったりとか』

『そのせいで梓は、どんどん自分の世界に入り込んでいったんだと思う』


『……ここ最近』

『梓は前よりどんどん乱暴になってきて』

『それがすごく怖かった』

『急にカッとなったり、すごい力で暴れたり……』


『この右手?』

『ええ、うん』

『あの子に折られたの』

『あの子に……』



◆◇◆◇◆◇◆



「依渡さん!」

「おう」

「蹴り弱いですね!」

「そりゃそうだ」


 どれくらい経ったのか、自分でもよくわからない。


「キックミー!」

 

 辺りはすっかり暗がりになってて、僅かな照明だけが境内を照らしている。


「キックミー!」


 私がぶっきらぼうに蹴りを入れて。

 アズサちゃんが受け止めて。

 また“キックミー”で誘ってくる。


「キックミー!」


 アズサちゃんは、ニコニコしている。

 さっきの暴力なんて、まるで嘘だったみたい。

 

「キックミー!」


 度々割り込もうとするニコちゃんを静止したりしながら、私とアズサちゃんはそんな工程を繰り返す。 


「トライアゲイン!」


 キックミー。蹴り。アズサちゃんが受け止める。

 キックミー。蹴り。アズサちゃんが受け止める。

 キックミー。蹴り。アズサちゃんが……。 

 こんな一連の流れが延々と続いている。

 

 何なんだろう。これは。

 終わりのない時間の中で、私はそんな思いを抱く。


「キックミー!!」


 この子は、何がしたいのか。


「キックミー!!」

 

 ちょっと考えてみたけど。


「キックミー!!」

 

 たぶん、あれだと思う。


「キックミー!!」

 

 簡単に言うならば。


「キックミー!!」

 

 子供のやる“ごっこ遊び”みたいな。


「ははっ、ふふふ――キックミーっ!」


 今のアズサちゃんは、すごく活き活きしてる。

 真っ赤な血で汚れてるのに、小さな子供みたいにキラキラと笑っている。

 訳のわからないことを繰り返してるのに、彼女自身はとても楽しそうだった。

 そんなこの子に付き合って、私は蹴る。蹴る。キック。キック。何度もやけくそに繰り出す。


「――どうでしたか?なにか感じましたか?」

 

 そして、急に合いの手が止まる。

 映画か何かの台詞を読み上げるみたいに、笑顔のまま問い掛けてくる。

 修行のキック。“なにか感じたか”。この動作を通じて何かを掴むのが正しいことらしい。

 

 けれど、私達のやってたことはただの反復だ。アズサちゃんがそれっぽくお膳立てして、私は訳のわからないまま付き合う。

 子供がチャンバラ遊びするのと同じような、形だけの所作でしかない。

 

「……アズサちゃんこそ」


 だから、感じることは特に無かったし。

 寧ろ、気になったことは。


「どう思ってるの」


 アズサちゃんが今、何を感じてるのかだった。

 そう投げかけた瞬間に、アズサちゃんの笑顔がすっと消える。予想外。興醒め。驚愕。唖然――その真顔から意味する感情がどれなのかは、端から見てもわからない。

 

 しん、と沈黙に包まれる。“キックミー”の反復は何処かへと消え失せた。周囲にあるのは、暗がりの境内だけ。日没の仄暗さだけ。

 ニコちゃんは、何故か呻きながら狛犬の像に抱きついている。やめなさい。


 アズサちゃんは、くりくりした眼差しでじっと私を見つめるばかりだ。ぱちぱち、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。

 怒ったり、手を出したりする様子は無い。きょとんとした顔で、ただ呆然とそこに居る。

 下ろされた両手の指は、ゆるやかに動いている。蛇“まむし”が身体をくねらせるみたいに。


「“考えるな、感じろ”」


 暫くして、やっとアズサちゃんが口を開いた。それは、映画の台詞の引用らしかった。


「リー師父の言うことは正しいです」


 真顔だったアズサちゃん。

 その表情に、じんわりと笑みが戻ってくる。

 瞬きは、やっぱり繰り返している。


「だって、私は」


 ぱちぱちと落ち着きなく、瞼を上下に動かして。その面には、ぎこちない笑顔を浮かべてて。

 アズサちゃんは、ぱあっと大袈裟に両手を開いた。

 

「考えられないもん!」


 かあ、かあ――。

 夕方に間に合わなかったのか。

 何処かでカラスが鳴いていた。


「考えたくないよ!」

 

 死にゆく誰かを弔うみたいに。

 夜空の影となって、“飛翔”していた。

 

 カラス、英語で言うと“クロウ”らしい。

 前にニコちゃんから教わった。

 だから何だって感じだけど。


 社殿を背にして、両手を広げて笑うアズサちゃん。

 返り血で真っ赤に染まってるのに、何故だかカラスのように黒く淀んで見えた。

 夜の闇に紛れて、あの世のはざまへと沈んでいくみたいに、この娘は真っ黒だった。


 



 それから私は、アズサちゃんと戯れていた。

 アズサちゃんの“遊び”にずっと付き合っていた。カンフーかなにかの修行の真似っこばかりだった。

 映画の台詞をそのままなぞったような教訓を何度も吐いて、張りぼての師範を気取っている。

 そんなアズサちゃんに思うところは沢山あったけど、今の私にこの子を放っておくことはできなかった。


 “考えるな、感じろ”。

 私達も、似たようなものである。

 考えるのが嫌いだから。

 薬でパキって、考えることを棄ててる。

 ただ感じていたい。ただ身を任せたい。

 今だけがほしい。

 

 まあ、ブルース・リーはさ。

 そんなつもりで言ってないと思うけどね。


 ――考えるな、感じろ。

 ――月を指差す時、指先に集中するな。

 ――指差す先にある月に集中するんだ。

 ――目先のものに囚われては、栄光を掴めない。


 ぱららららら。

 此処ではない、どっかの映写機。

 銀幕へとシーンを投影している。

 リーが弟弟子に何らかの教えを説いている。

 考えるな、感じろ――その教訓の続きが語られている。

 

 きっとアズサちゃんも、私達も、自分の指先だけを見つめている。

 指差す果てに、何があるのかを考えられないから。


 血まみれのアズサちゃん。

 出会った直後に知ったけど。

 どうも、人を殺してるらしい。

 まぁ、見れば分かるんだけどね。

 

 誰をやったの、と聞いた。

 そしたら、アズサちゃん。

 “お父さん、お父さん――”って。

 ずっと呻いてた。

 そういうことらしい。

 

 そのときのアズサちゃんは、ぽろぽろと泣きじゃくっていた。

 ニコちゃんとの再会で笑顔だった彼女の表情は、急に防波堤が崩れたみたいに沈んでいた。

 不安定な情緒の波にびっくりして、私も最初は思わずおろおろしたけど。

 泣き止むまで、ずっと傍に居てあげた。

 


◆◇◆◇◆◇◆



 ぱららららら。

 映写機が動く。フィルムが回る。

  

『“真の人生とは誰かのために生きることにある”』

『ブルース・リーが言ってた』

『女房と結婚して、娘が生まれて、自分もそうなろうと誓った』

『心を入れ替えて、本物の男になりたかった』

『もう自堕落に生きるのは辞めようって思った』


『俺はさあ』

『娘のことが可愛くて仕方なかった』

『子供ってこんなに可愛いんだって、びっくりした』

『梓が、俺を導いてくれる気がして……』

『だから、ちゃんとあの子の父親になりたかったんだよ』 

 

『でも』

『あの子が大きくなるたびに』

『何考えてるのかどんどん分からなくなった』

『あんなに可愛いのに……』

『“個性的”な梓をどう扱うべきなのか、分からなかった』


『最近は、暴力まで振るうようになって』

『前よりカッとなりやすくなって……』

『ますますあの子が理解できなくなった』

 

『梓とどう接するべきなのか分からないし、毎日そんなことを考えなきゃいけないのが億劫だった』

『昔みたいに、一人になりたかった』

 

『……あの子の親を演じるのが』

『ずっと憂鬱なのに』

『頭から焼き付いて離れない』

 

『梓は、大きくなるたびに』

『どんどん可愛くなっていった』

『綺麗になって、女らしくなって……』

『ほんとに可愛くて、仕方なくて……』

 

『梓が学校の先生に何かされたって聞いて』

『怒りとかよりも先に、思っちゃったんだよ』

『ああ、あの子は本当に可愛いんだなって』

 

『可愛いんだよ、あの子』

『梓が、ほんとに可愛い』

『可愛い……』


『はーーーっ……』


『誰にも言えるわけねぇよ』

『こんなこと……』 

『いつかは父親になれると思いたかった……』

  

『リー師父……神はどこにいるんだ?』

 


◆◇◆◇◆◇◆



 既に夜も遅く、空は暗闇だった。

 街には眩くて寂しげな明かりが灯る。

 近くの街道ではぽつぽつと車が行き交う。

 相変わらず、街を往く人の姿は見えない。


「付き合ってくれて、ありがとうございます!」

「どうも」

「頼子さんも、さっきはごめんなさい!」

「う、あおぉぉ」

「ニコちゃんこら威嚇しない」


 大きな鳥居の前の歩道で、血まみれのアズサちゃんがぺこりとわざとらしくお辞儀をした。

 私とニコちゃんは手を繋いでアズサちゃんと向き合ってる。ニコちゃんはおうおう挑発的に唸ってた。さっき地面に叩き付けられたりしたのを根に持ってるのかもしれない。


「アズサちゃんは……」

「はい!」

「これから、どうするの?」


 そして私は、アズサちゃんに問いかけた。

 血だらけの姿で、アズサちゃんはくりくりとした眼差しで私を見つめている。自分の今の状況がよく分かっていないみたいに、ニコニコしている。 

 能天気にも見えるけど。たぶんアズサちゃんはちゃんと理解している。理解してるからこそ、考えることを放棄している。


「夜も遅いので、帰ります!」


 びしっと片手を上げて、別れの挨拶。

 アズサちゃんは、あどけない子どもみたいだった。

 友だちと思いっきり遊んで、気がつけば日が落ちてて、やがて帰路につく幼い女の子。

 今の彼女は、そんなふうに見えた。

 ライジングアズサは、現実と夢のはざまにいる。


「うん。気をつけてね」

「はい!依渡さんも頼子さんもお元気で!」


 私は、アズサちゃんに軽く手を振る。

 アズサちゃんはあくまで快活だった。

 この娘に何が起きたのか。

 この娘が何をしたのか。

 ぜんぶ、この娘自身の話から悟っていた。


 アズサちゃんは、この街でお父さんを探してた。

 大好きなお父さんのことを、ずっと追ってた。

 きっと“ばか”になった日から、アズサちゃんはしょっちゅう出歩いてたんだと思う。

 今のアズサちゃんはまともじゃないから、まともじゃない世界へと飛び込める。

 

 そして今朝、やっとお父さんと再会を果たした。

 けれど、お父さんから何かされそうになった。

 ホテルに連れ込まれそうになったらしい。 

 だからアズサちゃんは、お父さんを殺した。

 あれだけの腕力があれば、きっと人なんて容易く殺せてしまう。


 フラッシュバック。

 どこぞのゴシップ記事。


《“まむしの感染者”による殺人?》

《被害者は撲殺?》

《被害者は頭部が激しく損傷し……》


 噂はいろいろ。真偽は不明。

 けれど、事実は小説よりも何とやら。


「さようならー!」

「ばいばーい」

「う、あぉ」


 私達は、去りゆくアズサちゃんを見送る。

 血濡れのジャージを纏った女の子が、夜の影へと溶け込んでいく。

 徐々に遠ざかっていく後ろ姿を、ただじっと見守っていた私たちだったけれど。


 くるっと。ふいにアズサちゃんが振り返った。

 数十メートルほど離れた地点で、私達のことを見つめていた。

 その表情に笑みはなかった。なんとなく寂しそうで、どことなく哀しそうに見えた。

 まるで“楽しかった時間”に後ろ髪を引かれるみたいに、私達の方へとじっと視線を飛ばしている。


 私も、アズサちゃんと目線を合わせていた。

 これから行く宛もないアズサちゃんを、じっと見つめていた。

 

 きっとあの娘に、もう居場所はなくて。

 だからこそ、何処にも辿り着けない。

 それを悟っているから、アズサちゃんはすべてを投げ捨てた。

 彼女は独りぼっち。今までも、これから先も。


 引き留めようか、なんて一瞬だけ思った。

 けれど私は、躊躇いを覚えた。

 ニコちゃんの手のひらの、微かな温もりを噛み締めていた。

 

 私は、他の誰かの味方じゃない。

 私自身と、ニコちゃんの味方だ。

 アズサちゃんの味方にまで、なれない。

 あの娘の面倒まで見る義理も勇気も、ありはしない。

 だから私は、手を振る。お別れを告げる。


 やがてアズサちゃんは、再び前へと向き直した。

 未練を断ち切るように、最後の挨拶はなく。

 赤く汚れた彼女は、そのまま歩き去っていった。


 私達はただ、路地の影へと消えていくアズサちゃんの姿を見届ける。

 静寂と沈黙。鳥居の前で、神様が見守る前で、私とニコちゃんはぽつんと佇む。

 ニコちゃんの手をぎゅっと握り締めながら、私はぽつりと呟く。


「ねえ、ニコちゃん」


 アズサちゃんはさ、ニコちゃんとおんなじになるところだったね。

 ニコちゃんの“初めて”、自分のお父さんだもんね。


 握り締めていた手を、ほんの僅かに握り返されたような気がした。

 それは私の気の所為かもしれない。けれど、思わずニコちゃんの顔へと視線を向けてしまった。

 ――ニコちゃんは何も変わらない。虚空を見つめて、呻いているだけ。

 そんな姿にほんの微かな寂しさを感じて、同時にニコちゃんが其処にいてくれることへの強い安堵を覚えた。

 


◆◇◆◇◆◇◆



 ぱららららら。 

 仄暗い空間の中。

 無数に並ぶ座席の後方。

 大きな映写機が稼働を続ける。

 映像の光が灯されている。


 ぱららららら。 

 昔ながらの35ミリフィルムが回る。

 焼き付けられたシーンが投影される。

 巨大な銀幕に、音と画が映し出される。


 ぱららららら。 

 映画は続く。キネマは唄う。

 ショーはまだ終わらない。 

 上映中はお静かに。

 スマホの電源はお切りください。

 周りに迷惑を掛けないよう。


 観客はたった3人。

 真ん中の席に私“イト”。

 右隣にニコちゃん、左隣はアズサちゃん。


《1万!1万でお願い!ホントにお金なくて……!》


 ――いきなりシーンが始まる。

 仄暗い照明が灯るラブホテルの部屋。

 白いシーツが敷かれた大きなベッドの上。

 バスローブを纏った中年の男性が両膝を付いて、両手を合わせながら懇願している。 

 

《ふざけんなよ!!いきなり何なの!?》

《自分で5万っつっただろ!!約束も守れないの!?》


 懇願される“ピンク髪の女の子”も、同じくベッドの上に座り込んでいた。

 怒声と共に引き攣った表情を浮かべて、尻餅を突きながら壁際へと後ずさっている。

 身体を隠すようにシーツで包まってるのは、きっと懇願前提の“行為”に対する拒絶の証。


 そのシーンが画面に映った途端、ポップコーンを食べていたニコちゃんがその手を止める。

 眉間にしわを寄せて、とても複雑そうな表情を浮かべていた。

 ニコちゃんの顔からげんなり感が滲み出ている――「うげぇ」と言わんばかりのやつ。


《“まむし”が流行ってるせいで稼ぎも悪くなってて!》

《ごめん!どうかこの通り!お願いします!》


 食い下がらない中年男性。

 その見苦しい姿が、銀幕に晒される。

 女の子3人で、パパ活のいざこざを眺めてる。

 なんだかキテレツな上映会である。 


《あんたさぁ、警察とか呼ぶよ!?》

《家族いるんでしょ!?バラされたいの!?》


 やがて、何かに気づいたかのように。

 アズサちゃんが、グイッと前のめりになっていた。

 目を丸くして、画面へと釘付けになって。

 食い入るように、映像を見つめていた。


《待って、待った、待った!》

《それだけはホントに……!》


 そして、思いを抑えきれなくなったのか。

 アズサちゃんの喉の奥から、言葉が飛び出た。


「お父さん!」


 しーっ。

 アズサちゃん。

 上映中はお静かにね。


《お父さん!》


 やがて、パッとシーンが切り替わる。

 朝のホテル街。ネズミが駆け回る雑多な情景。

 白いジャージ姿の女の子が、くたびれた中年男性に抱き着いている。

 

 天真爛漫な笑顔を浮かべたその娘は、心の底から嬉しそうにその男の人にくっついてて。

 けれど、男の人はずっと戸惑いと動揺の狭間を彷徨ってて、おどおどと何かを恐れてて。

 やがて何かを耐えきれなくなったみたいに、男の人もまた女の子をぎゅっと抱き締めた。

 絶対に離さないと言わんばかりに、力強く、力強く。

 どうしようもなく力強く、力強く、力強く――。


 喜びを張り付けていた女の子の表情は、段々と不安や困惑の色へと変わっていく。

 それでも男の人は、女の子を決して離さない。

 

 銀幕いっぱいに映るその場面を見た途端、隣の座席にいたアズサちゃんは――ぎゅっと目を閉じて、両手で顔を覆っていた。

 見たくない。考えたくない。そう言わんばかりに。


 私は、ニコちゃんの方を見ることはしなかった。

 どんな顔してるかなんて、見るまでもなく知っているから。

 


◆◇◆◇◆◇◆

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