④エンター・ザ・ドラゴン(前編)

◆◇◆◇



「アチョオーッ」

「レッツカンフー!」





 これは確か、一ヶ月くらい前のこと。

 “まむし”のせいで緊急事態になった直後である。


『あたしさぁ』


 夜遅くの歓楽街。寝床求めて――ついでに個室で映画とか見るために――ネカフェを目指す私とニコちゃん。

 空っぽの薬瓶を道端に放りながら、ニコちゃんがぼやき始める。ポイ捨て、良い子は真似しないように。ニコちゃんは悪い子です。


『昨日へんなのに絡まれた』

『へんなのって?』


 ニコちゃんの表情はずいぶんと煩わしげだった。思えば昨日ニコちゃんとはパパ活を済ませてから夜遅くに会ったけど、やけにかったるそうだった。


『なんかすげーカンフー気取ってて』


 そうしてニコちゃんは、“へんなの”についてぽつぽつと語り始める。カンフー気取り。いきなり予想だにしない特徴である。


『よく補導されてるらしいやつ』


 よく補導されてるカンフー気取り。随分とわけのわからない奴らしい。変質者か何かだろうか。


『前に半グレ殴ったってウワサもある』

『こっわ』


 ガチでヤバイ奴かもしれない。事実だとすれば紛うことなき超危険人物である。


『オラついてる系?』

『どっちかっつうと、スポーツ女子みたいな見た目してた』

『うそ、女の子?』

『うん。あたしとタメ』


 曰く、きっちり切り揃えた黒のボブカットで、猫みたいにくりくりした目付きをしてて、上下白ジャージで固めてる女の子だという。

 ニコちゃんによれば顔は可愛いらしい。「どれくらい可愛い?」と聞いてみたら「あんたほどじゃない」と返ってきた。てへへ。


『その娘、なんて名前?』 

『ライジングアズサっつってた』


 ライジングアズサ。――ライジング?

 なんだそりゃ。ニコちゃんが呟いたすっとんきょうな名前に思わず口を開いてしまう。


『……何それ?』

『自分でそう言ってたんだって』

『いやがらせで付けられたあだ名?』

『自称だっての』


 マジか……。

 そんなへんてこりんな名前を自分で名乗る女の子がいるとは。世界は広い。

 半グレ殴った噂もそうだけど、その娘はどうも正気の沙汰ではないのかもしれない。


『ライジング……アズサ』

『ライジングアズサつってんじゃん』

『いや、なんで???』

『こっちが聞きたいし』

『というか絡まれたの?そのライジングに』

『略し方そっちなんだ』


 ニコちゃんのツッコミを私は素知らぬ顔で受け流す。だって“ライジング”のインパクト強すぎるもん。


『まぁともかく、あたしがちょっと人助けしてやったの。そしたら向こうがグイグイ絡んできた』

『そんな……あのやさぐれ女王のニコちゃんが人助けだなんて……』

『はっ倒すぞこら』

『ふへへへ』


 ニコちゃんにツッコミでどつかれて、私は思わずニヤニヤしてしまう。

 やれやれと言った感じの様子だったニコちゃんだったけど、やがてぽつぽつと記憶を引っ張り出すように、その時のことを話してくれた。





「ホォーウッ」

「ホワチャアッ」





 ハイどうも。

 イトの相方、ピンク髪のニコです。

 

 まぁ、アズサってやつと会った時のことは今も覚えてる。 

 あの日は昼間からパパ活やってて、いつものように“大人”で稼いでいた。“大人”ってのは要するに大人の関係、即ちパパとヤって稼ぐことである。 

 あたしはめちゃくちゃ機嫌が悪かった。そのとき相手してたパパが1万程度で生の本番だの出すだの要求してきたからである。 

 百歩譲っても3万前後が“大人”の最低ラインの相場だってのに、そのパパはゴネれば安く買い叩けると思ったらしい。

 

 “生でヤりたい。でもごめん。最初に5万出すって言ったけど、ホントはいま金が無い。どうか1万で負けてほしい”――そのパパの言い分はそんな感じだった。

 色々とのっぴきならない状況をアピールしていたけど、そもそも最初に本番で5万出すって約束したんだから普通に約束は守ってほしい。

 つか5万から1万への値引きって何だよ。ブラックフライデーかよ。

 

 最近は稼ぎに困ってる女のコがパパ活で自分を安売りすることもあるらしいけど、あたしは自分の価値を自分で下げるつもりはなかった。

 下手に出過ぎて客に付け上がらせたら単純に稼ぎが減るし、労力は割に合わなくなるし、要はこっちが損するばかりだ。


 まぁそういう訳で、あたしとそのパパは散々揉めまくった。ああでもない、こうでもない、警察呼ぶとかどうこう、わにゃわにゃ色々と言い争った。

 最終的にはパパの方が折れて、“プチ”で妥協するという話になった。本番なしの前戯で済ませるってことだ。

 直前に口論になったのもあって、まぁ非常に微妙な空気で終わった。あたしはめちゃくちゃヒリついてた。

  

 前置きがやたら長くなったけど、つまり夕方ごろにホテル前でそのパパと別れてからも、あたしはずーっと機嫌悪かったってわけだ。

 必要以上の労力を使わされて腑に落ちない気持ちで一杯だったあたしは、イトと会う前にドクペ飲んで気分でも紛らわせることにした。

 

 その日もあたしが居たのは馴染み深い都心のホテル街だったけど、ここらでドクペが買える自販機は何故か数がやたらと限られている。

 だからあたしはいつも決まった場所のドクペを買っている。『HOTEL コリーダ』という古めかしいラブホの裏側にある自販機は、このホテル街において貴重なドクペ補給スポットだった。


 そうしてあたしは『コリーダ』を目指して歩いてたら、その途中で路地裏の方から癇に障る感じの声が聞こえてきた。

 どうやら男の人がちょっとばかし苛立っている様子で、声のトーンをやけに張り上げてなんのかんの言ってた。

 気が立っていたあたしはほっとく気になれなくて、何となくそっちの方を覗いてみることにした。

 あからさまに揉めてるのに、何が起こってるのかも分からずに素通りするのは妙に気持ち悪い。

 

 細い路地の片隅で、スーツ姿の男が女の子にしつこく絡んでいた。

 男の方は30代くらいで、髪を茶色に染めた胡散臭いお兄さんである。雰囲気からして風俗のスカウトか何かだと思う。ああいうのは私も何度か絡まれたことがある。

 女の子の方はというと、芋っぽいジャージ一式という出で立ちだった。地元でジョギングでもしてそうな風体である。

 顔は可愛いけどぽけっとしてて、とてもホテル街をうろつくような人種には見えない。


 男の方はピリピリしてて、女の子は妙に図太い雰囲気で佇んでる。妙な状況だったけど、少なくとも迫られてるのは女の子の方だった。

 有り体に言うと、あたしがムカついてる時に女の子が誑かされそうになっているのが妙に気に入らなかった。

 別にこの娘を助けてやる義理とかは何もないんだけど、ただ苛ついていたので口を挟まずにはいられなかった。

 

 だからまぁ、あたしは二人が揉めてる間に割り込んだ。”この娘はあたしが待ち合わせてた友達なんで“的なことを言って、その女の子を強引に連れ出したのだ。

 お兄さんの方が反論とかする隙も与えず、そそくさと。

 




「アタッ、アチョッ」

「ホアアーッ」

 



 

『おねえさん!!』


 ――ジャージ女を連れ出した一悶着から、だいたい30分ちょっと後。

 例の『コリーダ』の裏側にある自販機の傍。あたしがドクペにありついてる時に、ジャージ女は隣でしつこく絡んできた。

 

『めっちゃいい人ですね!!』


 ジャージ女は猫みたいにくりくりした眼差しを向けながら、あたしにぐいぐい話し掛けてくる。

 ”さっきのはただの気まぐれだから、さっさとどっか行きな“――あたしはそう言ってジャージ女と別れようとしたけど、あろうことかジャージ女が勝手に着いてきた。

 

 ジャージ女は持て余した左手の指をうねうね忙しなく動かしながら、執拗にあたしへとつるんでくる。

 たまに痙攣したみたいに顔をしかめたり、頷くみたいに首を振ったり、妙に動作が慌ただしい。


『しつこいなぁ』

『お話しましょうよ!』

『さっさと帰んなって』

『おねえさん!お名前なんて言うんですか!』


 念を押すように言うけど、この娘とあたしにさっきの関わり以上の縁なんか無い。

 ほんのちょっと助け舟を出しただけでしかないし、友達になったつもりもない。

 そもそもあたしが友達として気を許せる奴なんて、それこそイトくらいしか居ない。


 “どっか行け”って言ったんだから、馴れ馴れしく話しかけないでほしい。それがあたしの率直な本音だった。

 あたしとつるんだって良いことなんか無い。あたしみたいなのとつるまずに人生過ごせるんだったら、それが一番である。

 というかまずあたし自身、別にこいつとつるみたくない。ジャージ女はそんなあたしの気持ちも知らず、自分の肩を左右に揺らしたりしながら傍で突っ立ってる。


『……さっきの、スカウトだよね』

『かわいいからウチで働かない?とか言われました!』

『ああいう奴にまた絡まれたくなかったら、悪いこと言わんから早く帰りなよ』

『おねえさん!いっしょに夕飯たべましょう!』

『だから、しつこいっつってんの――』


 痺れを切らしたあたしが、苛立ち混じりにそう吐き捨てた瞬間。


『ホアチャァッ』


 甲高い怪鳥めいた掛け声。

 ジャージ女がそれを放って。

 


 どぐしゃあんっ――――。

 聞いたこともない轟音が響いた。


  

 何が起きたのかを認識するまでに、数秒くらいのラグが発生したけど。

 その時のあたしは、ただ唖然として口をぽかんと開けていた。

  

 眼の前で、自販機がひしゃげていたのだ。

 ジャージ女の右足が自販機のど真ん中に突き刺さり、まるで瓦割りみたいに豪快に砕けていた。

 

 破片がパラパラと散乱し、中から幾つもの缶やペットボトルが零れ落ちてくる。

 蹴りに巻き込まれた缶はべしゃりと潰れてて、中身のジュースがぶちまけられている。

 一撃だった。あまりにも理不尽な暴力が、突如として目の前に爆弾のごとく投下された。

 

 ここらでドクペが買える貴重な自販機が。

 たった今、一発の蹴りで粉砕したのである。


『……は?』

『なんでよ』


 全く以て予想だにしなかった事態を前にして、あたしは呆気に取られてたけど。

 そんなこと知らんと言わんばかりに、ジャージ女はあたしに向かって問い詰めてくる。

 なんで自分を突っぱねるのか。そう言わんばかりの態度だった。


『なんでよ』


 さっきまでの小動物みたいな人懐っこさは何処に吹き飛んだのか。ジャージ女は、真顔であたしに問い掛ける。

 子猫がいきなりバカでかい虎になったような衝撃に頭をぶん殴られている。

 

『いや……だってあたし達、別に友達でもなんでもないっていうか……』

『だ、か、ら』


 苦し紛れに絞り出したあたしの言葉を、ジャージ女は腑に落ちない様子で切り捨ててきた。 

 

『なんでって聞いてるんだけど』


 ――何なんだこいつ……。

 有無を言わさぬ圧を前に、あたしはドン引きしていた。なんか知らんけどヤバすぎる。

 ここでまた下手なことを言ったらぶっ殺される。そんな寒気がして、あたしは呆然と言葉を失ってた。 





「ハァァーッ」

「アタァァッ」


  



 ずるずるずるずる。

 カウンター席。ほかほかの湯気。

 隣合わせで食べるとんこつラーメン。

 あたしは薄味のトッピング。

 あいつは濃い目こってり、にんにく盛り付け。

 ジャージ女は食いながらたまにパチパチ瞬きしたり、手の指をくねくね忙しなく動かしたりしてる。

 

 “私が悪かった。あんたを無下に扱ってごめんなさい”――そんな感じの言い訳を重ねて、やっとジャージ女を落ち着かせたけど。

 直後にジャージ女から“ごはん食べましょう!”という一言が飛び出し、有無を言わさず付き合わされる羽目になった。

 断ったら今度こそ殺される気がした。


『あんた幾つ?』

『16歳です!』

『あたしとタメかよ……』


 こういう街であたしはよく“ハタチです”っつって誤魔化すけど、流石に今回ばかりは思わずぼやいてしまった。


『……あんた、なんて言うの?』

『アズサです!』


 ラーメン食ってる最中ではあるんだけど、こいつと二人きりで沈黙している緊張感になんか耐えられなくて、つい話しかけてしまう。

 アズサ。聞き覚えのある名前に引っ掛かるものがあったけど、直後に飛び出てきた“自称”で何かがストンと落ちてしまった。

 

『ライジングアズサと呼んでください!』


 ホアチョーと怪鳥みたいな声を上げながら、ジャージ女の“アズサ”はカンフーじみた構えをわざとらしく決めてみせる。

 ――ライジングアズサ。ライジング?

 その珍妙な単語に、思わずぽかんとしてしまう。


『……いやがらせで付けられたあだ名?』

『いやがらせはされてませんよ!』

『いや、ライジングって何?』

『異名ですよ!わたしの!』


 そんな遣り取りをしつつも、あたしの頭の中では前にSNSで見かけた“ウワサ”のことが既によぎっていた。


『カンフーです!カンフー!』

『カンフー……』

『カンフー使いとしての異名です!』

『……なる、ほど……うん……』


 並べられる奇言に対する返事に困りつつ、あたしは思い返す。 

 ここ一ヶ月くらい。夜の街をぶらぶらほっつき歩いてて、カンフー気取って喧嘩っ早くて、頻繁に警察の世話になってる変な女の子がいるとか何とか。

 そいつの動画撮ろうとしたやつがスマホ壊されてボコボコに殴られたとか、半グレと揉めて流血沙汰になったとか、まるでヤンキーか何かのような列伝が流れていた。


『いっぱい鍛錬しました!筋トレとか!』

『確かにアレは凄いわ……まぁ、うん』

『最近は前より力がみなぎるんです!』


 どうせ幾らか盛られてるんだろうと思ってたし、大して興味もなかったけど、こうしてウワサの側からあたしの眼の前へと転がり込んできた。

 都会のど真ん中でくそでかいヒグマに首根っこを掴まれた気分である。


 ずるずるずるずる。

 早く帰りたい。イトやトシキくんのことが急にめちゃくちゃ恋しくなってきた。

 “1万まで値引きパパ”と揉めた直後にホテル街で猛獣と出くわす羽目になるなんて思いもしなかった。 


『……てか、アズサはさ』

『はい!』

『なんであんなトコうろついてたの?』

『ウチにいてもつまんないからです!』


 ずるずるずるずる。

 アズサはずっと同じ調子で喋り続けている。天真爛漫で人懐っこくて、妙にハキハキしている。

 肩や腕を揺らしたり、表情がピクピク動いたり、ささいな所作もやけに忙しない。


『それに』


 ずるずるずるずる。

 そのくせ機嫌を損ねたら一気にあの調子になる。謎に緊張感が凄まじい。

 何をしでかすのか全然わかんないし、こいつと関わり続けるのは正直嫌だけど。


『お父さんはこういうトコにいるって、お母さんが言ってました!』


 ずるずる、――――。

 まあ、こういう街に出歩く年頃の女の子というものは、大抵“ワケあり”ではあるのだ。


『……あっそ、』


 あたしはぶっきらぼうに相槌を打ったけど。


『へえ、そうなんだ』


 咄嗟に誤魔化すみたいに、幾らか愛想のある相槌を重ねた。

 なんでわざわざ言い直したのか、って言うと。

 無愛想な返事でまたこいつの機嫌を損ねたら、いよいよあたしは殺されそうな気がしたからだ。


『そういえばおねえさん!』

『なに』

『お名前!なんて言うんですか!』

『……名前、なぁ』





「でーん、ででんっ」

「ホゥワアアーッ」





『で、その後どうなったの?カンフーで殺された?』

『勝手にあたし殺すな』


 ハイ、ニコちゃんの相方イトです。

 ニコちゃんの回想おしまいです。

 

 ネカフェの部屋でのびのびと脚を伸ばしながら、私はニコちゃんとやり取りをしていた。

 二、三人用の鍵付き完全個室マットルームである。シャワーは済ませたので、とりあえず一晩は気楽に寝て過ごせる。

 暇になれば適当にマンガも読み漁れるし、パソコンで一緒に映画だのドラマだのも見れる。


『そのライジングさんはどうなったの?』

『あいつはラーメン食って色々喋ったら満足したらしくて、そのまま帰った』

『よかったねぇ』

『ホントによかったわ』


 げんなりした様子で振り返るニコちゃん。

 色々と語りつつパソコンのマウスを弄って、動画配信サービスで検索を掛けている。

 私はニコちゃんの肩にぐてっと寄っかかってます。マウス動かしてるニコちゃんはたまに邪魔そうにしてる。ごめんね。


『あ、でも別れる前になんか演武?見せられた』

『エンブ?』

『めっちゃ型とか技とか披露してきた』

『どんなだった?』

『なんか……ニセ武術っぽかった……テレビで見たやつを真似っこしたみたいな……』

『よくわかんないけど多分すごい反応に困るやつだ』


 そのライジングアズサちゃんとは連絡先を交換し合うことも無かったらしく、普通にそれきりらしい。

 以後の付き合いを作らずに済んで、ニコちゃんが心底安心しているのが見て取れた。


 私もまぁ“そういうコに会ったら怖いなあ”とか“土壇場で5万から1万の値引き交渉は引く”とか、色々思ったけど。

 どちらにせよライジングちゃんに関しては又聞きのエピソードでしかなかったので、私は何となく他人事のように聞いていた。

 寧ろニコちゃんが無茶してたことのほうが余程気になってしまった。


『てかニコちゃん、マジで気を付けてね』

『カンフーのほう?』

『じゃなくてさ、変なスカウトのお兄さんに突っかかったんでしょ』

『あー……まぁ、あんま良くなかったかな』

『女のコ助けに行ったのはそりゃカッコいいけど、あんま無茶はしないでね』

『……うん、気を付けるわ』

 

 ライジングアズサってのはウワサになってるらしいけど、私は一度も当人を見たことが無かったし、まずそういう揉め事には首を突っ込まないようにしている。

 だから私は、多分その娘と関わることはないだろうと思ってた。


 今後ああいうトコにその女の子が顔を出さなければ、それが何よりだとは思う。

 夜の街なんてのは、ホントは女の子がいるべきところじゃないのだから。


『とりあえず映画見よっかニコちゃん』

『よしきた』

『また銃撃つやつ?』

『見てからのお楽しみ』


 そんなこんなで、空気を切り替えるようにそそくさと映画鑑賞会が始まった。

 寝る前にいっしょに映画を見る約束をしていたのだ。ニコちゃんは動画配信サービスで検索した映画の再生ボタンを押す。

 

『…………また銃で撃つやつじゃん!!』

『いやいやこれはキアヌの傑作だし』

『ニコちゃん銃で撃つの好き過ぎでしょ』

『人様を殺人鬼みたいに言うな』


 最近のニコちゃん、銃撃つやつにハマってる。

 ニコちゃんのチョイスで映画を見ると高確率で銃が出てくる。なにかと物騒すぎる。

 

『タイトルの英語……ジョーン……ワイク……?』

『いやジョン・ウィック』

『ニコちゃん賢すぎ』

『どっちかと言うとイトがバカ』

『バン!バン!ニコちゃん即死』

『バカにされて撃つな』


 うだうだ言いつつ最後まで見ました。

 わんこがチンピラに殺されたらむっちゃ怒って復讐するのは当たり前だと思いました。



 


《人体の免疫を突破した“まむし”》

 

《大脳を侵食、前頭葉の機能に影響》 

《理性や社会性、言語能力等が退化》

《論理的思考や感情の制御が困難に》

《症状に個人差あり》

 

《神経細胞が変容するケース》

《脳による過剰指令》

《信号の異常活性化》

《身体機能に影響?》


《※発症例はごく少数※》

《※事例の不足につき要調査※》

 





 ニコちゃんがばかになってから3日目。

 私がニコちゃんから聞いた“ライジングアズサ”の話を急に思い出していたことには、まぁ理由があった。

 

 真っ昼間。特に目的もなくニコちゃんと街中を散歩してたら、いつの間にかホテル街に迷い込んでた。

 ここはどの辺りだっけ。眼の前にあったのは『HOTEL コリーダ』。視線を動かしてみると、豪快に凹んでぶっ壊れた自販機が野ざらしのままになっていた。


「は?」


 そして、壊れた自販機のすぐ隣。

 血だらけのジャージを着た女の子がいた。


 その子は自販機に背中を預けて、ぽつんと地べたに座っていた。頻繁に瞼をパチパチと瞬きさせたり、表情を不自然にピクピク顰めさせたりしてる。 

 たまに自分の爪を噛んだり、ちゅぱちゅぱと指しゃぶりもしているその女の子は、見た目は10代半ばくらいなのに何となく幼く見えた。


 ――いや、なんか。めっちゃ赤いんだけど。

 私はその女の子を見て、思わず心の中でツッコミを入れた。


 ケガしてるのかな。一瞬そう考えたけど、どうもそんな感じの様子ではない。

 なんというか。こう。たぶん返り血っぽい気がする。

 とにかく私は唖然とその娘を見つめていたけど、出で立ちに何か思い出すものがあった。


 きっちり切り揃えた黒のボブカット。

 猫みたいにくりくりした目付き。

 ぽけっとした可愛らしい顔。

 芋っぽい白ジャージ一式――血まみれの。


 ニコちゃんから聞いた風体とほぼ同じだった。

 あの女の子そのままの姿だった。

 私は恐れ慄いてビビりまくってたけど、おずおずと聞いてみることにした。

 

「……あの」

「なんですか」

「もしかして……その、ライジングアズサ?」

「はい!ライジングアズサです!」


 ――血だらけなのに威勢のいい返事が返ってきた。

 めっちゃ物騒な見てくれなのに、何故か当たり前のようにハキハキと喋っていた。

 困惑と動揺で揺さぶられた私だったけど、とうのアズサちゃんはいざ知らず。

 気がつけば彼女は、私の傍にいるニコちゃんをまじまじと見つめていた。


 明らかにおかしい。というかヤバい。

 なのに肝心のアズサちゃんがこのテンションなので、今の状況を聞くに聞きづらい。

 というかニコちゃんからライジングアズサのすごさ(オブラートな表現)を既に聞いているので、私は大分おっかなびっくりになっていた。


 この娘はいま、ニコちゃんを見つめている。顔見知りであること自体は間違いない。

 とりあえずコミュニケーションの取っ掛かりを作るべく、ニコちゃんを話に巻き込むことにした。


「あの、アズサちゃん」

「はい!」

「ニコちゃんと会ったことが――」 

「頼子さん!」


 ――よりこさん?

 聞き慣れない名前が飛んできた。


「水埜 頼子さん!お久しぶりです!」


 ――みずのよりこ?

 誰やねんと心の中でツッコミを入れる。

 血まみれのライジングアズサと対面するという異常事態に直面したのに、その謎の名前にいきなり意識を引っ張られた。


「隣のピンク頭!」


 ――ん。

 アズサがまっすぐ指差しているもの。

 それは、私の隣に立つニコちゃんである。


「ねぇねぇ頼子さん!ライジングアズサです!」

 

 ぽけっと突っ立つ今のニコちゃんは、アズサの呼びかけに何も答えない。当然である。

 それでも構わずアズサはニコちゃんをその名前で呼び続ける。

 

 ――よりこ?みずのよりこ?誰?

 暫しの思考に耽ったあと、私はふと思い出す。

 だいぶ前にニコちゃんが職質だか補導だかされてたときに、一回だけ聞き慣れない名前を名乗ってたような気がする。

 確かそれもミズノなんとかだったような。

 

 今になって振り返ると、あれって本名だったのかもしれない。

 私はニコちゃんのことはずっとニコちゃんって呼んでたし、名字とかは全然知らなかった。

 ニコって本名じゃなかったんだ。ホントはみずのさんだったんだ――そんな風に暢気に考えた直後。

 私の中で頭をガツンと殴られるような衝撃が、急に遅れてやってきた。

 

「ニコちゃんそんな名前だったの!!?」


 ――ヨリコじゃん!ニコじゃないじゃん!

 そんな私の仰天なんて知る由もなく、ニコちゃんはあうあう唸りながら自分の指をかじってた。

 アズサちゃんは変わらず血まみれである。なんだ、この状況。


 


 

 ハイ、イトの相方ニコです。

 

 ちっちゃい頃のあたしは、“よりこ”って自分の名前をちゃんと言えなかったらしい。いつも自分のこと“よいこ”、“よいこ”って呼んでたそうだ。

 しかも“い”の発音がへにゃっとしてたから、たまに“よにこ”って聞こえたんだって。

 

 ママ的にはそれがめっちゃ可愛かったらしくて。

 あたしに“にこちゃん”ってあだ名を付けてた。

 よりこ。よいこ。よにこ。にこちゃん。そんでニコ。

 

 なんていう、まぁ。

 その呼ばれ方が好きなのだ。

 だからあたしは自分のことを“ニコ”って呼んでるし、好きな相手にもそう呼んでもらってる。

 ママがいた頃は良かったなぁ――なんて、心から思う。

 

 でもアズサのやつにその名前で呼ばれるのはなんか癪だったので、とりあえず本名を名乗った。

 思えば適当に偽名でも使えば良かったかもしれないけど、アズサのあの超絶暴力を見せつけられた後になんかウソつく度胸はなかった。


 って、そういえば。

 あたし、イトに本名言ってなくね?

 ていうか、確実に言いそびれてる。

 ニコでいいじゃん、って思っちゃってるから。


 ……うん。

 まいっか。


『異名あるじゃないですか!頼子さん!』


 ちげーし。

 ニコはライジングじゃねーから。

 てかあんたこそ何がどうなってんだよ。


 

◆◇◆◇

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