②パーマネントバケーション

◆◇◆◇



 かち。

 ライターの火は付かない。

 

 かち。かちかち。

 ライターの火は付かない。

 

 かちかち。かちかちかち。

 ライターの火は付かない。


 かちかちかちかちかち。

 オイルはちゃんと入ってる。

 なのに付かない。火は付かない。


 かちかち、かち――。

 煙草を吸おうと思ったけど。

 糸がぷつりと切れたように。

 なんだか執着も薄れてきた。


 そうして、手元のライターをまじまじと見つめて。

 “俺”はひょいっと、それを“街”目掛けて放り投げた。

 ライターはみじめな放物線を描いて、数十メートルの高さを落下していく。

  

 ビルの屋上からの景色。灰色の繁華街。その上には、澄んだ青空が果てしなく広がる。 

 ――空が澄んでるから何だってんだよ。

 何処に届くわけでもない鬱憤を零しながら、“俺”は理由もなく景色を見つめていた。


 “今日”というやつは。

 朝になると、またやってくる。

 ずっと、ずっと、回り続ける。


 ろくな荷物は無い。

 あるのは煙草とスマホ、財布。

 それに御礼用の金とお土産。

 ライターは今まさに投げ捨てた。

 煩わしいものは昨日のうちに何もかも投げ出した。

 最後の未練を除けば、ろくな心残りもない。


 やがて“俺”は、ジャケットの内側のポケットに手を突っ込む。

 煙草の箱を右手で取り出して、そいつをほんの少しだけ一瞥し。

 そのままさっきと同じように、勢いよく放り投げた。

 名残惜しむような気持ちは、もうすっかり無くなっていた。


 

◆◇◆◇



 ニコちゃんがばかになった初日――。

 街は灰色。色褪せてて、無音ばかりが横たわる。

 東京都内、それも都市部の繁華街なのに、ひどく寂しげな情景で。

 だからこそ、此処は私達の庭になっていた。

 

 緊急事態宣言が出てから一ヶ月ほど。

 街中は自粛だの休業だので、あちこちの店が黙り込んでいる。

 あちこちの学校も次々に休校になってて、会社員も今じゃ自宅勤務ばかりになっているらしい。

 このへんは又聞きでしかない。学校行かないし。

 

 日頃から街を散策していても、あちこちの店が昼間からシャッターが降ろされている。

 “当面の間お休みします”とか“宣言中は自治体の要請に従い営業を自粛します”とか、決まってそんな張り紙が添えられている。

 平日でもそれなりの人が行き交っていたはずの都会は、今じゃすっかり閑散と大人しくなっていた。


 この静まった街の中で、私達は束の間の自由を日々謳歌しているけど。

 それが幸福なのかどうかは、自分でもよく分からない。

 私たちはただ、今という時間を当てもなく過ごすだけ。

 黙り込んでしまった、この都会の中で。

 

「でもコンビニはやってんだよなぁ」


 てれるらららん。てれるららん。 

 繁華街ど真ん中のコンビニから出る私(イト)とニコちゃん。

 そのまま出入り口の横っ側まで移動する。

 

 私が右手から提げている小さなビニール袋。その中には赤紫の缶がふたつ。“ドクペ”である。

 “マーチンもドクペもドクターだし”という心底訳の分からない理由でニコちゃんが愛飲していたけど、気が付けば私もしょっちゅう飲むようになってた。

 お互い医者とか病院とか嫌いなくせに、こういう時だけドクターに頼る。


 がさごそとビニール袋に手を入れて、ドクペを一本取り出して。

 きゅぽん。そのまま缶のフタを開ける。

 店員さんから貰ったストローを中に突っ込んで、すっとニコちゃんに差し出してみる。

 流石に今のニコちゃんの状態でがぶ飲みは無理そうだし、こっちのが飲みやすそうかな――などと考えて、ストローを用意したのである。

 

 自力で上手く外せないみたいなので、ついでに口元のマスクも顎までズラしてあげる。

 相変わらずニコちゃんは遠いところを見つめているけど、眼の前にやってきたストローに反応してくれた。


「ニコちゃーん、ドクペだよー」


 じゅわじゅわ。ぼとり。

 そう言った直後に、ストローが缶の中から零れ落ちた。

 まるで何かに押し上げられたみたいに、ふわふわと、ぼとりと。

 というか妙に泡が吹き溢れてる気がする。


「は?」

「うー」

 

 突然の理不尽に思わず声を上げてしまい、私はいそいそとストローを拾い上げる。

 炭酸にストローを突っ込むと普通は浮かぶ――そんな当たり前のことに気付いてなかった私は、懲りずにまた缶の中にストローを突っ込む。

 汚いけど、まぁニコちゃんたまに大雑把だし許してくれるでしょ。たぶん。おそらく。きっと。


 そうして再びニコちゃんの顔にドクペ近付けた。

 ぼとり。またストローが浮かんで地面に零れ落ちた。

 がつん。その矢先にニコちゃんがドクペの飲み口に歯を突き立てる。


「おい、ニコちゃん」

「あぅ、ぉ」


 がり。がり。がり。

 缶の口やら、淵やら、がりがりと齧ってる。


「お、おい、だいじょぶかニコちゃん」

「ぅあ」


 がり。がり。がり。 

 まるでリスやハムスター、要するにげっ歯類みたいにアルミ缶に食らいついてる。 

 その奇行を何とも言えぬ顔で見つめている私。ニコちゃんは飲み口に食らいついたまま離れない。


「いやいや、飲めてないよニコちゃん」

 

 とりあえず親切心(?)から、缶を軽く傾けてあげた。

 そしたらニコちゃん、まるでオットセイのように喉を鳴らしながらドクペをぐいぐい飲み始めた。

 ぐび、ぐび、ぐび。そんなふうに流し込んでから、ニコちゃんは口を離す。


 思いのほかガッツリと飲んでいる。

 その様子を見た私は、恐る恐るとニコちゃんに缶を手渡してみようとする。

 ――ニコちゃん、かなりの力を込めて缶を奪ってきた。しかも意味不明に速すぎた。

 ドングリを抱えるリスのごとく缶を両手で挟んだニコちゃんは、そのまま飲み口に食らいつくようにグイッとドクペを呷り始めた。


 凄まじい飲みっぷりだった。

 ぐびぐび、ぐびぐび、ぐびぐび――。

 もはやニコちゃんの口元から炭酸飲料が溢れてる。

 窒息するんじゃないかという勢いで飲み干していく姿を、私はだいぶ引き気味に見守っていた。

 

 十数秒くらい経っても、ニコちゃんは缶を傾けてた。

 おう、おぉ、うおぅ――さっきからそんな感じの呻き声を喉から零している。

 もうとっくに缶の中身を飲み終えているらしい。でもニコちゃん、未だにドクペから口を離さない。

 ばかになっても、ニコちゃんはドクペばかだった。


 ドクペに食いついてるニコちゃんをよそに、私は足元に落ちてるストローを見下ろした。

 “これ貰う必要なかったなぁ”とか“ポイ捨ては良くないかな”とか、色々と思いを巡らせたけど。

 よくよく見れば紙ストローだったことに気付いたので、スニーカーの靴裏で遠慮なく踏み潰した。




 

 ――それから十数分後。

 ドクペの缶を飲み干した私達は、小汚い路地を共に歩いていた。

 私はニコちゃんの手を引く形で先導している。

 

 さっきはニコちゃんが私のドクペまで奪おうとしたので、暫くわちゃわちゃ揉み合う羽目になっていた。

 私も缶のフタを開けて自分のドクペを飲もうとしたら、ニコちゃんはあうあう言いながら迫ってきた。

 それまで延々と空っぽになった缶に食いついていたのに、妙なところで反応がいい。

 しかし私もドクペを飲みたかったので何とかしてこれを死守し――たまにニコちゃんをべしべし叩いた――、そうして無事に飲み干したのである。


 ドクペは一種のエネルギー飲料である。

 少なくとも、私たちにとっては。

 今日も同じ。これから“用事”を済ませるために、景気付けとして飲んだのだ。


「ニコちゃん」 


 そして私は、振り返る。

 何も答えてはくれないニコちゃんを流し見た。

 

「“ネズミさん”と会うの、付き合ってね」


 ホテルを出た直後、“パパ”からの“連絡”が入った。

 これから会いたい。近場に居るならすぐに来てほしい。お金なら沢山渡すから。××の雑居ビルで待ってます。

 ひどく切羽詰まった文面で、私のDMにそんな主旨のメッセージを送ってきたのだ。


 近いうちに訪れる“トシキくんの誕生日”を除けば、直近の用事は特にない。

 お金を貰えるんなら、貰っておいた方が得だ。ささっと済ませよう。

 今のニコちゃんを放っておく訳にもいかないので、取りあえず連れて行くことにした。

 

 



『いや危なくない?依渡』

『やっぱそう思うかなぁ』

『めっちゃ犯罪の匂いするやん』

『まぁ、最悪ニコちゃんに助けてもらうから』

『いきなり責任背負わされたんだけど』

『ニコちゃーん♥』

『可愛いこぶって押し切ろうとすんな』



 


 私は14のこども。

 ろくな働き口があるはずもない。バカだからバイトなんかもできない。そもそも真っ当な人付き合いができない。

 でも一人で生きられるために、手っ取り早く稼ぎたい。出来ればそれなりの額を。

 金がなけりゃ何もできない、市販薬すら買えない。ただのつまらないガキんちょに逆戻り。

 じゃあどうするのか。簡単なことだ。自分を売り物にして稼ぐ。

 つまりパパ活である。

 

 SNSを窓口にして男の人とコンタクトを取り、お金を対価に食事だの娯楽だのデートをする。

 ――ということになってるけど、結局カラダを売った方がさっさと稼げる。だから私は大体そっちで食ってる。

 会った直後にそのままホテルに突撃、なんてのはしょっちゅう。立ちんぼもやってたけど、今は突っ立ってもそもそも人が来ない。

 緊急事態の真っ只中なので、どのみち普通にパパ活してもデートでやれることも少ない。

 

 そんな訳でパパ活とは言っても、私のやり口は要するにほぼ援交である。というか有り体に言えば売春。

 今じゃ言葉の定義や範囲も曖昧になってるらしいけど。

 

 女子中学生とやりたい大人なんてのはちらほらいる。女子中学生とやるために金を出す大人がいる。

 そういう人達がお客様。私が一人で生きるための生命線。若さをブランドにして、それなりの金を吹っ掛ける。ろくでなしの商売。

 そんな境遇なのはニコちゃんも同じ。というかニコちゃんのがその方面では先輩だった。

 ニコちゃんの場合、“トシキくん”に貢いでるので私よりもっとお金が掛かる。

 そういうわけで、閑話休題。


 で、改めて今どういう状況なのかといえば。

 何度も私を買ってる常連の“パパ”に呼び出されたのだ。

 待ち合わせ場所、何故か8階建て雑居ビルの屋上。犯罪の匂いがそこはかとなくする。

 けれど、DMの文面がやけに切羽詰まっていたので、とりあえず恐る恐る顔を出すことにした。

 昨夜はパキったし、今朝はドクペ飲んだので、元気いっぱい。大丈夫だ。たぶん。




 

「ごめんねえ、こんな時に呼んじゃって」 

「いやいやいやいや、危ないってば」

 

 ――そうして、今に至る。

 ニコちゃんをいそいそ連れて、屋上の扉を開けた私が目にしたもの。

 落下防止用の手すりの外側に立ち、今にも飛び降りそうな“ネズミさん”の姿だった。





 常連パパ、鼠小路さん。ねずみこうじ。

 不思議な名前だけど、いちおう本名らしい。

 語呂が悪いので私はいつも“ネズミさん”と呼んでる。

 

 本人の自己申告によれば30代の会社員。名が体を表すと言わんばかりに、不思議と顔もネズミっぽい。

 具体的に言うと、ハダカデバネズミとかに似てる。出っ歯で貧相に痩せこけてて、歳の割には老け込んだ雰囲気。 

 けれど服装は相変わらずキメキメ。紺色のスーツにグレーのニット、それにフェルトの中折れ帽。いつもラルフローレン中心で固めて格好つけてる。

 ただ、ちゃんとクリーニングとかに出してないのか、あるいは古着で揃えてるのか、全体的に縒れてて貧乏臭い。


 まあ、落ち着いて。早まらないで。

 とりあえず座りなよ。話とか聞くから。 

 そんなふうに説得をしてみたら、ネズミさんは案外すんなりとその場に座ってくれた。 

 ネズミさん、今は屋上の端で足をブラブラさせてる。これはこれで危ない。

 

 ニコちゃんはあうあう言いながら何度かネズミさんに迫ろうとしていた。ネズミさんのこと突き落としたいらしい。

 猫が鼠を弄ぶのと同じ心理かもしれない。私が全力で止めたらニコちゃんは大人しくなってくれた。

 今にも死にそうだったネズミさんもニコちゃんの意味不明な奇行には大分ビビってた。


「ネズミさん、急にどうしたの」

「なんかね」


 そうして私は、手すりに寄り掛かるような形で地べたに座り込みながら。

 手すりの外側に座るネズミさんの後ろ姿を見つめて、問い掛けた。

 どう見ても飛び降り寸前。そんな状況で私を呼びつけたのだ。

 聞かずにはいられなかった。


「最後に寂しくなっちゃってさ」


 だから、話相手が欲しくなっちゃった。

 ネズミさんはただ、ぽつりとそう答える。


「……そうなんだ」

 

 それ以上の答えは、何もなくて。

 それから、暫しの沈黙が訪れて。

 ネズミさんに、何かもう少し聞いてみようとした矢先。


「あ、イトちゃん、そこ」

「ん?」

「そこに君への御礼のお金と土産置いてるから、好きに持ち帰ってね」


 ふいにネズミさんが屋上の隅っこを指差す。

 私の死線がそちらへと向く。出入り口の側に立てかけるように、大きめの紙袋が置かれていた。

 

「え、いや、でも……」


 それ下手すれば私達に容疑かかるんじゃ。

 “パパ活女子二人組が30代男性から金品盗んでビルから突き落とし”みたいな。

 

「あー、自宅に遺書置いたから心配しないで。

 ちゃんと自殺扱いで立証されるから、たぶんね」


 そう言いかけた私の思考に先回りするみたいに、ネズミさんはそう補足する。

 ま、まぁ、それなら良いのかな。お金貰えるんなら有り難いし。

 とりあえず有無を言わさず納得してしまった。


「そういえばその娘、友達?」

「まぁ、はい」

 

 それからネズミさん、今度はニコちゃんに視線を向けた。


「今はたぶん“まむし”のせいでばかになっちゃってます」

「そんな感じになる人、ほんとに居たんだね」


 ニコちゃんは屋上でふらふら回っている。

 挙動不審な所作の数々を見て、ネズミさんは呆けたように呟く。

  

「俺もこないだ検査したら“まむし”に付かれててさ」

「ウソ、そうだったんだ」

「そのまま無症状で終わった」

「ですよねぇ」


 結局のところ、“まむし”感染者の大半は無症状で終わってるらしい。

 人間の身体の免疫とかで普通にやっつけられてしまうそうだ。

 けれど体質差によるところも大きくて、たまに拒絶反応で死んじゃう人がいて、中にはおかしくなっちゃう人もいるらしくて。

 そもそも“まむし”自体が偉い人たちにもよくわかんないらしいから、緊急事態宣言なんか出されてる。

 ばかになっちゃったニコちゃんは貴重な例なのだ。


 2、3年前。コロナなんとかってのがちょっと流行った時は、緊急事態宣言が出されるんじゃないかって騒がれたけど。

 蓋を開けてみればコロナうんたらはさっさと収束を迎えて、なんやかんやで事なきを得ていた。

 けれど入れ替わるように“まむし”がこの社会にやってきて、結局はこうなってしまった。


 そうして私達は、この街を彷徨った。

 騒がしい人混みは、何処にもいなくなって。

 路地裏から顔を出したボンクラたちが、のそのそ這いつくばるようになった。

 

 規律。規範。常識。道徳。その他いろいろ。

 溢れんばかりに街を行き交う人々は、みんな良心の運び屋だった。

 そこで生きるすべを持たないドブネズミどもを追いやりながら、川は流れ続けていた。

 そんなふうに社会を覆っていた濁流が、今はこうして堰き止められている。


「俺もさぁ」


 だから、こうして。

 ネズミさんも、顔を出したんだろう。


「いっそばかになりたかったよね」


 見栄っ張りのネズミさんにしては。

 随分と弱々しい姿に見えた。 

 

「会社クビになったんだ、俺」

「そうだったんだ」

「緊急事態のせいでゴタゴタして、経営厳しいんだってさ」


 街中の光景を思い返す。

 休業。時短営業。あるいは、閉店のお知らせ。

 緊急事態であちこちの会社や企業が大騒ぎになって、対応に追われたりしてる。

 私には詳しいことは分からないけれど、仕事がなくなる人達も多いという話は聞いていた。 


「ネズミさん、いい企業務めてたんだよね」

「あー、あれウソ」

「うわマジかぁ」

「俺、見栄っぱりだからさぁ」


 そしてネズミさん、まさかの告白。

 私は呆気に取られるけど、道理で不思議だとは思ってた。

 だってネズミさん、明らかにいつも無理していたから。

 お金を使うときも、格好を付けてるときも、まるで“何かのフリ”をしているように見えた。

 自分じゃない何かを必死に演じてるみたいな、そんな違和感があった。


 そこまで察したのに、何故だかネズミさんを詰るような気持ちにもならなかった。

 だからほんの少し、気まずい沈黙が流れる。

  

「……まあ、ネズミさん」


 私は鞄の中から、風邪薬の瓶を取り出した。

 それをネズミさんの背中へ向けて、すっと差し出した。

 

「とりあえず、パキってみる?」

「いや、いいよ」


 ネズミさんは、にべもなく断る。

 分かってはいたけど、ほんのり残念な気持ちになる。


「めちゃくちゃ気持ちいいけど」

「酒とかもさ、後で悲しくなるんだよね」


 身に沁みたように、そう呟くネズミさん。


「酔いから覚めたら、死にたくなるもん」


 実際もう死ぬんだけどね。

 ネズミさんは、なんだか飄々と笑っていた。

 私はほんの少し、呆気に取られてしまったけど。

 考えてみればパキるのも似たようなもんだと思って、苦笑いをしてしまった。


  



「ネズミさん、なんで私のこと買ってたの?」

「女の子に興味があったから……」

「正直だな……」


 ここはきっぱり云うけど。

 女の子を買う大人は、まともじゃない。 

 父親みたいなツラして下心むき出しのおじさん。

 余計な一言ばかりでデリカシーのないおじさん。

 何故か態度ばかりデカくて高圧的なおじさん。

 見渡せば、色んな人達で溢れかえっていた。


「そういう奴なの、俺は」

 

 散々な目に遭ったことは数知れず。たまには良い人もちらほら居たけど。

 どれだけ取り繕ったところで、結局は“こどもと性的に戯れたい大人”でしかない。


「……ま、そうだよね」

 

 けれど、そんな大人が居なかったら、きっと私はろくに稼げもしない。

 私は結局、大人の金と性欲がなきゃ生きていけないのだ。

 それがなければ、私はとうに野垂れ死んでる。

 

 それぞれ見下したり、見上げたり、食い物にしたり、カモになったり、愛憎とかを入り混じらせて。

 皆がこの狭間を彷徨って、路頭に迷っている。


「ほんとにいいの?」

「いいかなぁって思った」

「ほんとのほんとに?」

「うん」


 念を押してみるけど、ネズミさんの答えは変わらない。

 結局ネズミさんは、死にに行くらしい。

 

 ネズミさん。思えばパパの中では付き合いの長い方だった。

 どういう人かと言えば――悪い人じゃないけど、割とデリカシーは無い方。なんかマイペースだし。

 こうして最後の瞬間に呼び付けるのも、ネズミさんならやりそうだなと思った。

 その図々しさに、思うところもなくはない。


「もう何やってもあんま楽しくないからね」


 そして、まぁ。

 哀しげにそう呟くネズミさんは、気付いてないのだと思う。

 この人は、前からあんまり楽しそうじゃなかった。

 

 隈だらけの目元と、放心したような眼差し。

 ネズミさんはいつも疲れてる感じがした。

 私を買い続けてたのも、惰性か何かだったのだろう。

 満たされるわけでもないのに、満たされる気がして、何かに注ぎ込んでしまう。

  

「寝て起きて、寝て起きて、また寝て起きて。

 何にもない毎日が、ずーっと繰り返しでやってくる」


 ぽつぽつと語り始めるネズミさん。

 まるで、懺悔か何かみたいだった。

 

「それでも歳を重ねていけば、いつかは俺も“男”になれるんじゃないかって思ってた」


 神父さんに自分の過ちを打ち明ける、信者みたいに。

 自分の人生の“失敗”を、私に告白してくる。


「でも……会社クビになって、空っぽになっちゃった街を見て、やっと気付いた」


 私は、聖職者でもなんでもないし。

 ましてやネズミさんよりも遥かに歳下だ。

 けれど、一つだけ分かることはある。



「俺は、何処にも行けないんだなって」



 子供でいられないっていうのは。

 きっと、すごく辛いことなんだろう。


 ネズミさんは、いま。

 私達よりも、ずっと先に。

 袋小路の果てに来ている。


 前に誰かから言われたことがあった。

『まだ若いんだから』とか、『これからだよ』とか、『10代で人生に絶望する必要なんかない』とか。

 だから何なの、としか思えなかった。私達には今しかない。先のことなんて知らない。


 知らないことは沢山あるし、知りたくないことも沢山ある。

 けれど、私たちはまだ若くても、ネズミさんはもう若くはいられなかった。

 大人になるって、多分そういうことなんだと思う。


「……もうイトちゃんしか、話す相手もいないんだよなぁ」


 ネズミさんは、空っぽの街を見つめながら言った。

 何かに手招きでもされるみたいに、果てのない景色に見惚れていた。

 仄暗くて、何処までも深い、灰色の溝底。

 自分の価値が分からない“誰か”は、金と性を握り締めて路地裏に引き寄せられる。

 後は蛇みたいに、這い回るだけ。

  

 ああ、そういうもんなんだなぁ。

 何故だが、そんなふうに思った。


「君には、その娘がいるんだよね」

「うん。私の相方、ニコちゃんなんで」


 けれど、ごめんね。

 これ以上は付き合えない。

 

「私は別に、ネズミさんの娘でも恋人でもないからね」


 その線引きだけは、きっちりさせてもらいます。

 ネズミさんは何も言わず、躊躇いがちに、コクリと頷いていた。

 

 私は慈善事業でネズミさんと関わった訳じゃない。

 結局はお金のために、カラダを売っているだけ。

 クスリでだめになってる子供が、もっとだめになりたくて馬鹿やってるだけ。

 だから、勝手に誰かの“きれいな思い出”にされるのは、納得が行かなかった。


 こうやって彷徨い続けてるけど。

 それは、あなたとの思い出じゃない。

 ニコちゃんとの思い出なのです。

 

 ネズミさんは暫しの沈黙を経て、腹を括ったように深呼吸をして。

 それから、懐にしまってた何かを取り出した。

 スマホである。ネズミさんは右手に握ったそれを、街へと目掛けて投げ捨てた。

 いよいよ現世への未練を断ち切ると言わんばかりに、なんの躊躇もなく。

 

 ああ、本当にやる気なんだなあ。私は改めて悟る。 

 なんだか、止める気にはなれなかった。

 私が止める理由なんて、そもそも無いのだろう。

 その寂しげな後ろ姿を見て、私は何とも言えない思いを抱いていた。



 

 

「あ、そうだイトちゃん」


 ――ん?


「ひとつお願いしても良いかな」


 おう。急にどうした。

 

「俺の好きな曲流してもらっていい?」

「あ、はい。いいケド」


 いきなり切り替え早いな。


 

 


 最期だから大好きな曲が聴きたい。

 そんなネズミさんのリクエストに応えてあげることにした。

 ”自分で流せばいいのに“と一瞬思ったが、そもそもネズミさんはたった今スマホ捨てたから流せないのだった。

 そうして私は音楽アプリを開いて、ネズミさんから伝えられた曲名を検索。

 有名な曲だったのですぐにヒットした。ポチッと再生。


「ていうか、ネズミさん」

「何だい」


 ぽわんぽわんぽわんぽわぁん――。

 UFOか何かでも降ってきそうなシンセサイザーのイントロが流れる。

 そこから突入。シンプルなのに異様に耳に残る、闊歩するようなベースライン。

 私でさえ何となく知ってる曲だ。映画見たことないけど。

 まぁ、それはいいんだけど。

 

「これから死ぬんでしょ」

「うん」

「なんでゴーストバスターズ?」

「え、だって……いい曲だし……」


 うっかり化けて出たら退治されちゃうヤツじゃん。


「いや、いい曲なのは分かるけどさ」

「分かるよね」

「ひょっとして死後退治されたい?」

「それはやだけど……」

「じゃあなんでゴーストバスターズ……」

「いい曲じゃん……」

 

 ネズミさんは私のツッコミにバツが悪そうな返事をしたけど。

 それから何事もなかったかのように、頭を揺らしたり指で脚をトントン叩いたりしてリズムに乗っていた。 


 そうして、曲が終わるまでおよそ4分が経過。

 ネズミさんは死を前にしてノリノリだった。

 私も思わずノリに乗りそうだった。

 ニコちゃんは若干乗ってた。

 確かにいい曲だな、これ……。



 ◆

 


「ありがとね、イトちゃん。お友達の方も」

「うん。元気でね」

 

 曲を聴き終えて満足したネズミさんは、屋上の端で立ち上がっていた。

 もう悔いも未練もない。そう言わんばかりの清々しい微笑みを浮かべて、私と言葉を交わす。


「最後に居てくれてよかった」

「なら良かった」

「即死できることを祈ってね」

「ニコちゃんと二人で祈ります」

「あぅ」


 ニコちゃんは相変わらずボケっと虚空を見つめてる。

 明らかにネズミさんの死に興味なさそうだったけど、まぁ私と一緒に祈ってることにしよう。


「じゃ」


 そして、ネズミさんがピシッと片手を上げる。

 最後の挨拶だ。ほんの少しの不安と、大いなる安心感が、表情から滲み出ていた。


「さよ〜ゥなら」


 甲高く戯けた異常な裏声で、ネズミさんが別れの言葉を告げた。

 それから、間もなく。

 

 ネズミさんが、ぴょんと跳んだ。

 ネズミさんが、屋上から飛び降りた。 

 重力に引っ張られたその姿は、あっという間に見えなくなった。

 

 はらり、はらりと、中折れ帽が宙を舞っている。

 落下の際に頭からすっぽ抜けたのだろう。

 まるでカートゥーンか何かの演出みたいだった。

 それはほんの少しだけ漂っていたけど、間もなくそよ風に吹かれて、何処かへと飛ばされていった。


 私はさっきまでネズミさんが立ってた場所を、ぽけっと見つめていた。

 沈黙。無音。静寂――まぁニコちゃんは呻いてるけど、それはそれ。

 静まり返った屋上で、ただぼんやりと佇んでいた。

 そうして暫しの余韻を経てから、私はふと思う。


 ねえ、ネズミさん。

 いつも思ってるんだけどね。

 別れの挨拶で変なウケ狙うのはやめといた方がいい。



 

 

 気が付けばもう、昼過ぎだった。

 空は相変わらず青く澄んでるけど。

 街は変わらず、灰色の沈黙に包まれている。


 分かってたけど、ほんとに死んじゃった。

 眼の前で起きた事実なのに、まるで夢での体験のように思えてくる。

 現実と空想が、一緒くたになってるような。

 そんなふわふわとした感覚が、私の中で浮遊し続けている。

 

 救急車とかパトカーとか、その手のサイレンの音がやってくるような気配は無かった。

 ネズミさんは何事もなく落ちて、誰にも気付かれることもなく、多分そのまま遠いところへと行っている。

 今の私に出来ることは、ネズミさんが一撃で苦しまずに星になっているのを祈ることだけだった。


 一瞬、屋上から真下を覗き込もうかと思ったけど。

 躊躇いに後ろから髪を引かれるように、私は踏みとどまった。

 ほんの数秒ほど。ネズミさんを落とした重力のような何かに、引きずり込まれそうになって。

 けれど私は後ずさって、まだ地に足を付けたまま、後方へと振り返った。


 ニコちゃん。ピンク色の髪を乱れさせながら、手すりのすぐ側でしゃがみ込んでる。

 がさごそ、がさごそと、ネズミさんの置き土産を物色していた。

 

 相変わらず何か唸ってるし、私と視線を合わせようともしない。

 けれど、ニコちゃんがそこに居るだけで、不思議と安堵が押し寄せて。

 同時に、夕焼けのような寂しさが込み上げてきた。

 飛び降りたネズミさんの姿が、脳裏で何度も反響を繰り返している。


 ――ばりばり。べりべり。

 そんな私の感傷もいざ知らず、ニコちゃんは箱を容赦なく引き千切っている。

 その中から取り出したものを握り締め、力任せにフタを開けていた。

 

「てかニコちゃん、お土産なに?」


 そう問いかけてみたけど、ニコちゃんはやっぱり振り返りもしない。 

 しゅわしゅわしゅわ――まるで泡が吹き出るかのような音が聞こえてくる。

 

「……それって」

 

 訝しむような顔をしていた私だったけど。

 乱暴にマスクを外しながら何かを呷るニコちゃんの姿を見て、土産の正体にようやく気付いた。


「……またドクペか……」


 1パック8個入りのドクペである。

 そういやネズミさんにも教えてたな。

 私の好物、ドクペだって。



 


 きゅぽんっ。

 しゅわしゅわしゅわ。

 ぐび、ぐび、ぐび――。



◆◇◆◇

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