①トレインスポッティング

◆◇◆◇


 

 いってぇ―――。

 ずきずき、ずきずき。

 くらくら、くらくら。

 

 じんわりと覚醒していく意識。

 神経を苛むような不快感。

 目覚めは憂鬱。毎日のことだ。

 頭が痛むのも、よくあること。

 お気に召すまま楽しんだ後は、大抵ひどいことになる。


 煤けた色のカーペット。あちこちに散らばる白粒。

 まるで雪原の中で眠るお姫さまみたいに、横たわる私。

 銀のインナーカラーが入った黒いボブカットの髪を、くしゃりと曲げながら。

 何もない天井を、煩わしい気持ちで見上げていた。

 

 ベッドの上。充電コードに繋がれたスマホからは、しっとりと曲が流れ続けている。

 チルでローファイなサウンド。またしても眠りに落ちてしまいそうになる、微睡みのBGM。 

 目覚めの気怠さが音楽とともに伸し掛かる中で、こうなる前の記憶を手繰り寄せていく。


 イト。それが私の名前。

 “にんべん”に衣、そんで渡るって書く。

 それで依渡(イト)。

 変な名前って、自分でもずーっと思ってる。

 けど、カワイイから好き。“依渡ちゃん”。

 なんか、響きがお人形さんみたいだから。

 名前だけは、気に入ってる。

 寝起きの揺蕩いの中では、自分が何者であるのかを省みたくもなる。


 で、なんだっけ。 

 確か―――そうだ、ここホテルの一室だ。

 黒いジャージにドンキのTシャツ、黒いミニスカートに白黒のスニーカー。

 いつもの格好で友だちのニコちゃんと会って、外で適当に駄弁りまくって。

 日が落ちて寒くなってきたから、そのまま一緒に安宿に突撃して。

 そうして好きな曲を流しながら、部屋の中で思う存分に仲良くパキりまくって。

 そのままハイになって、なんやかんや意識がぶっ飛んで、気が付けば床でぶっ倒れていた。

 相変わらず頭はくらくらするけれど、そんな自分の状況はやけに冷静に把握できていた。 

 包帯を巻いた右手――興味本位でリスカした時にざっくりやりすぎた――を動かして、自分の頭を軽くかきむしる。


 やがて床に散らばっているものへと、視線を向けた。

 雪みたいに真っ白な錠剤が、あちこちにばら撒かれていた。

 そのすぐ傍には、空っぽの小さな瓶が幾つか転がっている。

 まるで胃の中のものを戻したみたいに、硝子の器はその口から粒を吐き出していた。

 私はその様子を、ぼんやりと見つめていたけれど。


「わぁ……やっばい」

 

 遅れてから間抜けにびっくりして、私は身体を起こした。

 そのままわんこみたいに這いずり回って、あちこちに手を伸ばす。

 無造作にちらばった白い粒をいそいそと掻き集めて、必死になって瓶の中へと戻していく。

 まずい、まずい、マジで勿体ない―――私の頭の中は大慌てだった。

 まるでお菓子かなにかを掴み取るみたいに、床のあちこちに落ちた粒を拾い上げる。

 たぶん、ハイになってる最中になんか勢い余ってぶちまけたんだろうと思う。

 

 顔を覚えられないように、あちこちのドラッグストアを練り歩いた。

 市販の”風邪薬“を各地で買って、お気に入りのカバンに詰め込んでた。

 なんとか省の偉い人が、店に対して“特定の薬の販売は一人につき一つだけ”みたいなお達しをしているらしい。

 だから薬を買い貯めするためにも、尚更色んな店を巡っていかなきゃいけない。マジでめんどくさい。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。

 

 私の動揺もいざ知らず、洒落た音楽が気さくに流れ続ける。

 チルなサウンドはいつの間にか終わっていて、クラブで流れるようなダンス・ミュージックに切り替わっていた。

 テクノ――いや、ハウス?ジャンルはよく覚えてない。とにかくエレクトリックで踊るやつ。

 こうして二人でつるむとき、ニコちゃんは自分の好きな音楽をわざわざ私のスマホで流す。

 いつものことである。だってニコちゃんのスマホ、音質が意味不明にごみなので。


 そうして必死になって錠剤を掻き集めてから、私は友達の存在に思いを馳せる。

 瓶の中にやっとこさ白い粒を戻し終えて、ふと顔を上げた。


「……ニコちゃん?」

 

 ベッドの上に、友達の姿はない。

 床に転がっているのかと思って、少し見渡す。

 けれど、何処にも横たわってはいない。

 きょとんとした私は、ふいに出入口の方へと視線を向ける。


 ごつん、ごつん。

 玄関の直ぐ側、ユニットバスのある部屋。

 そこから、変な音が聞こえてくる。

 半開きになった扉を、私は暫くぽかんと見つめた。

  

 視線を落としてみると、拾い損ねていた小さな白粒が、転々と落ちていた。

 まるで洗面所へと向けて、線でも引くかのように。

 私に向かって、手招きでもするかのように。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。 

 




《拒絶反応による“感染者”の死亡例を複数確認》

《持病を抱えた方や高齢者など、免疫の弱い方々に多く……》

《身の回りの対策の徹底を……》

 

《感染者が増加中》

《本日の死者は都内で3人》

《拒絶反応によるものと……》

《大半が無症状》

《対策は進んでいるものの》

《人々の危機感は薄く……》

《SNSでは悪質なデマが……》

《危機意識の差で町中でのトラブルも……》

  

《“まむしの感染者”による殺人?》

《被害者は撲殺?》

《被害者は頭部が激しく損傷し……》

《加害者はその後射殺?》

《加害者はその後行方不明?》

《少なくとも10件前後のケースが存在?》

 

《ごくまれに免疫による死滅を突破?》

《ごくまれに拒絶反応を突破?》

《最終的に認知症に近い状態に?》

《最終的に子供がえりの状態に?》

《最終的に脳死状態のまま動く?》

《最終的に肉体が変異を起こす?》

《宇宙生物による寄生の終着点?》

 

《情報が錯綜》

《フェイクニュースにご注意を!》

 

 



 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


 ニコちゃん。確か16歳、私の2個上。

 私の唯一の友達で、大親友で、相方。

 けど名字とかは知らない。

 トレードマークはピンクの髪と、右脚に彫った蛇のタトゥー。

 大好きなのはマーチンのブーツ。あとメンズコンカフェの推しキャスト『トシキくん』にしょっちゅう貢いでいる。

 

 そんなニコちゃんと私は、気が向いたらいつもつるんでる。

 “もうじきトシキくんの誕生日だし、それまで何日か二人で気侭に時間潰そう”――そういう感じで昨日も会って、今に至る。


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 

 さっきからシンセとかの重低音が響いてる。

 4つ打ちの似たようなリズムが繰り返されて。

 私達をダンスホールへと誘っている、ような気がする。

 

「あう」

「ニコちゃんどしたの」


 そう、私達ふたりを。

 私は、浴室を覗いていた。

 友達が、洗面台の前で立ち尽くしていた。

 というか、鏡にごつごつと顔をぶつけてた。


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


 ――いや、どうした。

 そんなツッコミが思わず心の底から湧き上がってきた。

 ベッドのある寝室からは、EDMのリズムが変わらず響き続ける。

 一本調子。リズミカルに、ダンサブルに、スマホから垂れ流される。


「うー」

「めっちゃヨダレ出てんじゃん」


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


 ニコちゃんは唸ってばかりで、反応なし。

 呆然と鏡を見つめて、なんかうわ言をぼやいてる。

 私は友達の肩を掴んで、こちらの方へグイっと身体を向けさせる。


「お……あ」


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


 口の端からは、やっぱり涎を垂れ流してる。

 顔色もあまり良くないし、瞳も何処を向いているのかいまいち分からない。

 まだラリってるんだろうか。昨日はしゃぎすぎて、悪酔いしちゃったのかな。

 そんなことを思いながら、私は自分のジャージの袖でニコの涎を拭いてあげる。

 そのまま虚ろな面持ちのニコちゃんをじっと見つめて、ゆさゆさと揺さぶりながら呼び掛け続ける。


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


「おーい、ニーコちゃーん」


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


「そんな顔してたらさ―」


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


「トシキくんに引かれちゃうぞー」 


 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。

 ずんちゃ、ずんちゃ。


「聞いてよぉ」


 ずんちゃ、ずっちゃ。

 ずってん。ずってん。

 ずってん。でってっ。


「ニコちゃ、」

 

 でってっ。

 でってっ。

 でってっ。

 でってっ――。

 

 がこん。

 鈍い音と、鈍い痛み。

 おでこを中心に、感覚が迸る。

 頭をぐわんと揺さぶられるような衝撃と共に。

 私の身体は、勢いよく後方に転倒していた。


 

 


《2023年9月20日》

《非常事態宣言を発令》

《不要不急の外出を控えましょう》 

《“まむし”にご注意を》


 

 


 でってっ。でってっ。

 でってっ。でってっ。

 でってっ。でってっ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


 ――え、なに?

 真っ先に抱いた疑問。

 

 私の動揺なんか、流れる音楽はいざ知らず。

 繰り返されるリズムは山場へと向かう。

 電子音が踊り狂う。メロディが跳ね回る。

 変な英語のボーカルも割り込んできた。

 気付けば10月末、秋朝のホールは最高潮。

 なのに私は横転。あの娘は棒立ち。

 

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


 ニコちゃんが、蹲る私に迫る。

 ダンサブルなサウンドに乗るみたいに。

 私のお腹を、力任せに蹴り飛ばす。

 そのまま私は、玄関前の壁に叩きつけられた。


 背中とお腹。ズキズキと鋭い痛み。

 けほけほと咳き込み、蹲る私。

 何度も噎せて、胃の中のものを吐き出しそうになる。

 ただでさえ不愉快だった寝起きの感覚が、更にぐちゃぐちゃと掻き混ぜられる。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


 ニコちゃん、依然として棒立ち。

 何処を見ているのかも判然としない。

 まるで枯れ木か何かみたいに、ぼんやりと其処に居る。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


 ――いや、どしたん?

 再び抱いたのは、間抜けな疑問。 

 今の状況を成立すると、つまり。

 一晩パキって目が覚めたら、ニコちゃんがばかになってた。

 

 ニコちゃんは私の呼びかけに反応しないし、涎垂らしながら何か唸ってる。

 それどころか、急に私のことをぶん殴ってきたし、追い打ちと言わんばかりにお腹へ蹴り入れてきた。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


 普段から脳みその足りてない頭で、なんとか原因を考えていた。

 私、ニコちゃんにそんな恨まれるようなことをしただろうか。

 外でラリってゲロ吐いた時にニコちゃんの“マーチン”の靴汚したこと、まだ怒ってんのかな。

 トシキくんに営業かなんかで粉かけられてめっちゃ調子に乗った時のこと、未だに根に持ってんのかな。

 ニコちゃんの好きな映画を一緒に見たときにつまんなくて途中で寝ちゃったこと、やっぱ恨まれてるのかな。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


 ――思い返せば、意外と色々あった。

 でも、ここまでされるような謂れはない。

 だって私たち、ずーっと友達やってたんだから。

 うぬぼれなんかじゃなくて。

 私とニコちゃん、二人でひとつみたいなもんだから。

 

 けれど、今のニコちゃんは唸ってばかり。

 うんともすんとも、言ってくれない。


「けほっ、かはっ……ニコ、ちゃん……」


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


「なんか、言ってよぉ……」


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。


「あうぁ」


 ねえね、ニコちゃん。

 そうじゃないってばぁ。 



 ◆

 

 

 家も、学校も、みんな色あせてた。

 けど、ニコちゃんだけはずっと鮮やかだった。

 この娘は、私と同じで、今だけを見ている。

 他はなんにも知らない。なんも知りたくない。知ろうともしない。

 すごくこわいのに、それがいちばん気持ちいい。



 ◆



 私はよたよたと床を這いつくばっていた。

 ゆっくり、ゆっくりと歩を進めたニコちゃんに慄いて、ベッドの置かれた部屋へと逃げ込んでいた。

 必死になって錠剤を掻き集めたおかげで、床には白粒のひとつもない。ごくろうさま、私。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。 

 

 ベッドの上で、スマホが熱を帯びている。

 狂騒の音楽で、部屋を包みこんでいる。

 躍動的な重低音の連続。

 けれど、私はリズムに乗ることもできず。

 友達の変貌に動揺したまま、赤ちゃんがハイハイするみたいに四つん這いで逃げている。


 尤も、そうして必死に逃れようとしても。

 結局のところ、ここは安ホテルの一室に過ぎなくて。

 つまり、幾ら屋内で逃げ回ったところで、退路なんかすぐに絶たれるってわけ。


 ベッドの直ぐ側。あっという間に窓際まで追い詰められた。

 這っていた私は身体ごと振り返って、浴室の前で棒立ちするニコちゃんを見る。

 その場でじっと立ち止まったまま、私の方を見つめている。


 へたりこんで、尻餅ついてる私。

 のっそりと、立ち尽くしてるニコちゃん。

 お互いに動きを止めて、膠着している。

 僅かな数秒が、ものすごく長く感じる。

 

 どきどき、どきどき。

 心臓の鼓動が早まる。

 緊張が胸の内を駆け抜ける。

 これが恋の昂りだったら、どれほど良かったか。

 高まるBPMは、私の心を否応なしに掻きむしる。


「ちょ、待って」


 そんな私の動揺に踏み込むように。

 ニコちゃんが、のらりと歩き出す。


「待って待って待って、ニコちゃん」


 ゆっくり。ゆっくり。

 本当にのろまで、緩やかな動きで。

 まるでスローモーションで再生してるみたいで。

 けれど、身動きすら取らない私の方へと、間違いなく近付いてきている。


「訳わかんないってばぁ」


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 

 訳がわかんなくても、ニコちゃんは聞く耳持たない。

 泣きべそをかいても、テクノなBGMは延々と流れる。

 

「ねえ、ニコちゃん、謝るから」


 何を謝ればいいのかなんて、ぜんぜん分からない。


「いやなことあったなら、聞くからさぁ……」


 聞くも何も、ニコちゃんはなんも話してくれない。


「だから……ニコちゃん……」


 気が付いたときにはもう、涙声で懇願していた。

 けれど、その先の言葉はもう浮かばなかった。

 だってニコちゃん、なんも答えてくれないから。


 ――あれ、これで終わるの?

 ――うそでしょ? 


 そんな想いが、脳裏をよぎった。

 過去も、先も、なんだっていい。

 今だけが、そこに転がっていた。

 友達がおかしくなって。

 私が殺されそうになってる。


 ――待って、待って。

 ――待って待って待って待って。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 

 いくら願っても、待ってはくれないらしい。

 今の私は、なんもできないちっぽけな子供。

 ただ恐れ慄いて、へたりこむだけ。

 もうどうしようもなくて、声も出ない。





 でも、まぁ。

 ほんとに最期なら。

 ニコちゃんがいいな。

 


 


 床についていた右手に、何かが触れた。

 ぼんやりと唸るニコちゃんをよそに、私は視線を落とした。 

 薬瓶である。風邪薬たっぷりの。

 床に散らばった錠剤を必死に掻き集めて、中に詰め直したやつである。

 ニコちゃんが部屋にいないことに気付いたとき、私は適当に瓶を床にほっぽっていたのだ。


 私は思わず、呆気にとられたまま。

 薬瓶に触れて、ニコちゃんを見た。

 

 よたよた、よたよた。

 ニコちゃんの動きは、びっくりするほど鈍い。

 たまによろけたり、ぼーっと立ち止まったり。

 ほんの短い距離なのに、私へと近付くことにさえもたついている。

 

 けれどニコちゃん、ちょうど通路のど真ん中を塞いでいるから、私は逃げられない。

 もうちょっと頭使えば、賢く逃げられる方法もあったのかもしれないけど。

 あいにく、今の私にはそんな度胸もなかった。

 というか私、普段から鈍くさくてバカだから。

 結局、のろのろ動くニコちゃんをどうにか出し抜くみたいな思考さえ働かなかった。


 ずんちゃ、どんちゃ。

 ずんちゃ、どんちゃ。

 ずんちゃ、どんちゃ、どんちゃ。


 ゆっくり、ゆっくりと。

 歩を進めながら。

 ニコちゃんは、私を見つめる。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ、どんちゃ。


 どきどき、どきどきと。

 心臓が焦燥で高鳴るばかりで。

 私は、ただ茫然としている。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ、どんちゃ。


 ゆっくり、ゆっくりと。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ、どんちゃ。


 どきどき、どきどきと。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ、どんちゃ――。


 そうして私は、緊張に耐えきれなくなった。 

 もはや自棄糞、咄嗟の行動だった。

 さっき錠剤を戻したばかりの薬瓶を、勢いよく投擲した。

 くるくると飛ぶ硝子の塊。まるで野球のボールみたいに一直線を描く。

 狙いもへったくれもない。破れかぶれとしか言いようがない抵抗。

 

 けれどそれは、何の偶然か。

 ニコちゃんの右目部分に直撃。 

 がしゃん、と妙に鈍い音が響いた。


 ――なんの音だろう。

 そう思った私は、視界に舞う“粉雪”を見た。

 

 ――なんだろ、これ。

 雪じゃないらしい。錠剤が宙にぶちまけられたのだ。

 

 ――今の音って、あれか。

 ちゃんと締めてなかった薬瓶の蓋が、投擲の衝撃で外れた音である。


 痛みに悶えるニコちゃんと、ぽかんとする私(イト)。

 ほんの一瞬の合間。ケミカルな雪化粧が、私達を覆う。

 破裂するように弾ける、白雪の向こう側。

 私の友達は、右目の部分を押さえながら、動きを止めてて。

 宙を舞って中身を吐き出した空瓶は、ニコちゃんの顔にぶつかったことで跳ね返って。

 そのまま私の直ぐ側まで、転がり落ちてくる。


 ニコちゃんが、よろよろした挙動で私に迫ってくる。

 もはや痛みも気にせず、その両手を前に伸ばしてくる。

 空の薬瓶と、掴み掛かりに来るニコちゃん。

 その二つを見て、ほんの一瞬だけ迷いが生まれて。

 

 けれど、気が付けば私は。

 衝動にでも駆られるように、空瓶を掴み取っていた。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃっずんちゃ。

 

 火事場の馬鹿力というやつだろうか。

 さっきまでろくに動けなかったくせに。

 こんな時には、妙な度胸が湧いてくる。

 

 へたりこんでいた身体に不思議なくらい力が入って、そのままばねのような勢いで立ち上がった。

 ダンスミュージックは、フィナーレへと突入。

 ホップするリズムは、終幕へと向かっていく。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃっずんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃっずんちゃ。

 

 やらなきゃ、やられる――そんな囁きに背中を押されて、私の意識は異様に冴え渡っていた。

 白粒の雪原の中で、迫る友達をきっと見つめた。


 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃっずんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃっずんちゃ。

 ずんちゃ。どんちゃ。

 ずんちゃっずんちゃ――――。 


 

「うわあああ――――!」

 


 ――――ぱぁんっ。

 小気味の良い快音が重なった。

 それは、曲が終わった締めの音であり。

 薬瓶で、友達の頭をぶっ叩く音だった。

 




『依渡ぉ』

『なーにー』

『あたしがゾンビになったらどうする?』

 

『え、なに急に』

『いや、こないだそんな映画見たから』

『へぇ』

 

『でさ、ゾンビになったあたしが襲ってきたら……』

『うん』

『依渡は、どうする?』

 

『んー……抵抗しないかも』

『マジ?』

『てか、そのまま咬まれちゃうと思う』

『理由聞いてもいい?』

『だってニコちゃんが咬んできたらカワイイじゃん』


『……イトー』

『んー』

『そういうとこ、惚れるわ』

『でしょ?』

 




「わーーっ!!」


 ぼこっぼこっ。

 殴られても抵抗しようとするニコちゃんを、また薬瓶で殴る。

 こんな土壇場で何だけど、ひとつ分かったことがある。


「うわああ!!!」


 ぼこっぼこっ。

 もしも、ニコちゃんがゾンビになって。

 私に襲いかかったとしたら、どうするか。


「とわっあああおおお!!!」


 ぼこっぼこっ。

 ごめん。こないだの話ナシ。

 反撃くらいはします。

 




『依渡ぉ』

『なーにー』

『このクソボケ女』

『なんでよぅ』

 


 

 

 大して腕力もないけど。

 必死に殴りまくったらすっかり大人しくなった。

 もう抵抗もしないし、なんか殴ってきたりもしない。

 力の抜けた人形みたいに、虚ろな様子で其処に居る。

 

 ニコちゃんは、私の隣でぐったりとしている。

 力の抜けた彼女を、壁に寄りかからせる形で座らせたのだ。

 相変わらず表情は虚ろ、瞳はどこ向いてるのかもよく分からない。

 たまにぴくぴくと痙攣してたけど、10分くらい経ったらそれも止まった。

 オーバードーズ極まって救急車呼ばれた時と比べれば遥かにマシな挙動だったので、そんなに驚きもしなかった。

 

 1泊ぶんで料金を済ませたいので、これからホテルを出なければならない。

 だからニコちゃんの荷物も整理してあげたし、メイクも直してあげた。

 ついでにまたぶち撒けられた錠剤も再びかき集めた。死ぬほどめんどくさかった。


「ニコちゃんー」


 そういう諸々の準備を片付けたのち、私はニコちゃんの様子を隣で腰掛けながら見守っていた。

 けれど、流石にしびれを切らしてきたので話しかけてみる。

 ニコちゃん、無反応。何を視ているのかも曖昧な表情。やっぱり口から涎とか垂れてる。


「ニーコーちゃーん」


 ゆさゆさと揺すってみるが、返事はない。

 あうあうなんか言ってる。私も「あう」と言ってみたが特に通じ合えなかった。かなしい。


「ニコちゃん黙ってたらヒマで死んじゃうよー」


 そんな私の想いは特に届くこともなく、ニコちゃんは延々と沈黙を貫いている。


「どうしちゃったんだろ」


 私は頭を悩ませる。

 ニコちゃん、どうかしちゃってる。

 昨日は普通に喋ってたし、仲良くパキってたのに。

 

 なんか死ぬほど寝ぼけてるのか。

 薬でとうとうばかになっちゃったのか。

 考えられる可能性を色々と考えた末に、あることをふと思い出した。


 よくわかんないけど、なんか最近それが流行ってて、お国がわたわたしている。

 私達は非常事態宣言のおかげで、全然人がいなくなった街で気ままに過ごしてきた。

 変な噂とかもいっぱいある。感染すると極稀にボケるとか、暴れるとか、だめになるとか。

 ニコちゃんの状態もそれに近しいやつだったのでストンと落ちた。


「あー……“まむし”かなぁ」 


 だからばかになっちゃってたんだ。 

 “まむし”に感染しちゃったなら、まあしょうがないか――特に理由のない納得を掴み取って、私の心は妙にすっきりしていた。

 そうして私は妙に気持ちが落ち着いて、なんとなくニコちゃんの顔を見つめてみる。


 ぽけっとしたまま、虚空を見上げるニコちゃん。

 幾らじっと見つめても、私のことは見つめ返してくれない。

 ただ唸るような声を吐息みたいに零しながら、ぼけっと涎とかを垂らしている。

 私はそっと右手を伸ばして、ジャージの袖で再びいそいそと口元を拭いてあげる。


 もうなんにも喋ってくれないし、ちゃんと意識があるのかも分からないけれど。

 私の眼の前には、いつもの見慣れたニコちゃんの顔がある。

 きれいで、かわいくて。アイドルみたいで、見惚れちゃいそうになる。

 無言はさびしいけど。それだけはいつもと変わらない。ニコちゃんがここにいる。

 そう思うと、なんだか安堵が込み上げてくる。


「さっき、ぼこぼこにしちゃってごめんね」


 ニコちゃんの頬を撫でながら、私はそう呟く。

 ――きっと普段だったら怒ってただろうなぁ。たまに口悪いから、ボケとかクソとか言われちゃったかも。

 けれど、今のニコちゃんは沈黙している。

 

 あんだけどんどこ叩いた割に、幸い目立った外傷みたいなものは見当たらなかった。

 私が弱っちいのか、ニコちゃんが丈夫なのか、理由はわからないけど。

 それでも、顔に大きな傷を作らずに済んで良かった。

 怪我をしちゃった顔だと、トシキくんにも会いづらいと思ったから。


「私も怖かったから、ゆるしてね」


 そうして私は、ニコちゃんへと顔を近付けて。

 子供を優しくあやすみたいに。

 ちゅ、と頬に唇を当てた。

 

 ひんやりと冷たい感触だった。

 けれど、そこには確かにニコちゃんがいた。


 ねーえ、ニコちゃん。

 ばかになっちゃっても。

 ずっと友達でいようね。





 ホテルの外。朝の空は曇天。

 街並みは灰色。人は全然見当たらない。

 緊急事態になって、騒がしかった都会もすっかり黙り込んでしまった。

 どこか寂しげだけど、不思議と心地よさも感じてしまう。

 この街の中で、私達は自由になれた気がする。

 

 女の子ふたり、ホテルの出入り口の前に立つ。

 隣にいるニコちゃんの手を、私はぎゅっと握る。

 リュックを背負わせてあげて、マーチンのブーツも履かせてあげて、涎隠しのマスクも付けさせた。

 赤ちゃんみたいに、何もできなくなっちゃったニコちゃん。

 だけど、私の傍にはいてくれる。それでいい。今はそれで十分だった。


「いこ、ニコちゃん」


 私はニコちゃんの手を引いて、街へと躍り出る。

 5日後に、トシキくんの誕生日が控えている。

 どうせ緊急事態中も店は開いてる。

 だから、それまで二人でぶらぶらしよう。

 いつも通り、相方同士として。


 ――どこに行くんだろうね。

 ――行けないっしょ、どこにも。


 気侭にやろう。

 いつもみたいに、這い回ろう。

 

 

◆◇◆◇

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