第27話 恐怖
ソルグランドの歯が魔物少女の右手の甲と掌を食い破り、紫色のプラーナを流させた瞬間、魔物少女は手から伝わる痛み以上に、ソルグランドが右手を噛み止めたまま浮かべる凶暴な笑みに意識を奪われていた。
人の手で描けるとは信じがたい鼻梁の線、二度と思いつけないような目鼻の配置、絹のようと評するのも陳腐になる細やかなキメの肌、触れるだけで美酒に酔いしれたように蕩けてしまいそうな潤いのある唇。
あらかじめその美貌を知っているから、抹殺するべき対象として刷り込まれていたから、魔物少女の行動に遅滞は生じなかったが、何も知らぬままに相対していたら魔物少女が見惚れてもおかしくない美の結晶。
八百万の神々が総力を結集して生み出した魔物という災害に対する切り札は、文字通り神懸った力のみならず、その存在そのものが眩いまでに美しい。
ソレが、獲物が罠にかかった狩人の笑みを浮かべると、途端に凶悪な色を刷く。
そのあまりの落差に、心底からの恐怖を覚えた魔物少女は遮二無二、ソルグランドから離れようとした。悲鳴をあげなかったのは、初めての恐怖にどうすればいいか、本能さえも分からずに困惑していたからかもしれない。
そしてソルグランドにそんな魔物少女の心情を慮る筋合いは、欠片もなかった。
ソルグランドの右腕がコンパクトに、しかし最速で振るわれ、がら空きになっている魔物少女の右脇腹に天覇魔鬼力の柄尻が叩き込まれる。
ごきごきと音を立てて魔物少女の脇腹の骨が砕け、あまりの勢いにそのまま吹き飛びそうになるのを、ソルグランドに噛み止められた右手によって強制的に阻止されて、魔物少女の右肩の関節が悲鳴を上げる。
あるいはそのまま右手が千切れていた方が、魔物少女にとってはまだダメージを小さく抑えられたかもしれない。
魔物少女がそのまま恐怖に飲み込まれず、反撃の一手を選べたのは恐怖を糊塗する為とソルグランド抹殺という目的に突き動かされたお陰に違いない。
刃を生やした左手と大口を開いた尻尾が、同時にソルグランドの後頭部と背中へと襲い掛かる。それを迎撃されてから海中に潜ませていた破殺禍仁勾玉達が、海中から飛び出して魔物少女の左手と尻尾に下から猛烈な勢いで激突する。
「ウギィ!?」
「
再び天覇魔鬼力の柄尻が魔物少女の右脇腹に叩き込まれて、骨の守りを失った内臓に衝撃が通る。どうやら魔物少女は外見だけでなく、体内の造りも人体に近いようだ。
三発目、とソルグランドが意気込んだところで、流石に魔物少女も打開策を講じてきた。先ほどまで柄尻を叩きこまれていた右脇腹に大きな口が開き、その奥からソルブレイズの火炎が放射されたのだ。
「っとぉ!」
流石にこれは、とソルグランドがようやく口を開いて、魔物少女の右手を開放する。
魔物少女の右手には深く歯の痕が刻まれて、次から次へと紫色の血のようなプラーナが零れる。
ソルグランドは唇を濡らす魔物少女のプラーナをなめとり、破殺禍仁勾玉を再び首飾りへと戻す。魔物少女は魔法少女基準でも極めて強靭な肉体を有し、またそれに相応しい再生能力をもって、右脇腹を中心に受けたダメージを回復していた。
だが単純なダメージではない異物が、魔物少女に異常を与えていた。
「ア、 アウウ? ウァウ??? アア??」
どの口の呂律も回らなくなった魔物少女が、空中でふらふらと千鳥足になって体を揺らし、焦点も定まらない様子を見せる。それはまるで酔っ払ったかのような、そんな姿だった。
「八岐大蛇が八つの頭で味わった
いたずらが成功した子供のようにソルグランドは笑い、べえっと舌を出した。その舌を濡らす唾液もまた八塩祈之酒に変わっている。
クシナダヒメの両親が須佐之男命の指示に従って作った八塩祈之酒だが、食物や調理、酒に関わる諸々の神の権能を与えられているソルグランドは自身の体液を触媒にして、神代の飲食物を再現する能力を持つ。
オオゲツヒメやウケモチノカミが口から魚や米、獣を吐き出し、またその亡骸より多くの食べ物が生まれたように、ソルグランドも噛み破った魔物少女の右手に、八塩祈之酒を流し込み、耐性のない彼女を散々に酔わせるのに成功したわけだ。
魔物少女が体をプラーナ化させて、ソルグランドの攻撃を避けられずにいたのも、八塩祈之酒を流し込まれ、身体機能に異常を来していた為である。
八岐大蛇に比べればはるかに少量にせよ、古来より日本で知られた大災害にして大いなる魔を酔わせた酒を体内に流し込まれ、魔物少女はまともな状態ではいられなかった。成分を解析し、分解するにせよ、それまでの間、ソルグランドが見逃すわけもなく。
風土埜海食万を消し、天覇魔鬼力を両手で握り直したソルグランドが前傾姿勢から虚空を蹴って、風となる。ソルグランドの影さえ追従を諦めるかのような神速の踏み込みに、酔っ払っている魔物少女の反応は遅れた。
烈風が魔物少女の傍らを通り過ぎ、その背後で天覇魔鬼力を振り抜いたソルグランドが足を止めた瞬間、魔物少女の左首筋から紫色のプラーナが勢いよく噴き出す。
「簡単には終わらせてくれないか」
ほんの少し、人間に酷似した姿の魔物少女の首をはねるのに躊躇があった事、そして直前に割り込んだ魔物少女の尻尾に邪魔をされて、ソルグランドの斬撃は踏み込みを浅くされていた。
そして首の代わりに切断された魔物少女の尻尾は、大口を開いてソルグランドへと飛び掛かっていた!
本体から切り離されてもある程度は自立活動できるようで、ソルグランドが背後を振り返った時には、頭を噛み潰すべくソルグランドの顔に影を落とす位置にまで迫る。
切断面から紫色のプラーナを噴き出す尻尾は、疾風を斬り捨てる速度で閃いた天覇魔鬼力によって、十文字に斬り捨てられた。更に念には念を入れて、ソルグランドが左手をかざすと、母たる伊邪那美を死に至らしめた加具土命の炎が放たれて、尻尾を瞬時に灰にする。
尻尾の稼いだ時間は数秒といったところか。その短時間で魔物少女は酩酊状態から少しばかり回復し、新しく尻尾を生やし、爪からも新たな刃を伸ばして大きく体を曲げて、飛び掛かる構えを取った。
八塩祈之酒がどこまで魔物少女の思考に影響を与えていたものか。魔物少女の無表情の仮面は既に砕け散り、鬼女の如く眦を吊り上げ、牙をむき出しにして威嚇の唸り声を喉奥から発している。
これまでの魔物少女からは考えられない闘志をむき出しにした表情だが、それもすべてはソルグランドという死を感じさせる恐怖の化身を前にするが故。
「ギィ、ギイィ?」
一秒でも早く目の前の恐怖を消し去りたくて、本来の仕様にはない焦りに突き動かされる魔物少女は、しかし、不思議そうな表情を浮かべて、自分のお腹に開いた穴と左肩口から腰までまっすぐに横断する切り傷を見た。
魔物少女が痛みを忘れて視線を向けた先には、こちらに向けて大太刀を振り下ろした姿勢のザンアキュートと杖を構えるジェノルイン、杖を握るジェノルインの手に自分の手を重ねるソルブレイズ、そして右目だけをその場しのぎで治療したワンダーアイズの姿があった。
ソルグランドへの恐怖に思考を囚われた魔物少女の不意を突いた、完璧に近い奇襲の連携攻撃である。魔物少女に一矢報いる前、ワンダーアイズはこう呟いていた。
「『傷の治ったザンアキュートとジェノルインが見えるぜ』」
両目の回復を諦め、右目のみを集中的回復させたワンダーアイズだが、それでも無理をしているのは変わらない。
無傷のザンアキュートとジェノルインの姿を幻視している間にも、通常時と比較して倍するプラーナを消費し、右目は激しい痛みを訴えている。
そして一時的に傷を無かったことにしたザンアキュートは一振りにプラーナのみならず、精魂の全てを込めて振り抜き、刃を振り下ろした姿勢で半ば気絶している。
そしてほとんどダメージの無かったソルブレイズは残りのプラーナのほとんどをジェノルインへと譲渡し、ジェノルインは自分とソルブレイズのプラーナを銃弾サイズにまで圧縮して狙撃を行い、見事、成功させたのだった。
「ざまあみろ、ってところね。ねえ、ソルブレイズさん?」
「はい! 完全に私達を忘れていましたからね。痛い目を見るのも当然です!!」
普段なら出さない口の悪さを見せるジェノルインに、フンフンと鼻息を荒らしているソルブレイズは自分達の奇襲が成功したことに、どうだ、この野郎! と言わんばかり。
魔物少女の体は本人が呆然としていても勝手に再生を始めるが、流出したプラーナの量は膨大で、なによりもソルグランドを前にして意識を逸らす大失態を犯してしまう。
同格以上の存在との戦闘経験の無さ、自らの死を感じさせる窮地をよりにもよってこの場で初体験するという不幸が、この場で発露してしまった形である。
天覇魔鬼力を水平に倒し、矢のように引いた体勢から突進したソルグランドが、ほら、もうそこに。
「ギュイッ!?」
気付けば遠ざけようと必死になっていた死の指先がそこにまで迫っている現実に、魔物少女は無力な子供のように叫ぶことしかできなかった。ピクリとソルグランドの眉が動いて、わずかに切っ先が揺れる。
この時のソルグランドの狙いは魔物少女の胸部、心臓があると思しき部位である。切っ先が揺れたのは、心臓をぶち抜き、活動を停止させてあわよくば捕獲をと狙いを変えていたせいもある。
それでも魔物少女にとって回避不可能、防御不可能の必殺の一撃だった。そのはずだった一撃から魔物少女を救ったのは、彼女を送り出したナニかだ。
天覇魔鬼力の切っ先が魔物少女のドレスに触れるその寸前、彼女の体を虚空に開いた一筋の切れ目から伸びた、夜空が形を変えたような無数の手が包み込み、切っ先はその手に触れたところで停止する。
魔物少女は自分がほとんど死んだも同然の状況に、大きく目を見開いて恐怖によって歯を鳴らしていた。じわりと魔物少女に涙が浮かび上がり、ボロボロと零れ落ちる。
果たしてそれは元から搭載されていた機能だったのか。明確な死の恐怖を感じたことで、魔法少女を模した機能が誤作動を起こしたのか。
すっかり怯え切った様子の魔物少女に、チクリと罪悪感の針に心を刺されたソルグランドは天覇魔鬼力を引き戻し、切っ先を改める。未知の物質の付着や刃毀れといった汚損はない。
「空間跳躍、ワープ? いや次元単位の転移か」
ソルグランドの自分を睨む視線の鋭さに、魔物少女は更に恐怖を深めながら、厚みを持たない無数の手に包まれて、そのまま空間の切れ目の向こう側へと消え去っていった。
異常な台風と無数の魔物を引き連れて現れた災厄は、ソルグランドの想定をはるかに超えた戦闘能力と魔法少女達の意地の一撃により、苦い黒星を刻んだのだった。
「最上の結果は得られなかったが、人死が出なかったのなら上々だわな」
ソルグランドは魔物少女の撤退と同時に、日本列島を襲っていた魔物達も姿を消したのを夜羽音からの念話で伝えられ、激動の一日の終わりを感じて、静かに息を零した。宝石にならないのが不思議なほど美しい吐息であった。
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