第3話 婚約者たちは舞台へ上がる
都の北部に峻立する王城から川を隔てて南岸に、劇場の立ち並ぶ一角がある。
日中は新聞売りの子供や労働者に通り過ぎられる場所も、夜の帳が落ちる頃には、貴族たちが馬車で乗り付けてごったがえす。
クリーム色のレンガを積み重ねた上品な外観の劇場にも次々と紳士や貴婦人が吸い込まれていき、馬蹄型の客席は毛皮や宝石で飾り付けられた。
ボックス席には上等な椅子やソファが置かれ、分厚いカーテンが舞台と明暗のコントラストを作り出している。ゆっくりと舞台を楽しむための高価な席だが、接待や商談、時に――
「密会、ですね」
ふたつの円の中で、一組の男女が身を寄せ合っている。
マリーがオペラグラスを下げて隣のシンシアに渡すと、彼女は熱心に覗き込んで赤くなったり青くなったりを繰り返してから、難しい顔でアルバートの手にグラスを押し付けた。
三人は、婚約者たちが良く見えるボックス席を取って、事実の確認と作戦を練っていた。
「信じられませんわ」
「侯爵家が通年抑えている席ですので、特定は簡単でした。……侯爵家の顔に泥を塗るその浅慮のおかげで、多少有利になりましたね」
「人前で恥じらいのない……女性はハットン子爵家のご令嬢ね」
「過去には他にも二人、招待しているそうです」
「……恐ろしいな」
アルバートはマリーの言葉にうそぶいた。
「パトロンの人間関係は劇場で働く人の関心事です」
「そうだろうね。……シンシア、気分は大丈夫かい?」
「ご心配なさらず、今日はレッスンの成果をお見せします」
シンシアはむしろ楽しそうに頷いた。このご令嬢は見た目に反して肝が据わっているとマリーは思う。そうでなければ悪役令嬢になろう、なんて思い切らなかっただろうが。
劇が始まる直前になって、三人は予約したボックスを急いで探している体で目的の扉をノックした。
「何? 給仕?」
中から無防備に扉が開いた途端、シンシアは失礼、と部屋の中に滑り込む。
「な、な、な……」
慌てて手を伸ばして阻止しようとする若い金髪の優男――サイラス・ウィッカムだが、シンシアの体幹はそれを許さなかった。
「シンシア・ベイル嬢!? 何でここに」
シンシアは周囲に聞かれる心配がないのをいいことに、婚約の場で見せた貞淑な姿とは正反対の演技をしてみせた。
「あら、不都合なことでもおありになって? たまたま観劇に参りましたら、寄り添い合う婚約者の姿が見えましたので。今夜の演目は秘密の恋、ぴったりですわね?」
慌てて乱れたシャツの皺を伸ばしているサイラスと、奥の椅子で扇で顔を覆う一人の女性。
「そちらはどなたかしら? ハットン子爵家のご令嬢?」
「……ご存じとは」
扇をずらし、恨めしそうに長いまつ毛をのぞかせる黒髪の令嬢に、シンシアは澄まして答えた。
「安心しましたわ、人違いでなくて。もしやパーカー男爵のご令嬢か、チャールトン男爵のご令嬢か――」
思わずぎょっとした顔をするサイラスに令嬢は小さく叫んだ。
「……何ですって!?」
これはマリーの入れ知恵である。サイラスの“恋人”のご令嬢が、全員浮気を知り、認めているとは限らないからだ。
つまり、婚約者がいてもただひとり自分に真実の愛を捧げるという物語に女性は弱く、そして自分がただひとりでないという裏切りは簡単に怒りに変わる。それも自分より“格下”の女性と浮気しているとなれば。
「――孔雀通りの雑貨屋の売り子の方か、」
「サイラス! あなた何人と遊んでいるの?」
扇をぱしんと閉じると、ご令嬢はそれをサイドテーブルに叩きつけた。
「ミランダ、誤解だ」
「誤解? 女性としての魅力は別として、シンシア様は嘘をつかれる方ではないわよ」
シンシアには変なところで信用があるらしい。
整った顔でサイラスを射殺さんばかりににらみつける。
「ミランダ様とおっしゃるのね。先ほどは頬を寄せんばかりの距離でしたけれど、名前で呼び合うなんてとっても親しい関係のようですわね」
婚約中であればこういった場にはその相手を伴うことが常の世の中で、相手の許しもなく他の女性を同伴し、更には名を呼び捨てにするのはかなり不道徳だ。
「シンシア嬢、君は何か思い違いをしている。これには事情が……」
サイラスがシンシアの肩を掴もうとしたとき、アルバートが二人の間に割って入った。
「お前は、ベイル家の……」
「お静かに。これから劇が始まります」
舞台の前で控える楽団が恋愛喜劇に相応しい陽気な音を奏で始める。
アルバートの冷たい視線を受け、椅子に戻ったサイラスは開き直ったように肩をすくめると、二人にも椅子を勧めた。
「愛人の一人や二人囲うのは珍しくない。婚姻継続に支障ないのでは?」
「あいにくとわたくし、恥知らずの道徳は持ち合わせておりませんの」
シンシアは椅子を断り、ぴしゃりと答える。
ところでマリーはこの間、扉の影に立って観察していた。アルバートから贈られた濃いグレーのドレスは暗がりでは目立たない。
対してシンシアのドレスは目線を集める濃い青。修羅場中のサイラスもミランダもマリーなど完全に視界の外。見られても
(子爵家のご令嬢が、勝算もなしに婚約者を奪おうとするかしら? 本当にサイラス様に好意がある様子、ならば彼の想いを信じるだけの言葉があったとか――たとえば贈り物は?)
ミランダは彼女にはやや似合わない濃いピンク色のドレス姿で、胸元や黒髪に宝石をつけていた。髪に飾った金細工の台座には濃いピンク色の大きなダイヤが輝いている。
マリーは静かに手を伸ばして上手にそれを抜き取ると、サイラスにかざして見せた。シンシアには気取られないよう注意して舞台の光を反射させ、きらりと彼の目を射ると、上品に微笑してみせる。
「全てあるべきところへ収まりそうですね」
「お前! それは俺のものだ、アレとは色が違――」
マリーはシンシアが振り返る前に手提げ鞄の中に入れ、アルバートはサイラスを手で制した。
「ところで実はこの劇に何人かご招待しております。たとえばあなたのひいきの商店や質屋の娘さんですとか、よくご存じの方を何人か。ここにいらっしゃるとお伝えしてきても?」
それは脅しだった。騒ぎになれば劇が台無しになる責を負うという脅しと。宝石盗難を知っていて、質屋を押さえているという脅しと。
大勢の観客が証人になるだろう。
「要求は何だ?」
苦々しげな顔に応えたのはシンシアだ。
「そちらが有責の婚約破棄と、慰謝料でいかがでしょう?」
「分かった……詳細は後程書面にて送る」
「婚約破棄のご意思だけでも、可能な限り早くいただければと」
「全く、かわいげのない女だ。……では、明日の朝には届くよう手配しよう」
言質を取った。
シンシアは満足げな笑みを浮かべると、優美で完璧な礼を披露した。
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