第2話 素敵な悪役令嬢になるための秘密のレッスン


 マリーの朝はルーチンだ。かりかりに焼いたトーストとベーコン、卵料理、少しの野菜をそれなりに味わって食べ、三杯目の紅茶で新聞に目を通す。

 紙面には議会多数派への抗議活動、王家の素敵な逸話、探偵が事件を解決、芸能人の不倫ゴシップ、伝言欄、訃報、新商品の広告などなど。

 ざっと目を通し終えた頃、マリーの母親が身なりを整えて階下に降りてきた。マリーの濃い栗毛も地味な顔立ちも母譲りだ。

 数年前に神の御許に召された父は高名なオペラ歌手で、顔立ちも雰囲気も華やかな人だった。たったひとつ譲り受けたのはグリーンサファイアのような瞳の色だけだ。


 食卓に着いた母は、嫁入り道具の銀のバターナイフでトーストにひまわり色を塗り伸ばす。


「ベイル伯爵家はどう? 今通いにしている理由が家事なら、昼間の雑役女中メイドのほかに住み込みを雇おうかしら」


 母は刺繍や縫物に家計の管理もし、寡婦になってから元子爵家令嬢の教養を生かして家庭教師の職を得たが、料理と掃除は苦手としていた。


「それは私が」

「そろそろあなたもいい人を紹介してもらって、わたくしを安心させてちょうだい」


 母は最近結婚をせっつくようになった。二十歳過ぎて浮いた話のひとつもない娘にやきもきしているのだろう。

 マリーを家庭教師として教育したのは半分以上母親だったが、品位と収入に加え、良縁を見つけてほしかったに違いない。母の期待に反しているといえば、最近受けている依頼もそうだ。

 あいまいな微笑みを返答にすると、都合よく玄関の方でノッカーの音がした。


「それでは行ってまいります、お母様」



 マリーはあの夜の翌日から、伯爵家の馬車で週に何回かベイル家に通っている。

 依頼主のシンシア・ベイル嬢にはすぐに好感を持った。兄より少し明るいアッシュブラウンの髪に青い瞳がきらきらした少女で、若々しさに溢れていて素直だった。

 先に念を押したとはいえ、特殊なレッスンもまじめに受けてくれている。


 高慢に見える仕草、足運び、口調と語尾、傷ついているように見える表情に顔の角度、表情を隠すためのあるいは感じの悪い扇の扱い方。

 ただし、ここで大事なのは本物の悪女になることではない。


「演技はたまに、そうとも見える程度に留めてください。今まで身に着けられたマナーはお忘れにならないように。相手に頭の中で補完させて、思い返せばそうでもなかったとなる程度です」


 悪評対策である。加えてマリーの信用を守り、依頼完遂前に伯爵夫妻から暇を出されないように。


「小説で見たような高笑いや、扇の突き付けは?」

「使いどころですね。結局のところ、最後に現れた物語が真実よりも観客を心地よく納得させられるかどうかです」


『舞台上の人生は物語だよ、マリー。本当かどうかじゃない、どう納得させる物語おはなしを紡げるかが大事なんだ。演技は説得力の補完だよ』


 マリーは父の言葉を思い出す。麗しい容姿と天上の歌声。平民が首都の劇場を連日貴族で満員にした。パトロンの一人に娘と結婚させられ囲われた人。

 レディとしての勉学とマナーを教えてくれたのが母なら、演技と人の目をやりすごす方法を教えてくれたのが父だ。

 ――そしてこれらを実行するためには、基礎体力が必要。




「こ……これで……いいのでしょうか……」


 運動の時間には、軽くて短いドレスで身を包んだシンシアは、自宅のホールを十周した後に腹筋をさせられていた。

 マリーもまた普段の襟が詰まったドレスから、短い袖に両脚が分かれたパンツ型ドレス姿に着替え手本を見せる。


「はい結構です。三分休憩。次は立って足は肩幅程度に開き、お腹の底から声を……」


 いざという時の体力と脚力、完璧な淑女の礼をするための体幹、大きな声で叫ぶための腹筋、押し返すための上腕二頭筋。劇場のソプラノ歌手が密かに鍛えている様子をマリーは見る機会があった。


「は、はい……」


 息も絶え絶えのシンシアに手を貸そうとした時、聞き慣れた声がかかった。


「そろそろ休憩の時間ではないかな?」

「バート兄様!」


 息を乱して起き上がるシンシアとマリー。淑女にあるまじき格好と行いだが――実際、侍女たちは初めて見た時には気絶した――彼は一度も苦言を呈さなかった。「バート兄様は型破りだから」だそうだが。

 貴族年鑑によればアルバート・ベイル次期伯爵なのにである。

 その彼は暇でないだろうに毎日様子を見に訪れる。


「今日はウィートリー&ヘルソンの焼き菓子を持ってきたよ」

「お兄様ありがとう。ローズ、お茶にしましょう。先生もどうぞご一緒に」


 シンシアは控えていた侍女にお茶の用意をさせると、軽い足取りでテーブルに向かった。最近は甘いものを控え、鶏肉やブロッコリーなど栄養中心のメニューにしたから猶更だろう。


 しかし妹の様子見だけが理由でないことを、マリーは知っている。何せ未婚の男女が軽率に二人きりになるなどあってはならないから。


「レッスンは順調ですか?」


 確認を装って話しかけるアルバートに、マリーは途中から声量を下げて答えた。


「はい、シンシア様が大変努力されておられますので。それから例の件ですが」


 実のところ、マリーは初日の迎えの馬車で婚約の事情を彼から説明されて、彼個人の協力者にもさせられたのだ。




 そもそもシンシアの婚約者とは、ウィッカム侯爵家の三男・サイラスだった。うまく隠していたのか女遊びが好きという悪癖を伯爵家が知ったのは婚約後で、これが貞淑なシンシアを怒らせ婚約破棄を望ませた。

 ……が、彼の性質はもっと悪かった。

 シンシアは婚約を記念して祖母から指輪を受け継いだのだが、サイラスが訪問時に偽物にすり替えた――と、ある日アルバートが気付いた。


 元から特徴的な傷がついていた銀の台座は、質屋で既に回収している。しかし嵌っていたはずの宝石、薄ピンクのラウンドシェイプのダイヤが行方不明に。

 他の質屋や宝石商、古物商を当たってみたが収穫はなく、サイラスの何人かいる恋人に渡った可能性を考え、彼女らにたとえば場合に備えて女性の協力者が欲しかったのだという。


 これらはシンシアには秘密だ。盗られたこと、気付かなかったこと、祖母への申し訳なさにきっとショックを受けるだろう、とアルバートが配慮したのだ。

 普段合理主義な彼も妹にはとても甘く、一人っ子のマリーには少々羨ましかった。


「明日サイラス様が、劇場のウィッカム侯爵家のボックス席を利用すると聞きました。おそらく女性同伴でしょう。最近は観劇で装う流行ですし、収穫があるかもしれません」

「劇場? 君のお父上の関係で?」

「ご存じでしたか。私も小さい頃からよく遊びに行きましたから、演者やスタッフとは顔なじみなのです」


 これはマリーの仕事に役立っていた。マナーや流行を確認したり、観劇のついでに耳をそばだて、時に演者などから情報をもらうのである。


「浮気だけなら現場を押さえられるでしょうが――ああいう暗い場所ではしばしば不道徳なことがありますので……ただシンシア様の名誉と心情を考えますと」

「シンシアには勿論確認するよ。でなければ二人で行こう。侯爵家とする材料になる」


 目つきは悪くて未だ慣れないが、やはりこの兄は悪い人ではないとマリーは思う。


「ところで今更だが、君は何故こんな依頼を受けているんだ? 失礼だが、同情で判断するようには見えない」


 ――前言撤回。家族以外には情緒がなさすぎる。

 マリーは微笑を崩しそうになりながら、取り繕わずに答えた。


「庶民に否やはありません。それに私の両親の結婚も祖父が家まで建てて母を嫁がせたのです。夫婦仲が悪くなかったのは結果論で、母も私も貴族にはどうとでもなる存在だったのです。僭越ながら、同情ではなく共感です」


 マリーの表情がやや事務的だったからだろうか、お茶のテーブルからシンシアが手招きして声をかける。 


「バート兄様、先生が困っていらっしゃるわ。お仕事ばかりだからレディの扱いが苦手なのね」

「サイラス様の様子を三人で見に行こうとお誘いしていたところでね。なら先生にドレスを贈ろうと」


(……そんなこと聞いていません)

 マリーはシンシアの期待に満ちた眼差しに、ぎこちなく微笑むことしかできなかった。

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