悪役令嬢の家庭教師
有沢楓
第1話 悪役令嬢の家庭教師
「残念だよ、アリス。ここのところの君のデボラへの仕打ちは目に余る。この婚約はなかったことにしてほしい」
頭上でシャンデリアきらめく小さなホールの中央では、光のしずくを浴びたドレスの花々が音楽に合わせて咲いている。
あちらこちらで上品そうにささやかれる紳士淑女の会話に、上質の酒が満ちたグラス。
とある貴族の社交パーティーの隅っこで、半径二メートルほどの穏やかで緩慢な空気を霧散させたのは、その一言だった。
一人の青年と彼が抱く妖艶な巻き毛の女性、そして二人に対峙する一人の金の髪の少女。
女性は青年に体を預けつつ、耐えきれないというようにやたら羽がバサバサした扇で顔を覆った。
「どうか許して……わたくしたち心から愛し合っているの」
――詰めが甘いなあ、それ見えてますよ。
数歩下がった位置で、マリー・ゴールディングは青年の恋人を名乗る女の口元が微笑んでいるのを見つけた。他にも何人かは気付いたかもしれない。
この二人より小柄な少女は、気丈にも向き合って、しかし肩を小さく震わせている。
かわいそうにあの子が婚約者よ、と誰かの囁きが聞こえた。パーティーの主催が目くばせをして、
ここまでくれば終劇は近い。
マリーは侍女風の地味色ドレスの裾を翻し部屋を出た。少し離れた廊下の窓から星空を眺めていると、侍従に連れられ可哀そうな婚約者が隣室へ通されていく。
侍従が部屋を離れるのを見計らって、マリーは扉に声をかけ部屋に体を滑り込ませる。
「……先生……」
扉に背を向けて肩を震わせていた少女が振り返れば、目じりに涙がたまっている――が、その目元は笑いをこらえきれていない。
「ゴールディング先生、ありがとうございました!」
少女は駆け寄り、自分より二歳年上でしかない
「ミス・アリス・アトウッド。今日までよく頑張りましたね。貴女の努力の賜物です」
「まさかこんなにうまくいくなんて思ってもみませんでしたわ。婚約者として慇懃にご挨拶申し上げただけでしたのに」
アリスは一年前、社交界デビューを終えたばかりの子爵家のご令嬢だ。婚約者は親同士が決めたが、彼は恋人の存在を隠しもせず、遂に正式な場にまで連れまわすようになった。
ここでアリスは婚約者を見限った。人づてに“悪役令嬢のマナー講師”と聞いたマリーを紹介してもらって下準備をした。
徐々に彼らを避けるなどして苛立たせ、今日ついに思惑通りに難癖をつけられることに成功し、見事衆目の中、相手の口から婚約破棄を引き出したのだ。
「あれだけの
勿論相手方から慰謝料ももらえる。この婚約破棄劇の舞台に選んだ家の主人はアトウッド家の既知で、目撃証言は彼女に有利に働く。
「あとは後日、貴女が傷心していると噂に流しておしまいですね。きっと同情が集まります」
マリーが優しくアリスの肩を引き離すと、アリスは遠慮がちに尋ねた。
「……ところで、お気持ちは変わりませんの? 母も紹介状を書くと話してましたけど、ずっといてくださっても」
「お心遣いはありがたいのですが、年頃のご令嬢にはもっと経験を積んだ教師が就くべきかと」
家庭教師は元々、裕福な家庭の子供に初歩の学問やマナーを教えるものだ。だから成人のアリスの家庭教師でいるのは、特別な依頼があった時に限るイレギュラー、婚約破棄を見届けたら契約は終了だ。
「そうですわね……でも、次は決まってらっしゃらないのでしょう? でしたら、私からご紹介しても?」
言葉を切った時、部屋の扉がノックされる。
アリスがどうぞと応えると、一人の青年が部屋に入ってきた。
イブニング・コートのラインは美しく体に寄り添い、タイも靴も上質な仕立てなのだと一目でわかる。
年のころなら二十半ば頃か、きれいに撫でつけたアッシュブラウンの髪と同色の瞳。高い鼻梁に顎の形は女性好きしそうだが、目つきは鋭さを通り越して悪いとさえ言えた。
およそ学生らしくないが、外科医か、記者か。どこか路地裏を歩き回っていそうな野性味も感じる。
「こちらがゴールディング先生です、ベイル様。先生、こちらは私の友人のお兄様ですわ」
「初めまして、ミス・ゴールディング」
胸に手を当て軽く礼をするベイル。微笑んではいるが、鴉のようだ、と戸惑いながらマリーは思った。
「親族に厄介な縁談が持ち上がっておりまして、ご相談したいのです」
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