51.ガンジスにて思ふ

 インドに(ほとんど)無いのがインダス川で、インドに在るのはガンジス川。

 紛らわしいな……、と思った記憶があるので覚えている。インダス川が主に流れるのはパキスタンだ。

 ならば、『クエッタ』という高所にあった街から東へ下りた先、地元の人が『シンドゥ』と呼んでいた川がインダス川だったのかも知れない(ダヌビゥスやマニャ・フラトほどの凄さが感じられなかったのは乾期だったからだろうか)。

 まあ、タブレットの地図を見るまでもなく、あのカレーとの再会からここまで、訪れる村落での食事が大抵『サーレン』か『ビリヤニ』(そのままビリヤニだ。一緒に炊き込まれたカルダモンと思しき実を噛んでしまった時の、ミラのすごい表情は忘れられない)だったことから、漠然とパキスタンやインドの辺りなのだろうとは思っていたが。

 ――そんなことを考えたのも、ここ『デェリ』の東を流れる川『ヤムナ』が、『ガンガ』という大きな川に合流するという話を聞いたからだ。

 そう、ガンガ。つまりは『ガンガー』とは、聖なるガンジスを神格化した女神の名であり、またインドに於いてはガンジス川そのものを指す名称でもある。……ということを、とある“悪魔召喚RPG”のおかげで知っていたので、すぐにピンときたというわけだ。

 この世界、この時代にヒンドゥー教が信仰されているのかは判らないが、少なくとも『ガンガ』は現地の人々に神聖視されているようだ。

 マニャ・フラトを下ってからこっち、教会めいた建物は見ないが、寺院と思しき人の集まる建物(玉ねぎみたいな屋根からそんな印象を受けただけかも知れないが)は見てきた。言葉は変わっても、人々は生活の中で魔法、呪文を普通に使っているし、魔道具もある程度は利用されている。過去に起こった出来事がこちらの方でも『神話』として伝わっているのかまでは判らないが、何らかの宗教活動自体は間違いなく存在するのだろう。

 ただ、接した人々の様子からは、カーストのような身分、差別的な制度は全く感じられない。ガンガという名称が信仰と共に使われ続けている以上、ヒンドゥー教が全く別の宗教に取って代わられたということはないのだろうが、昔のまま残っているということもなさそうだ。

 ……まあ、これは日本人的気質というより、もはや俺個人の問題なのだろうけど、『宗教』というものに対しては相変わらず腰が引けるというか身構えてしまう部分がある。なので、興味が無いわけではないのだが、あまりこういった事情を深掘りしようとも思えない。そのため、こんな曖昧な情報しか持たないが、とりあえず生きていく上では問題無いはず。

 ともかく、この世界に於いてこれまで、宗教の悪い部分が人々の生活に対して支配的な影響を全くと言って良いほど及ぼしていないように感じられるのは、俺にとって幸運なことだったのだなぁと、改めて思う。そして、こうして俺が飛ばされた先の世界が、少なくとも人と人の繋がりに於いては全く酷いものではなかったことにも、改めて感謝したい気持ちになった。


 ――そして俺たちはまた船の上の人(と狼)。

 ガンガが神聖視されているということは、魔素というもののあるこの世界に於いては、その思いや信仰がガンガを聖域化するということだ。

 事実、この河に魔魚の脅威はなく、ガンガ流域で生活する人たちは船での行き来を行っているという。安全で徒歩よりずっと速いなら、俺たちとしてもわざわざ避ける理由は無かった。

 ちなみに、ガンジス川といえば汚いことでも有名だったが、聖域化したためか、あるいは単に生活排水を垂れ流す人の数が大きく減ったためか、実際に目にした『ガンガ』は、さほど汚い印象は受けない。嫌な臭いは無いし、船から水面を覗けば、その下に泳ぐ魚を見ることもできるくらいには透明度がある。

 船といってもマニャ・フラトで利用したような巨大な船舶ではなく、ダヌビゥスでそうだったようにボートや小型の船艇での行き来になる。これは単純にこの時期(もう年を越して一月になっている)の川の水量がピーク時よりだいぶ減っているからという理由とのことだが、ピーク時はピーク時で、その水量があちこちで氾濫を起こすほどに増大するために、雨季は船の利用そのものが難しいという事情もあるそうだ。

「良い時期に訪れたな」

 とは、軽快にボートを操るビシャルさんの言葉だ。俺たちがこの時期に訪れたのはたまたまだと伝えたところ、そんな言葉と共に先述のような事情を教えてくれたというわけだ。

 ――しかし、なんとも船に縁のある旅だ。

 なんて思うが、よくよく考えれば、それだけ人々の生活の中で“河川”というものが重要であるということなだけかも知れない。

 結局、マニャ・フラトが聖域だったのかは判らないが、船旅があれだけ平穏だったことを思えば、このガンガのように人々の信仰や畏怖によって、あるいはその流れが運ぶ恵みへの感謝によって、聖域化していてもおかしくないのだろう。

 もしかしたら……と思う。今まで俺は聖域にはその主たる聖獣がセットでいるものだと思い込んでいたが、聖域を構成するのに必ずしも聖獣の存在は必要ではないのかもしれない。

 思えば、俺はあのカイと出会った洞窟で、魔素溜まりというものについて漠然とした体験的理解を得た。その理解が間違ってなければ、多くの人がそこを『聖なる場』と認識すれば、魔素はそうあるように場を整える働きをするはずだ。聖獣はそのきっかけとなるアイコンとして解りやすいが、必ずしも居なければならない存在ではないだろう。

 そう考えれば、マニャ・フラトやここガンガで聖獣らしき存在を目にしないことは不思議に思うことではない。――といいつつ、このガンガの底から突然、それこそゲームで見たような姿の『女神』が現れるのではないかという期待は、ちょっとだけある。でもほんのちょっとだけだ。だって、いくら聖獣が友好的な存在だと解ってはいても、“人の形をした何か”が実際に目の前に出てこられたら、たぶん興味より怖さが勝る。

 デェリでは、北の山脈には悠久を生きる『聖人』と、それを慕い崇めて山中で暮らす人々がいる、という話を聞いたばかりだ。ちょっとばかり普通の人とは違う『女神』が絶対に存在しないとも言い切れないのが、魔素というわけのわからん存在のあるこの世界の恐いところだ。

 ちなみに、『聖人』に興味が無いわけではないが、ここがインドなら北の山脈とはヒマラヤ山脈だ。素人が大した準備も無く、しかも子連れでおいそれと立ち入って無事で済むような場所ではないだろう。

 どんなに不思議な世界でも、ここは“現実”だ。そして、目の前の現実的なあれこれの前で、好奇心は割と無力だ。

 ――もしも、ここが解りやすくゲームのような世界で、“やり直し”が保証されているような状況だったら。俺はもっと“冒険”していただろうか?

 ふいに思いついたそんな仮定の話。だけど、今まで見てきたこの世界、そしてそこで出会った人々を思い浮かべれば、俺は自分一人特別な状況にあったとしても、その人々の生きる“現実”と折り合いを付けようとしただろうと思う。

 魔法があっても、人はその中でそれなりに生きている。俺たちが魔法なんて無くてもそれなりに生きていたように。

 そこにあるのは、特別でも何でもない、ただの『生活』で『日常』だ。そういったものを引っかき回してまで、俺は自分の人生に“冒険”を取り入れたいとは思えない。

 ……もしかしたら、そんな自分だからこそ、『ゲーム』という形で現実とは違う世界を創ろうとしていたのだろうか。

「……オサム、なに考えてる?」

 流れる景色に目を遣ったまま黙り込んでしまった俺を心配してか、ミラが声を掛けてきた。

「……そうだな……。この広い世界にはいろんな場所があって、いろんな人がいて、いろんな日常の生活があるんだなぁ、みたいなことを考えてた」

「……ん」

 俺の返事を聞いて、ミラは俺の腕に顔を埋めるように抱きついてきた。

 ……そうだった。ミラにとっての『日常』は、魔獣という理不尽によって失われてしまったのだ。それは「仕方ない」なんて言葉で片付けるには悲しすぎる現実だ。

 また、俺はミラを傷つけてしまっただろうか?

「……ミラは、寂しくないか? 旅は、辛くはないか?」

 空いている側の手でミラの頭を撫でてやりながら、尋ねる。

「……んん。オサムもカイも一緒だもん。ちょっと大変って思うことはあるけど、それだけ」

 そのミラの言葉の中に、いくらかは強がりもあるのだろう。だけど、そう言ってくれるミラの優しさや、そう断言できるミラの強さに、疑う余地は無い。

 ――人生に冒険なんて無くったって。

 俺は自分の目が届く、手が届く、力が及ぶ範囲で、大切だと思えるものを、何とか不格好にでも護ることができたなら。

 それは人生としては、上等なんじゃないか――。

 手に返る、柔らかなミラの髪の感触に。

 女の子なんだし、もっとちゃんと整えてあげないといけないな――なんて、そんな些細なことも考えながら、人生なんて漠然としたものものについても考える、穏やかな船の旅だった。

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