49.出航

 土が山と積み上げられているエリアに人影は見当たらず、結局桟橋まで歩いてきた。

 桟橋は近くで見るとかなり広く大きい。建材は木材のようだが、少し黒みがかっていて重厚感がある。乗ってみても軋むような音は無いし、木と木の継ぎ目もきれいに均されていて歩きにくさもない。手すりもしっかりしていて、この一番上段から身を乗り出して下を見れば少し恐いが、それは下の地面までの高さが結構あるためで、手すりへの不安ではない。

 少し進むと階段になって、そこを降りた段で途中から水上に掛かる。さらにその先の階段を降りた段では、正面の突き当たりの欄干の一部が欠けている――と思ってよく見れば、手すりと手すりの間に木の棒が渡してあった。渡してある棒はきちんとそれ用の枠に収まっていて、壊れた手すりの応急処置というわけでもなさそうだ。まだ少し水面から高さがあるが、ここは乗降口の一つと見るべきだろう。やはりそこそこの規模の船が発着するらしい。

 その乗降口の少し手前で左側に九十度向きを変えてさらに下への階段がある。先ほど見かけた釣り人は、その先で釣り糸を垂らしていた。見た感じ年齢は五十代半ば過ぎの男性だ。ただ、その顔立ちはこの辺りではあまり見ない感じ……というか、中東的な“濃さ”がある。

「サァルウェ(こんにちわ)」

「サラーム……ウォゥ!」

 俺は普段通りこちらの言葉で声を掛けたのだが、普段もらう返事と違う、聞き慣れない言葉が返ってきた。最後の声はカイに驚いたようだ。

「……おどろいだぁ。あだがだは外の人か。オーカミ連れでらなんて、すごぇなぁ」

 と、その人は別に東北弁っぽく喋ったわけではないのだが、そう翻訳したくなるくらい、クセの強い言葉を喋る。言葉自体は一応この世界で習った言葉だと思うのだが、もしかしたら違うことを言っていたのかも知れない、と不安になるくらいには、ちゃんと聞き取れた自信は無い。ミラも少し困惑した様子だったので、俺のヒアリングが特別悪いわけでもないとは思うが。

「この子は聖獣なので、危険はありませんよ」

「はい! ご安心を」

「……セイジュウ……。それぁまだ……すごぇな……」

 カイの言葉が通じるのは当然として、どうやら俺の言葉もちゃんと伝わってはいるらしい。

 とりあえず対話は成立する。そして、辺りには他に人影はない。街の方でも普通に話を聞けるだろうけど、袖振り合うも多生の縁という言葉もあることだし……なんて、一期一会の精神でこの人に話を聞いてみることにした。


 彼の名は、ハシム・カリミ。元は河の上流と下流を行き来する船の乗組員だったそうだ。

 河口にほど近いホッラムシャフルという地域に生まれ、十代半ばから地元で船に乗った。二十代に入ると上流との交易船の乗組員に抜擢され、そして彼は、何度目かに訪れたこの街で、恋に落ちた。

 ――あんだげ勉強したごどは後にも先にもねぇ。

 彼はそれだけの努力をして“北の言葉”を覚えた。

 やがてその努力は報われ、二十も半ばを過ぎた頃、ようやく奥さんと結ばれたのだという。

 そして、彼は齢五十で船員を引退、船上で奥さんと過ごせなかった時間を取り戻すかのように、この街で二人仲睦まじく暮らしているという。


 そんな話を、所々カイに言葉をフォロゥしてもらいつつ聞かせてもらった。

 ――って、なんで俺は見知らぬおっさんの身の上話を聞かされているのか。という気持ちも無きにしも非ずだが、それよりも看過できない情報がある。

 まず、この河を利用した交易船。これは、今でも行き来があるという。船は神話の時代の遺物らしく、非常に頑丈で、ハシムさんの三十年ほどの船員生活の中で、魔魚によって身の危険を覚えたことはないという。彼曰く「自然の方がおっかねぇ」だそうだ。

 そして、その船は物品のみならず、人の移動も担うという。これは俺たちにとって朗報と言える。

 もう一つ見逃せないのは、彼がこちらの言葉を『北の言葉』と呼称したことだ。彼はそれを努力の上で会得した。つまり、彼の生まれた南方では“違う言葉が使われている”という事に他ならない。

 普通に考えれば当然のはずのその可能性を、全く考えていなかったわけではない。だけど、“あちら”の地球で言えば、俺の旅路はイタリアから始まって、ウクライナの方を経由して、このトルコの辺りまで。この世界では、それだけ広大な地域で同じ言葉が使われているという事実から、無意識にその可能性を少なく見積もっていたのだろう。

 ただ、幸いにも、俺たちにはカイがいてくれる。それが俺の楽観を生んでいたという面もあるだろうし、実際、何とかなるのではないか、と思っている。まあ、こればかりは今更何ができるでもないし、こちらに来たばかりの頃だって何とかなったのだし、不便はあるだろうが何とかするしかない。

 決意を新たにハシムさんに聞けば、船は三日前に上流へ向かっていったので、明日か明後日には戻ってくるだろうとのことだった。荷の積み下ろしがあるために出港はその翌日か翌々日で、ハルマンという街にある一番河口に近い港までは、途中何カ所かに寄港しつつ、おおよそ一週間の船旅だそうだ。日数に幅があるのは、天候などにも左右されるためだ。

「船さ乗りでゃのなら、おいが口利いでけるべ」

 そんなハシムさんの厚意に、俺たちは素直に甘えることにした。

 引退したとはいえ、やはり船に関われることはハシムさんにとって嬉しいことなのだろう。俺たちが、お願いします、と頼んだときのハシムさんの笑顔は、変な遠慮なんてしなくて良かった、と心から思えるものだった。


 翌日の昼過ぎ、ハシムさんに呼ばれて桟橋まで出向けば、そこには大型の船が停泊していた。

 さすがに、俺がかつて横浜で見た大きな貨物船には到底及ばないが、それでもこれまでこの世界で見てきた船と比べれば破格な規模だ。今まで見てきたのが船艇で、これは船舶、と区別するべきだろう。

 見た目は、船として違和感を感じない。というか、この世界で、俺の想像する『船』と違和感のないものが存在することに、なんとも落ち着かない違和感を感じる。神話の時代の遺物だとはいうが、その中でも古いものなのだろうか? 神話には軌道エレベータや宇宙移民と解釈できる記述があって、それゆえ『大地が落ちてきた』のは俺たちの生まれた時代よりずっと未来に相当する時間軸を想像していたが、その割にこの船は“普通”に見える。……いや、もしかしたら中身はすごいテクノロジィが使われているのかも知れないが。

 ともあれ、思いがけず大きな船を間近にして、これから俺たちは遠くへ行くのだ、という感慨、そして実感が心に湧き上がる。

 そして、また旅に出るという実感と同時に、イェナカラでのミラとの会話が思い起こされた――。


「いっしょに行く!」

 ――そろそろまた、旅に出ようかと考えている。

 俺がそう切り出した直後、ミラは頑とした態度でそう言った。

 俺としては、かつてミラを大泣きさせてしまった負い目もあり、置いていくことを前提としたような物言いはしないように気をつけようと考えていたところに、先手を打たれた格好だ。

「……俺は、ミラがちゃんと考えて決めたなら、ミラの決めたとおりにしようと思っている。友達や先生、仲良くなった人たちと離れることとか、よく考えたか? もしミラが残りたいけど一人じゃ不安というなら、カイにはミラの側にいてもらっても良いんだぞ?」

「カイがいなくたって、オサムと行くもん!」

「……よく考えても、気持ちは変わらないんだな?」

 俺の確認に、ミラは少しむくれた顔のまま、強く頷く。

「わかった」

 ミラの態度は頑なに見えるけれど、ただ感情的なだけでもなさそうだ。それなら、元より決めていたとおり、ミラの気持ちを尊重するだけだ。

 ……それに、正直に言えば、さっきのミラの言葉は、嬉しかった。

 俺は、ミラはカイに懐いているのだと思っていた。俺は、その“おまけ”みたいなものだと。だけど、どうやらそうじゃなかったみたいだ。

 もしかしたら、それはミラが親を求める無意識で、必ずしも俺である必要は無いなのかも知れない。

 だけど……いや、解っている。もう、俺はこの子を見捨てることなんて、できっこないのだと。“俺が”ミラと一緒にいたいんだと。

 だが、そうやって懐に入れてしまえば、もし、俺が元の世界に帰ることができたとして、俺はそこで別れる決断をできるだろうか。

 その時考えれば良い、と思う。だが、その猶予がないような状況だったら? 迷っていたら、帰るチャンスを永遠に失うような状況だったら? そんな状況で慌ててした決断なんて、きっとどう転んでも後悔しかない。

 なら、考えなくてはならない。今すぐ答えを出さないにしても、いつかまでには、心を決めておかなければならない。

 だが、頭ではそう考えても、心に問えば、この子と過ごす時間が長くなればなるほど、今以上に感情移入してしまうだろう自分を想像できる。最初から別れを念頭にしてミラに接しようとしても、一線を引き続けていられる自信は、もう無い。

 その点だけでいえば、この子を助けた時点で、既に詰んでるんじゃないだろうか――そんな諦念もある。

 でも、ミラを助けられたことは、微塵たりとも後悔していない。何なら、誇りにすら思う。

 ならば後は――これからに後悔だけは無いように。ミラやカイにも、後悔だけはさせないように。ミラやカイの想いを尊重して、自分の心も蔑ろにせず。考えよう。考え続けよう。

 進んだ先で、“みんな”が幸せであるように。


 ――そうして、今、俺たちは“さんにん”でここにいる。

 ちなみにその後、俺とミラの言葉でしょんぼりと拗ねてしまったカイを、二人がかりで何とか宥めすかしたのは余談だ。


 さらに翌日。

 昨日と今朝ですっかり荷積みの終わった船に、俺たちは桟橋から渡されたタラップを渡って乗り込んだ。


 ――また、旅が始まる。

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