44.トキヤ

 『トキヤ』というのは地域全体を指す名称であり、さらにこれが東・西・南・北・中央の五つに区分され、それぞれ『ドォウ・トキヤ』、『ブツ・トキヤ』、『グネィ・トキヤ』、『クゼィ・トキヤ』、『マイケズ・トキヤ』という名称で区別される(通称では概ね後ろの『トキヤ』は省略される)。

 そのトキヤは北と西、そして南の西側三分の一ほどを海に囲まれ、南の東側三分の二と、東の南から北へ四分の三ほどを『マニャ・フラト』と呼ばれる巨大な河(ダヌビゥスにも勝るほどだ)に囲まれた、半島と呼ぶべきなのか、ほぼ島と呼ぶべきなのか、ともかくそんな地理的な特色を持つ、かなり広い地域だ。

 ただ、最も大きな規模の街だというブツの『イェナカラ』でも人口ではルーメンには少し及ばない程度だ。生活のレベルも大差なく、教育内容や宗教観にも大きな差異は認められない。人の優しさもだが、文明的な進歩を目指さない姿勢なども、だいぶ離れたこの辺りでも変わらない。だからといって、それがこの世界全体に共通するものだと決めつけるには早計だろうけど。

 そういった背景がどれだけ影響しているかは分からないが、トキヤ全体として、地域としての連帯意識のようなものはあるようだが、それぞれの地域の中でもさらに点在する街や村ごとに自治は行われていて、やはり国家という枠組みには当てはまらなさそうだ。


 ――そして今、俺たちはその『イェナカラ』に滞在していた。


 メルトポゥからドォウ・トキヤ北部に入るまで、年を跨いで約一月半。ミラの様子を気遣いながらの旅は、進行速度こそ緩やかだったが、波乱と言える事はまるで無い順調なものだった。

 グリセオ・マレ東岸に沿って進む分には山も川も困難というほどの障害にはならず、南下するにつれ寒さも和らぎ、カイが居るおかげか、魔獣に出会うことはおろか、遠くに見かけることも稀だった。ミラは相変わらず手のかからない子だったし、カイに良く懐き、カイも良くミラを見てくれていたから、俺が気を遣うことも少ない。そして、行く先々で出会う人々は相変わらず親切だ。これでは順調な旅にならないはずがない。……強いて難しかった点を挙げるなら、村落間の距離がやや離れていたこと、そして、冬場ゆえか食事のバリエーションが限定されていた点くらいだろうか(こういうことを言うから、カイから「食いしん坊」なんて言われるのだろう)。

 トキヤに入ってからは、南下しつつ、いくつかの村落で話を聞いた後、最も大規模だという西のイェナカラを目指した。ミラを連れていくとなれば無理に東へ急ぐつもりもなかったし、もうすぐ五歳になるというミラには基本的な教育くらいはちゃんと受けさせてあげたかったというのもある。どうせなら同世代との交流もさせてあげたかったので、それなら人が多い場所で、と考えた次第だ。

 イェナカラに到着したのは、まだ春というには早い、三月を少し過ぎた頃。

 三月でもまだ寒いのは、この辺りの標高が高いためらしく、冬場には積雪も多いとのことで、屋根の傾斜が大きめだったり床が高い建物の造りもそのためだという。そして、その建物自体は木造で簡素なものが多く、これは、地震も多いというこの土地でのリペアラビリティを考慮してのことのようだ(幸いにも俺たちはここで建物が倒壊するような地震は経験していないが)。いくら魔法があるとはいえ、建物一棟を瞬く間に組み上げる、というわけにはいかないということだろう。

 また、その地震が火山性なのか断層性なのか分からないので関連付けて良いのか分からないが、イェナカラだけでも数カ所、天然温泉の湧いている場所がある。雪や地震は困りものだが、温泉は歓迎だ。

 そんな、少し日本を想起させるところのあるこの土地だが、残念ながらというべきか、食文化という点では、さほど日本と似てはいなかった――が。ある一つの食材だけは、強く強く俺に郷愁の念を呼び起こした。

 それは――米だ。

 ルーメンでも食材として米が無かったわけではない。だがあれはインディカ米というべきものだった。似て非なるものなのだ。“米”を期待して口にしたら、「違う、そうじゃない」となるものなのだ。

 ましてや、ルーメンを出てからこっち、そのインディカ米すらそうそう口にする機会は無かった。なまじこちらに来てすぐに米の存在を知ってしまったがゆえに、その貴重さに気づけなかったのだ。

 だが、トキヤで出会った『ピラゥ』、つまりはピラフに使われていた米の形状は、少なくともインディカ米と比較すれば遥かにジャポニカ米に近い形状をしていた。それを見た瞬間、ちょっと泣きそうになった。そんな自分にびっくりした。人は失って初めて、それがかけがえのないものだったと気付くというが、その気持ちが少し解った。“そば”に出会ったときにも似た気持ちはあったが、そこまで強い感情ではなかったことを寂しく思ったりもした。だが、俺にとっては“米”の方がこんなにも思い入れが強いものだったのだと、ここで初めて自覚した。

 思わず調理前のものを譲ってもらい、自分で米だけで炊いたものは、だが、日本のものとは味わいが違っていた。不味いとは言わないが、何か物足りない。俺の炊き加減が悪いのかと何度か挑んだが、やはり違う。そして、違うがゆえに、心に巣くうノスタルジアはより強く大きくなったのだろう。

 ――ミラのことを思えば、東を目指す旅自体を考え直すべきではないか。

 俺の心に、僅かとはいえ生まれたそんな迷いを、その郷愁は、あっさりと吹き飛ばした。

 ……いや、こうやって言葉にすると、俺が『ミラ<米』と考えているように思われるかも知れないが、そうではない。“米”をきっかけに、本当に色々な想い、感情が自分の中で再活性化されたのだ。

 好奇心、探究心、我が身に起こった理不尽に対する反骨心。そういった明確なものだけではなく、もっと曖昧なあれこれも含めた、とても複雑な感情。それが心の内で蠢き出せば、やはり俺は何らかの“答え”、あるいは“納得”を得なければならない、と、理屈でなく求めるのだ。

 もちろんそれは、ミラを蔑ろにするということではない。

 だから、このイェナカラでの生活は、もう夏の気配が濃くなり始めた今でも続いている。

 ミラは少し人見知りする子なのか、相変わらずカイと一緒にいることも多いが、共に学ぶ子供達とも仲良くやっているようだ。学びの方も、やはりミラは賢い子のようで、少し年上の子と同じ内容まで進んでいるそうだ。

 さらに、そこで教わることのみならず、俺が何気なく使った日本語に興味を示し、俺にそれを教えてくれとせがんだ。そして、ミラは俺が教える言葉をぐんぐん吸収して、今では簡単な日常会話を日本語で行えるほどだ。

 ミラの将来を思えば、あまり俺に依存させるべきじゃない――とは思うのだが、嬉しそうに覚えたばかりの言葉を使うミラを見ると、まだ突き放すような年齢じゃないし、賢い子だからいずれ解ってくれるだろう、なんて、つい問題を先送りしてしまう俺だった。

 カイは、聖獣ということもあるが、それ以前に、この辺り(というかトキヤ全域)ではオオカミは特殊な思い入れを持たれる動物らしく、イェナカラでも最初の頃はこちらが恐縮するほどの厚遇を受けた。カイが、あまり大袈裟にされるのは好まない、と伝えたために過剰な信仰は鳴りを潜めたが、今でもたまにカイを五体投地でもしそうな勢いで崇め奉らんとする人がいたりするほどだ。

 俺はといえば、ルーメンで暮らしていた時のように農耕や畜産の手伝いをしているが、カイが俺を「恩人」と呼ぶせいか、周りの人たちが俺に対しても下にも置かない扱いをしようとするので、そこに打算や邪心などが無いと解ってはいても、ルーメンの時ほど気楽ではなかったりする。

 その点、子供達は素直で無邪気で気楽だ。ミラの様子見を名目についそちらに足を運ぶことが増え、どうせならと、広場にシーソーや背の低い雲梯のような、危険が少ないと思われる遊具をつくってあげたところ、ものすごく喜ばれた。ボール遊びなんかは存在したが、こういった設置型の道具を使った遊びというのは珍しいものだったようだ。

 その評判が広がり、俺はイェナカラのあちこちに同じものを作ることになったが、それは俺にとって、非常に充実した時間だった。

 カイと出会った洞窟のように思うがままに魔法を使えるわけではないので、いずれも簡素なものではあるが、大工さんなどにも協力してもらって設計や材料の加工など、あれこれ考えるのは楽しかったし、何より、それによって子供達の笑顔が見られたことが嬉しかった。

 ――ああ、俺は、誰かが喜んでくれること、楽しんでくれること、それが嬉しくて、ゲーム製作をしていたんだ。

 子供達の姿に、そんな初心が思い返された。

 かつて俺は、「好きなことを仕事にして金を稼げるなんて幸せだ」と考えていた。でもそれも、結局はその“金を稼ぐ”部分が目的になっていたように思う。

 もちろん、金を稼ぐことはすなわち“生きるため”で、そのためにがんばることが悪いことだとは思わない。そういった社会は、多くの人がより良い社会を目指して築いていったもので、ベストではないのかも知れないけれど、悪いものであるはずがない。

 だけど、もっとダイレクトに“働くこと”が“生きるため”になっているこの世界に触れて、正解が一つということもないのかも知れない、なんてことを、俺はぼんやりと感じていたのだと気付いた。

 もしかしたら、この旅の果てに、俺は“この世界で生きていくしかない”という現実を突きつけられることになるのかも知れない。

 だが、たとえそんな未来が待っていたとしても。

 俺がこの世界で“ものづくり”に、蘇った初心を忘れずに向き合えるなら。

 俺の未来に真実の絶望はあり得ないのではないか――そんな風に思えたのだった。

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