41.目覚め

 ――あれ、ここはどこだっけ?

 気がつけば、どことも知れぬ場所に立っている。周囲はぼんやりとして、だけど、どんな地面か、どんな景色か、なぜか気にならない。

 止まっていては分からぬままだと、ただ前へ歩く。

 砂漠を歩いた気がした。森の中を歩いた気がした。気がつけば平原を歩いている気がする。

 ――ああ、カイと出会った洞窟だ。

 唐突にそれが目の前にあることに気付く。唐突であることに疑問はない。

 入り口をくぐるとそこには――見慣れたビルのエントランスだ。

 ――そうだった、今日もまた仕事だった。

 なんだか久しぶりな気がするし、ついこの間に修羅場をくぐり抜けたばかりの気もする。

 エレベータ入り口上の階数表示を見れば、五階に止まっている。

 今日は俺より先に来ているやつがいるのか? と疑問に思い、それを疑問に思ったことを、あれっ、と一瞬だけ疑問に思う。

 とりあえず行けば分かるだろう――そう思ってボタンを押すと、階数表示は一階に向かってカウントダウンを始めた。


 ――キャーーッ!!


 直後、その、背後から聞こえた甲高い音に反射的に振り返ると、俺は道路のど真ん中にいて、“あの”タンクローリーが迫っていた。

 ――ああ、ブレーキ音だったのか。……今度はちゃんと、ブレーキを掛けたんだな。

 だけど、そのスピードは緩まない。それは当然のことだと、不思議と納得していた。

 俺は、一応は避けないとな、と考えて、だが、逃げようとした途端、体は何かに纏わり付かれたように、重くなる。

 ――ああ、そうだった。

 そして、勢いそのまま、“真っ赤な炎”が俺に迫る。

 それを疑問に思う間もなく、それは俺の鼻先まで迫って――――



「キャァァーー!!」

 飛び起きてまず、その声に気付く。悲鳴か、という認識に起き抜けの頭は支配され、夢のせいで飛び起きたのか、その声で飛び起きたのかが曖昧になって、見ていたはずの夢の残滓は瞬く間に遠ざかり、消えた。

 慌てて声が聞こえた寝室へ向かうと、開いたままの扉の向こうに見えたのは、ベッドの隅で怯える女の子と、その手前で耳や尻尾を“しゅん”とへたらせたカイの後ろ姿。……うむ、状況は多分、把握できた。

 女の子が突然現れた俺を見て、さらに身を強ばらせたのが分かり、慌てて笑顔を意識する。

「……大丈夫だ、このオオカミは聖獣で、決して人を襲ったりはしない。ほら――」

 そう言って、カイを撫でてやる。落ち込んでいたカイは、俺に撫でられて、少し元気を取り戻す。女の子の視線が、そんな俺とカイの間を何度か行き来して、ようやく彼女の身体から少し力が抜けた。

「俺たちは、一緒に旅をしているんだ。ここには、偶然立ち寄って……」

 言いながら、どう説明しよう、と迷う。早晩知られてしまうこと、ならば事実は伝えないわけにはいかないだろう。だけど、こんな小さな子に、あの惨劇を、どう伝えるべきなのか。

「私の名前は『相田カイ』です。こちらの恩人の名前は『相田修』。私たちはあなたに危害は加えません」

 言い淀む俺の心情を察したのか、カイがそんな言葉を発する。

「……しゃべった……? ……ほんとうに、聖獣?」

「そうですよ」

 自分の問いに返事をしたカイに、改めて驚いた表情を見せた女の子は、確認するように俺の方を見たので、頷いてやる。

(あれ、ここでも頷きは肯定で良いのか?)

 つい頷いてしまってからそう思ったが、女の子はもうカイの方を凝視している。どうやら問題無さそうだ。

「……君も、撫でてみる?」

 女の子のカイを見る目が興味津々という様子に変わったと見て取って、そう提案してやると、僅かに逡巡した後、女の子はゆっくりベッドを下りて、恐る恐る近づいてくる。

「……噛まない?」

「噛みませんよ」

 カイのその言葉を聞いて、女の子は意を決したように手を伸ばし、カイも女の子が撫でやすいように体勢を変えてやる。

「ワァ……」

 手がカイの毛並みに沈むと、花開くよう、なんて形容がぴったりな、女の子の表情の変化。あれは……ルブヤナだったか、あそこでも似たようなことがあったと思い出す。これはもう“世界の合言葉はもふもふ”と言っても過言ではないだろう(過言)。

 ともあれ、この子が笑顔を見せてくれたことに安心する。だが同時に、事実を伝えればこの笑顔も失われるだろうと思い、心が痛む。

「あなたの名前は?」

「私はミラ。ミラ・コヴァリチュク」

 女の子――ミラは、もうカイには多少心を開いてくれたようで、ふたりでそんなやりとりをしている。

「喉が渇いているだろう? 水と……食べやすい料理も用意しよう」

 俺はそう声を掛けて、一度寝室を出た。この家の貯水タンクは集水・浄化の魔法陣共々無事なおかげで、水には困らない。

 コップに水を汲むと、取って返す。

「空っぽの胃が驚いてしまうから、ゆっくり、少しずつ飲むんだ」

 そう言ってコップを手渡してやると、ミラはしっかり頷いて、言われたとおり、慎重にコップに口を付ける。

 ――素直で、良い子だ。

 その事実が、また俺の心を締め付けた。


 まだ痛んでいないミルクがあったので、ミラにはパン粥を作ってあげた。気持ち甘みを強めにしたそれを、ミラは少しずつ、少しずつ、口に運んでいる。

 ――問題の先送りだ。

 そうは思いつつも、この子の心に負担を与えてしまうなら、その前にせめて体力は回復させてあげたい、と思う気持ちも本物だ。

 どう伝えるべきなのか――その答えを出すには、干し肉のスライスを挟んだパンを食べきる時間だけでは、俺には少なすぎた。とはいえ、昨日の今日ではなかなか食欲も湧かない。食べなければ動けないだろう、という義務感で口にする食事は余計に味気なく、それが一層食欲を奪っている気がする。

 水をちびちびと飲みながら、泣かれるのを覚悟で事実を淡々と告げるしかないだろうか、と考えていたとき、ミラが口を開いた。

「離れないといけないの……、この場所を」

「……それは、どうして?」

 内心驚いたが、表に出さないよう、できるだけ優しい声を意識して尋ねると、ミラは少しうつむいて、口を開く。

「……パータ(パパ)も、マータ(ママ)も、他のみんなも……、もう、いないから……」

 その声は、震えていて。

 ――この子は、覚えているのだ。あの悲劇を。

 そう察した瞬間、また俺は胸を鷲づかみにされたような苦しさを覚える。

 大人達の下で意識を失っていたこの子は、大人達に護られて、何も知らずにいたのではと、勝手に思い込んでいた。いや、目を覚まして、カイに驚きこそしたが、その後は取り乱したりしない姿から、無意識にそう判断していたのだろう。

 だけど、そうではなかった。

 だのに、ミラは、声を震わせこそすれ、涙を零したりはしない。

 こんな幼い子が気丈に振る舞っているのに、いい大人がショックを受けている場合ではないぞ! と、心の中で気合いを入れる。

「どこへ行けばいいのかは、知っている?」

「……太陽が昇ってくる方の出口から出て、道に沿って進むの……。そこに、メルトポ? ……っていう大きな村があるって……」

「よし、分かった」

 俺の声に、ミラは不安そうなまま顔を上げ、こちらを見た。

「俺たちが、君をメルトポゥへ連れて行く。必ずだ。だから、今日はその準備をしよう。そして、しっかり食べて体力もつけよう。明日のために」

 できるだけ自信に溢れた態度を意識して、ミラの目を見ながら、力強く断言する。少しでも彼女を安心させてあげられるように。

 ――そんな思いを込めた俺の言葉は、彼女に少しでも勇気を与える魔法になったのだろうか?

 ミラは、その不安そうな表情を、むん! と前向きな決意を込めた表情に変えると、俺の言葉に強く頷いて、残りのパン粥に取り掛かり始めた。

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