39.生存

 間に合わない――驚きと、恐怖の中で、そう思った。

 遥か頭上から、その、先端から鋭いナイフのような爪が飛び出した前足が、俺に向かって振り下ろされる瞬間を、確かに見た。

 そして俺は、反射的に顔を伏せ、身を屈めた。

 ――ダメだ。

 ――これで良い。

 大きすぎてそれが恐怖とは俄には知れない感情が胸の内を圧し潰さんとする中、脳裡には相反する思考が浮かんだ。


 ――ゴゥォォーッ!


 耳に届いたそれが、何の音か分からなかった。

 だがそれは、何かの音ではなく、クマの魔獣が痛みに上げた咆哮だった。

 自分のすぐ側にあった圧迫感が遠ざかるのを感じると、足は自然に動いた。

 扉の前から飛び降りた勢いのまま、足がもつれるように駆けて距離を取り、魔獣の方を見る。

 まるで、駄々を捏ねるようにのたうつ、クマの魔獣。その右腕が、あらぬ方を向いていた。

 外套にエンチャントした『運動方向反転』が正しく仕事をしてくれたことに安堵すると同時、あの、俺の腰回りほどもある腕が、ああも簡単に折れ曲がるほどの巨大な力がこの身に振り下ろされた事実に、戦慄する。

 間もなく、魔獣がその巨体に似合わぬ俊敏さでその身を起こした。右前足以外の三本の足で立ち上がり、俺の方を見据える。その目の内は、憎悪や殺意に燃えているように錯覚させられる。いや、決して単なる錯覚などでは無いのだろう。

「…………ッ!」

 緊張で呼吸が詰まる。足が恐怖に竦みそうになる。だが、中途半端に逃げ腰になる方が危ない。

 大丈夫だ、この外套があれば――魔獣の折れ曲がった右前足を見ながら、そう自分に言い聞かせ、左足を後ろに引き、半身になって足を踏ん張る。外套で覆えない顔面側を相手の怪我をしている腕の方へ向けたのは、ほとんど無意識のことだ。

 ――それに、俺にヘイトが向いているなら、好都合だ。あんな危険な存在を逃がしてしまえば、どんな被害が出るものか。

 そんな強がり一つ。身体の震えは、武者震いだ、と決めつける。

 そうやって精一杯を以て自らを鼓舞し、あの威圧感に飲み込まれないように、気持ちだけでも負けないよう、にらみ返す。


 ――にらみ合いは、一瞬だったと感じる。

 ふいに魔獣が地を蹴ると、怪我を負っているとは思えないような速度で迫った。

 ギリギリまで視線を切るな! ――歯を食いしばって、自分に言い聞かせる。

 言い聞かせる僅かな時間で、魔獣は既にあと一足に迫り、そして左前足を振り上げながら、後ろ足で跳躍。

 それを目が認識した瞬間、身体は考えるより先に動いた。

 脇構えのような半身の態勢から、背中を相手の方へ向けるように。


 ――バゴシャァッ!!


 背中でそんな喩えようのない音がして、間もなく地面に重いものが落ちる音が続く。

 フード左端の視界に、魔獣の前足、そしてそこから伸びた鋭い刃物のような爪がまとめて飛び出してきたのが見え、次の瞬間にはそれが視界から消えた――その、脳裡に焼き付いた恐ろしい残像が、心臓を急き立てる。まるで喉元で心臓が激しく脈動しているようだった。

「……ハァッ……!」

 苦労して息を吸い込むと、足がもつれ、魔獣に背中を向けたまま、前に倒れ込むようによろめいた。

 振り向くと、そこには、魔獣の巨体が、地に這うように横たわっていた。

 左前足も折れ曲がっている、のみならず、その背中から、強靱な筋肉を突き破り、骨が飛び出している。外套に触れて向きを変えた力と、後方の慣性がぶつかり合い、背骨を開放骨折させるような力が加わったのだろうか。

 瞬く間に広がる血だまりが足下にまで迫ってきて、まだ上手く力の入らない足に気合いを入れて、距離を取る。

 息を詰め、伏したままの魔獣を、瞬きも忘れて見据える。その全身や流れ出した血から立ち上る湯気が空気に揺らめき、まだ魔獣が動いているように錯覚させる。

 どれだけそうしていたか。魔獣の持っていた熱は厳しい寒さに奪われ尽くし、気がつけば、俺の耳元で鳴るようだった心臓もずいぶんと落ち着いていた。

「……フゥーッ……、『火弾(魔獣)』」

 改めて自分を落ち着かせるように、ゆっくりと深呼吸を一つ、そして魔法を放った。

 俺の手元から飛び出した火の玉が着弾すると、魔獣の身体は瞬く間に燃え上がる。

 魔法に抵抗がない――確かに魔獣が死んでいることが確認できて自然と気が緩んだか、一瞬気が遠くなりかけたが、慌てて頭を振って意識を引き戻す。

 多分、俺の人生で一番、緊張と集中をした時間だった――そんな、達成感にも似た感慨が湧き上がってくる。

「オォーン! じぃーん!」

 聞こえた声に、何事かと振り向けば、こちらへ向かってくるカイの姿が見えた。

 ああ、恩人、って言ってるのか……なんて、緊張から解放された回らない頭で暢気に待ち構えたが、近づくカイの口元が真っ赤に染まっているのを見て、ギョッとする。

「ご無事ですかぁー!」

「あっ、バカッ」

「キャウン」

 俺に向かって飛びついてきたカイが、外套にぶつかって跳ね返る。幸い、ふわっと飛びついてきただけだから良かったものの、先ほどの惨事を見た直後だけに、とても心臓に悪い。

「ご無事ですかぁ!」

 宙で身を捻ってあっさり着地して見せたカイは、そう言って、俺を見上げながら、周りをぐるぐると回る。

「落ち着け、大丈夫だから。それより、カイこそ大丈夫か? その血は……?」

「大丈夫です! 返り血です! もう魔獣の気配はありません」

「そうか……なら良かった。『清潔(カイ)』」

 魔法を掛けてやると、口の周りのみならず身体のあちこちに付いていた血の汚れが地面に落ちた。どうやら言うとおり全て返り血のようで、カイ自身には怪我はないようで安心する。

「それよりも恩人! こちらです!」

 カイの身体をざっと見終えた途端、カイが駆け出すそぶりを見せてそう言った。

「今度は何だ?」

「生存者です!」

「ッ! どこだ!?」

「こっちです!」

 言って駆け出したカイの背中を、全力で追いかけた。


 破壊の跡の見える家屋の側に、“たおれた”人が、折り重なって小さな山を作っていた。流れた血のせいだろう、その山は周囲の地面と同じように赤黒くまみれていた。

 近づくと、一番上の人の背中が深く抉られているのが見えて、思わず顔を背けそうになったが、歯を食いしばって耐えた。

 大人が……三人、それぞれ下の人を庇おうとしたのだろうか。誰もピクリとも動かず、生きているとは思えなかったが――。

「この下です!」

 下、と聞いて、自分が汚れることにも構わず、慌てて上から人を抱えて、脇へ下ろしていく。念のため呼吸を確かめるも、やはりその息は絶えていた。

 折り重なっていたのは、男、男、女。そして、その最後の女性を動かそうとしてようやく、その下にさらに子供がいることに気付いた。そして気付くと同時、身体が動いていた。

 思わず雑に扱ってしまった女性に心で詫びながら、子供を抱きすくめるようにして、耳をそばだてる。

 俺の耳が捉えたもの。それは、とても弱く、か細いものだったけれど――確かに、命あるものの息吹だった。



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○未完結時点でこのエピソードをご覧いただいている方へのお知らせ


 読んでくださる皆様の存在に後押しされ、この度、無事最後まで執筆を完了いたしました。

 よって、本作は本日より『毎週一話更新』から、『毎日一話更新』に移行いたします。

 当初予定していたラストエピソード(60.)+エピローグまで、あと約三週間ほど、宜しければ引き続きお付き合いください。


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