33.北へ

 ダヌビゥスに導かれた船旅は、雨に降られた一日と、増水が見られたために様子見をしたその翌日、計二日の足止めこそあったものの、それ以外は順調だった。

 太陽の位置からの大まかな推察だが、ブーダからはしばらく南進、その後おおまかに東南東へ、やがて東北東へ向かったのち北進、そんな形の流れだった。そして十日ほどで辿り着いたのが、ガラチという街だった。ダヌビゥスはまだおおよそ東へ続いているが、この辺りまではたまに海の生物が上ってくることがあるそうで、河口までの距離はそれほどなさそうだ。

 そんな経路からダヌビゥスの大雑把な形を思い浮かべ、今更ながら「……ドナウ川?」なんて思いつく。相変わらず、この世界の地形が地球に準ずるという仮定を前提とした、確かではない想像にすぎないが。

 不確かなのは承知の上で、改めてルーメンで写した地図を広げ、西側に比べればよりうろ覚えながら地球の東ヨーロッパを思い浮かべる。ダヌビゥスがドナウ川として、ここからもう海が近いというのなら、ドナウ・デルタは水没しているのだろう。こちらの地図が正しければ、向こうの黒海にあたるここから東の海(ガラチでは『グリセオ・マレ』と呼んでいた。そのまま訳せば『灰色の海』だろうか)に、クリミア半島は無い。南の、地球ならイスタンブールなどがあるはずの周辺も海しかないし、それだけ海面が上昇しているというのなら、あり得ないとも言い切れないだろう。

 その真偽はともかく、今はこれを踏まえて今後の進路を考える。変わらずトキヤを目指すなら、直線距離でいえば、やはりここから南進して船を探すのが最短なのだろう。だが、船旅でトキヤを目指すのは怖いと、陸路を選んだあの時の気持ちは、今も変わっていない。

 ……そうだな、タイムリミットのある旅でもなし。ならば、最初に決めたとおり、陸路を行こう。

 ガラチの街の人たちの厚意に甘えて、久しぶりに落ち着いた時間を過ごしながら、そう決めた。

 ガラチでも、相も変わらず人々は親切で、北へ向かうならその外套だけでは心許ないだろう、と、この下にも重ねて着用できるような、軽めで手頃なサイズの外套をわざわざ用意してくれるという。のみならず、保存食や、いざというときに暖を取るための魔道具まで用意してくれるというのだから、何も返せないことが心苦しいくらいだ。

 だが、今使っている外套にエンチャントを施していることも、亜空間にいろいろな物資を保存してあることも、大っぴらにするつもりがない以上、そういった厚意を辞退するのも不自然だ(これまでの道中でも同じように、控えめながら“普通の旅人”なら必要だろう物資の補充をしてきたせいで、食料のような消耗品以外は幾分だぶついているのだが)。

 別に、秘密にせず伝えたところで、この世界で出会った人たちの気質を思えば、俺が異端として糾弾されるようなことは無いだろうと、今は信じられる。だが、俺が危惧するのは、それを伝えることが“蝶の羽ばたき”にならないとも限らないのでは、ということだ。何がどんな風に将来的な変化に影響するかは分からないし、責任も持てない。もちろん、この世界にとって異物であるはずの俺が存在するだけで“羽ばたき”は既に起こっている可能性もあるわけだが、だからといって好き放題振る舞って良いことにはならないだろう。

 ――ゆったりとした時間を、そんな思索に耽ったり、豚肉料理に舌鼓を打ったり。そうして五日ほども過ごした後、ガラチを発った。


 ――北へ徒歩で向かう決断は、間違いだったかも知れない。

 そう思ったのは、まだガラチを発ってからまだ三日ほどしか経っていない、グリセオ・マレ西岸近くを北上している時だった。

 一応、道はある。だが、もう季節は真冬と言っていいほどの寒さのせいか、人通りは全くないうえ、村落もなかなか見つからない。朝一から日が落ちるまで歩いても見つからないこともざらだ。ただ、体感なので確かではないが、そもそも日が短い。ここのところ、雨や雪にこそ降られていないが、曇天が続いているために余計に不確かだが、歩いている時間が短く感じる(さすがに夜の闇の中を進む勇気は無い)。

 エア・キックボードを使うくらいのスピードで進めば、その日のうちに次を見つけることはできる程度の間隔で村落と思しき場所は存在しているのだが、その中には全く無人の村もある。最初に辿り着いたのもそういう場所で、荒らされている様子はなかったので『宿』代わりに利用させて貰ったが、おそらくそういう用途の場所ではないのだろうという印象だった。俺の推測では、こういう場所は人が住んでいる場所が魔獣などに襲われたときのスペアとして用意されたセーフティネットなのではないか、という考えだったが、次の、人の息吹のある村で、その考えが間違っていないことを確認できた。

 べつに、俺の勘が優れていたわけではない。そういう考えに至ったのは、北に進むにつれ、魔獣を見かける頻度が増えているためだ。幸い、カイが側にいてくれるおかげだろう、魔獣がこちらへ向かってくることはないのだが、今まで見たことのあるウサギやオオカミの他、シカや、ルーメンで直接見ることはなかったイノシシの魔獣の姿を確認している。シカやイノシシは額に新しく角が生えているというわけではなく、シカは左右の角が、イノシシは口元の牙が、簡単に言えば“より殺意の高い”形に変化していた。エンチャント済みの外套があるとはいえ、できればこのまま相見えることが無いことを、心から祈るような姿だった。

 また、そんな状況では、遠くを飛んでいる鳥も、魔獣化しているのではないか、という疑心暗鬼が生まれる。近くなら判別もつくかも知れないが、遠くでは難しい。今までは旅の中で空から襲われることは無かったので、つい危機感が薄れていたが、一度気にしてしまえば、やはり心は安まらない。

 そんなわけで、魔獣に対して神経を尖らせて進む上、日照の少なさというのも相まって、精神的にはあまり良い状態ではないという自覚がある。

「ほんと、カイがいてくれて良かったよ」

「お役に立てているなら嬉しいです!」

 魔獣を遠ざけてくれることがなかったとしても、この想いは変わらないだろう。一人ではない、ということの心強さを、この時ほど強く感じたことはない。

 ――そんな風に思う時点で、やはり俺のメンタルは弱っていたのだろうけど。


 エア・キックボードを使うくらいのスピードで進めば、という仮定形で表現したのは、実際には使うことが“できなかった”からだ。

 別に、魔道具としての機能に不具合があったわけではない。……とにかく寒いのだ。

 外套の『適温』は適切な仕事をしている。だが、取っ手を掴もうと手を伸ばせば、マント状の外套の前部にはどうしても隙間ができるし、元より顔までは覆えない。歩く分には、外套は閉じておけるし、顔もフードの隙間から漏れてくる温風のおかげでなんとかなる(とはいえ鼻先は冷たい)のだが、キックボードを使いスピードを出せば、当然冷たい風は前面をもろに直撃するし、隙間からは暖かい空気を押しのけて冷たい空気が入り込む。これが、思った以上にキツい。キックボードを使うことが“躊躇われる”というレベルではない。“無理”だ。

 そんなわけで歩くのだが、先述の通り、歩きでは次の村落を見つけられないこともある。仕方なく野宿するのだが、ここで思わぬ罠が待ち受ける。

 なにせ、テントにも『適温』はエンチャントしてあるのだ。するとどうなるか。

 ……寒い日のコタツ、その魔性を想像できるだろうか。正にその誘惑が、俺を襲うのだ。

 “寒さ”というものが、人にとって、いや、生物にとって、どれほど辛いものであるのか。延いては、“あたたかさ”というものがどれほど人を幸福な気持ちにさせるのか。それを身に染みて思い知る心地だった。

「北国で生活する人たち、マジリスペクト! Yah!」

 時折そんな風に、謎にテンションが上がる時があるのは、寒さのせいばかりではなく、メンタルが落ち込みすぎないようにするための自己防衛反応でもあるのだろう、きっと。

「ウァフ! (ヤァ!)」

 ……俺の変なテンションに追従して楽しそうなカイは、何も考えていないだけのように見えるが。

「……カイは寒くないのか?」

「全然、問題ありません」

 それは、自前の毛皮のおかげなのか、それとも、聖獣化したことによる変化なのか。俺が、そんな疑問を口にする前に、カイが続けて言う。

「恩人に助けられる直前の、とっても冷たくて寒いのに比べたら、なんてことはないです」

 なんとなくだが、何故だかその“冷たさ”が、解る気がした。もしかしたら、この世界に飛ばされる直前、あの事故の時、俺はそれを経験したのだろうか? それを覚えていないだけなのだろうか? ……判らない。だけど今、俺は、こうして生きている。だから、心から思う。

「……そうか、なら、間に合って良かったよ」

 カイを助けることができて、本当に、良かった。

「はい! どれだけ恩人の役に立っても、返しきれない恩なのです!」

 ――そんなことはない。カイの言葉に、そう思った。だけど、今、カイが側にいてくれることに、カイの言葉に、俺が感じている温かい気持ち。それをカイもまた、俺といっしょにいることで、感じてくれているなら、嬉しい。そうも思った。


 ――そんな、暖かい時間を過ごすテントの中は快適だ。だが、そこでは外が見えない。となれば当然、次第に魔獣の不安というものが心に迫る。

 そのせいで、いや、そのおかげで、というべきか、俺はあたたかな誘惑に堕落せずに済み、歩みは遅くとも着実に北へと進んだ。ある程度進んでしまえば、変な意地もあったのだろう、もう引き返すという選択肢は無かった。

 そして、ガラチを発ってから一週間。俺たちは『セクン・ドディサ』という、比較的大きな街へ辿り着くことができた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る