32.河下り
ダヌビゥスの流れは、波もなく、ゆったりと穏やか……に見えていたが、この、河の大きさに対してあまりにもちっぽけなボートでその流れに乗れば、結構なスピードがあるように体感された。
水面も、こうして間近で見れば、当然その表面はきれいな平面ではない。それでも大した揺れもなく、まさに滑るように河を進んでいるのは、櫂を預かるシラードの手腕ゆえなのだろう。
このダヌビゥスに住まう聖獣に注目され、自らも聖獣を従えている俺を、次の村まで船で送る栄誉に与りたい、そう真っ先に俺たちに声を掛けてきたのが、このナジ・シラードと名乗った男だった。
余談かも知れないが、この出会いにはちょっと面白い事があって、最初、俺が「ナジ」と呼ぼうとしたら、彼からは「シラードと呼んでくれ」と言われた。なぜかと聞けば、『ナジ』はコンニョーメネ(苗字)だからだ、という。なんでも、彼に限らず、このブーダの周辺の人々は『姓・名』で名乗るのだという。そんな日本との共通点にちょっと嬉しくなって、俺も本来は『ソウダ・オサム』であり、ルーツは遙か東にあるのだと伝えると、リュウとはルーツを同じくするから興味を持たれていたのか、などと、いらぬ誤解を与えてしまったが。
ついでにもう一つ余談。ブーダでは、他にも日本を思い出すものがあった。それは、温泉だ。ルーメンにも温泉を利用した公衆浴場はあったのだが、住んでいたところから遠かったため、たまにしか利用しなかった。入ろうと思えばいつでも入れる、そんな気持ちも無意識にあったのだろう。だが、そのルーメンの環境が特殊だったのだと知ったのは旅に出てからだ。旅立ちから三ヶ月も経っていないが、思いがけなかったのは、このブーダで温泉に出会ったことより、それを自分で驚くくらい嬉しく感じたことだろう。ブーダの湯は体感で四十度もない、ややぬるめの温泉だったが、そこに身を沈めたときに目の奥にツンと沁みたのは、きっと温泉の成分のせいではない。
まあ、そんなわけで後ろ髪を引かれる思いもあるのだが、これからますます寒くなっていけば、余計に温泉から離れ難くなってしまうだろう、という怖さもあり、未練はすっぱり思い切って、“彼ら”の厚意を受けることにしたのだった。
そのシラードは、巧みにボートを操りながらも、その表情はどこか緊張、というか、高揚しているように見える。それはひとえに、このボートと並び、時折水面に、ぬらぁ、と背中を覗かせる、リュウの存在のせいなのだろう――。
「……ほう、珍しいな……」
「あなたの方が珍しいですよ!」
「フッ、これは一本取られたな……」
いや、何だこれ? 聖獣ジョーク? 俺が飲み込んだ言葉をカイが代わりに発したことで、“おまいう”が渋滞してるじゃないか。
「……カイ、これ、呼んだの?」
「まだでした」
あまりにも良いタイミングの登場だったので、カイが本当に呼んじゃったのかと思ったが、そうではないようだ。……でも、“まだ”ってことは、呼ぶ気は満々だったのね。
「なに、知らぬ聖獣の気配が近づくのを感じたので、確認に来てみたまで。人と共にあるのは意外だったが」
「恩人なのです。恩を返さねば」
「……ふむ、そのようだな」
そんな聖獣トークは、俺のみならず、周りの人にも聞こえているようだ。だが、カイの鳴き声はともかく、この“ウナマズ(ウナギ+ナマズ)”とでもいう存在は、口をパクパクさせてはいるが、鳴き声のようなものは聞こえない。伝えようという意志があれば、空気を僅かでも震わせさえすれば言葉として届くということなのだろうか。あるいは、人の耳には聞こえない音域で耳に届いているのかも知れないが。
「……なるほど。……なるほど? ……なるほどな」
そしてリュウは、何やら自分だけで納得している様子。端から見れば不可解な態度だが、俺にはそんな様子に覚えがある。おそらくはグランのように“魔の流れ”にアクセスして情報を拾っているのだろう。
「カイも魔の流れってヤツから知識を得たんだろう? 今もできるのか?」
「ん~? できなくはないですが……ここだとすごく“細い”です」
カイの“細い”という言葉は、同時に俺の脳裡にインターネット回線を想起させた。ということは、カイが伝えてきた意思はそういうニュアンスのものなのだろう。
ということは、聖獣と関連付いて聖域化した魔素溜まりは、その聖獣のみに最適化されるようなことが起こっているのだろうか。そう考えれば、カイと出会った洞窟で俺の身に起こったようなことが、グランの聖域やここで起こらなかったことの理由としても納得できるところではあるが。
不思議だと思うし、面白いとも思うが、きっと、そういう不思議現象というものは、よくよく調べたところでそのメカニズムが明確化される類いのものでもないのだろうなぁ、なんて思いもある。こっちの世界で暮らすうち、そういう不思議をありのままで受け容れるのにずいぶん慣れた。が、それが思考放棄にならないようには気をつけたい。
「東へ向かうのならば、この河を下ると良い。海の近くまでは我々が随行し、安全を確保しよう」
俺がぼんやりと自分の考えに耽っていると、リュウが突然そんなことを言い出した。
俺たちが遥か東を目指していることを伝えずとも理解しているということは、本当に“流れ”からそういう情報を拾ったのだろう。そして、我々、ということは、やはりこの河の聖獣はこいつ一体ではないということか。
――“流れ”からはどうやって情報を得るのだろうか? その情報はどのように認識されているのだろうか? この聖域には何体のリュウが存在するのだろうか? もしかしたら河が聖域なのではなく、それぞれのリュウが河の中に聖域を持っているのではないだろうか? 同行、ではなく、随行、なのは、グランが言っていた俺の“権限”ゆえだろうか、あるいは、単に河を下る主体が俺たちで、それについて行くというだけの意味合いだろうか?
こいつが付いてくるというのなら、道中、そんな、浮かんだ疑問をぶつけてみるのも面白い――そんな気持ちもあり、リュウの申し出を受けることにしたのだった。
河下りはおおよそ快調だった。一日に多くて三つ、川沿いの村落に行き当たるが、村ごとにボートと漕ぎ手の交代がある。ここでもやはり人々は優しいので、渋るような人は元よりいないのだが、聖獣との同道と聞けば、ぜひ、という人ばかり。やはり聖獣とは特別な存在なのだと、カイと居ることに慣れた俺にはあまり実感のない事実を再確認したり。
漕ぎ手の人たちは皆、シラードと同様、誇らしげだった。だからといって、変に張り切ってスピードを出しすぎたりせず、安定した操船で進む。聖獣を乗せ、聖獣と併走するということで、どこも腕自慢に任せたようで、俺がボートの上で不安に思うようなことは一度も無かった。
そして、日が沈む前に辿り着いた村落で無理せず留まり、宿を取る。そんな、急がない一日の船旅。大体その前後くらいの距離でリュウの交代もある。
「明確な区切りがあるわけではないが、なんとなく己のテリトリィと他のテリトリィの違いは感じる。広いこの河川には誰のものでもない領域もまだ存在する」
リュウのそんな言葉で、俺の『聖域ダヌビゥス=複数の聖域のパッチワーク説』は肯定された。
交代したリュウたちは、元々そういう性質なのか、はたまた、“流れ”を介して情報のみならず意識も共有しているのか、話していても個体差は感じない。気になってカイに、離れている子供達とやりとりができるのか尋ねてみたが、「あの子たちが元気なのは分かりますが、直接意思を通わせることはできません」とのこと。聖獣が皆そうなのか、種族差があるのか、個体差があるのか、その辺りはカイもリュウも分からないという。“魔の流れ”が膨大な情報を含有する流れだとしても、全ての意識と繋がるわけではないのか、あるいは膨大ゆえにピンポイントでの接続が難しいのか、そんな疑問への答えもまた、彼らの口から聞くことはできなかった。
ただ、答えを得られずとも、そんな問答は充分に船旅の楽しみとなった。最初こそボートからの景色を楽しめたが、似たような景色ばかり続けば、やはり興味はいつまでも続くものではなかったから。
――人間以外の生物と意思を通わせるという摩訶不思議現象に、最も感謝するのが“暇つぶし”というのは、なんとも贅沢な話かも知れない。
そんな感想と共に、十日ほどの船旅はガラチという街への到着で幕を閉じた。
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