23.狼たち

 もしかしたら危険ではないか、という理性的な判断は、走りながら脳裡に浮かんだが、だからといって見過ごすのは、感情が許さなかった。

 おそらくは親だろう大きな一頭、その身体にぴったりと寄り添う小柄な二頭。それらが伏せている地面は濡れていて、不思議な感覚でそれを“視た”俺には、彼らを濡らしているそれが、大きな狼の身体から流れ出る血であると、解った。

 幼い頃に飼っていた犬の姿が脳裡に浮かんでいた。それは、俺が物心つく前に家で飼っていた犬で、俺はその犬が亡くなった時にギャン泣きした、という話を親から聞かされていた。俺がなんとなく覚えているのは、多分その時の、自分の胸の内に感じる、それが悲しみの感情であることさえまだ良く理解していなかった、なにか。その“なにか”に押し出されるようにして溢れる涙が、どうしても止まらない感覚だけ。だから、その犬の姿なんて、写真で見たことがあるだけのはずだ。

 だけどその、脳裡に浮かんだ犬の姿は、確かに俺の目線で見た姿で。

 それが、思い出せなかったけれど確かに残っていた俺の記憶なのか、あるいは後で見聞きした情報から俺が頭の中で生み出した幻なのか、それは判らない。だけど、その姿に、胸が締め付けられるような感情を覚えたことは確かだ。

 それが、老衰や重い病であるなら、俺はその運命をねじ曲げてまで救おうだなんて思わない。だけどあれは、“敵”の害意によるもので、俺はそれを運命だと認めたくはない。そして、あれはまだギリギリ救える命だと、あの感覚に“視えた”のだ。

 ならば、俺は、それを試しもしないで見過ごすことはできない。

 ……いや、そういう理屈じゃないんだ。

 俺は、知りながら、何もせず、何もできずに、命を見送るなんて、ただ嫌だった。


 通路を抜けると、頭上の光がその空間全体を明るく照らす。

 それと同時に、小狼たちがバッと、大きな一頭を守るように前に出たのが見えた。横たわる成狼の方は、尻尾の先まで含めれば二メートルを越えようというサイズで、その半分もない幼い身体ではなんとも頼りない。だが、その“意志”は、胸を打つものがある。

「大丈夫だ、危害を加える気はない」

 グランが俺に意思を伝えてきたように、もしかしたら俺の想いも届くかも知れない、そんな淡い期待を込めて、そう言葉にする。が、特別な反応はない。

 焦る気持ちを抑えて、まずは魔法の光の強さを、彼らの姿を確認できる最低限まで弱め、それからゆっくりと、小狼たちを驚かせないように近づく。

 ……十メートル……、……五メートル……。

 小狼たちは俺を威嚇するように警戒しながらも、飛びかかってくるようなことはない。

 俺は屈んで、できるだけ威圧感を与えないようにして、さらに近づく。

 大きな方の狼の耳が、ヒクヒクと動いた。俺に気付いてはいるのだろう、だが、目を閉じ、伏せたままだ。もはやこちらを威嚇する力さえ残っていないのか。

「『治癒(狼)』」

 少し遠いが、魔法を使う。片手を地面に着けて意識すれば、狼の様子は“視える”。脇腹に傷口。そこへ意識を向ける。

 魔法は抵抗される。だがそれは、まだ命のある証拠だ。抵抗は、無効ではない。だから、何度も繰り返す。この『魔素溜まり』なら、この程度の魔法を幾度繰り返したところで魔素が枯渇することはまず無いだろう。

 “異物”を押し出しながら、傷口の深いところから治っていくイメージ。それがしっかりしていないと、表面だけ塞がって内側が酷いことになりかねない。

 鋭い爪で抉られたのだろうか、三つ並んだ傷口。思ったより早く、そこから流れ出る血は止まった。少しホッとする。

 そんな俺の様子を油断とでも見て取ったか、小狼たちが飛びかかってきた。

 俺は思わず身構える――が、俺の外套に触れると、小狼たちは勢いそのままに跳ね返っていく。

 幸い、まだ小柄で軽いからか、さほどの勢いではなく、地面をコロリと転げて起き上がる。その顔は二匹ともそっくりな、不思議そうな表情をしていて、俺の頬は思わず緩んでしまう。かわいいかよ。

 ともあれ、外套の『運動方向反転』は、きちんと仕事をしてくれたということだ。

 不思議なもので、魔法陣によって発生する魔法的現象は、魔法陣の“表面”近くで生体が触れると簡単に霧散してしまうが、離れた場所の現象や魔法陣の“裏側”に触れても簡単に消えることはない(魔法現象への抵抗自体はされるようだが)。表面近くであっても、外套の内側に仕込んだ“ふた”のような簡単な仕掛けで魔法の発動が確保できるあたり、人間に都合が良すぎる気もするが……まあ、このあたりは深く考えると、思念を実現してしまえる魔素なんてものがあるこの世界では藪蛇になりかねないので、ただそういうものだと受け容れ、便利に利用するのが賢いのだろう。

 そんなことを考えているうちも、小狼たちは諦め悪く、それから何度も俺に飛びかかってくる。というか――

「お前ら、楽しくなっちゃってるだろ……」

 ただ飛びかかってくるばかりではなく、次第に腹や背中から飛び込んでみたりと、何というか、跳ね返る感覚を楽しんでいるのではないかという感じ。もはや俺のことを、敵というより、おもちゃとでも見ているようだった。

 そしてそのおもちゃたる俺は、狼に引き続き治癒を繰り返しながら、小狼たちの愛らしさに癒やされてもいたのだった。


「グルルゥ……」

 傷口がだいぶ塞がったようなので魔法を止めると、母狼(実際に母親なのかは判らないが、メスであることは“視た”ので確かだ)が呻いた。

 その声で我に返ったのか、子狼たちは慌てて取り繕ったように、俺を威嚇するような姿勢を見せる。だが、さっきの今では、そんな姿もかわいく見えてしまう。

 再び母狼が喉の奥から絞り出すような声を鳴らすと、子狼たちは俺を気にしながらも母狼に向き直り、近づいてその鼻先を代わる代わる舐め始めた。先ほどの声で、何らかの意思の疎通があったのだろうか。

 俺も屈んだままゆっくり近づいてみる。母狼は片目を薄く開けて俺の方を見たようだが、警戒を解いたのか、それともそれをする体力がないのか、すぐに目を閉じてしまう。

 俺がすぐ傍らにまで近づいても、母狼に動きはない。だが、よく見ればその背中はゆっくりと上下していて、それを確認した俺は、間に合ったのだ、という喜びが胸に広がるのを感じた。

 子狼たちは、首だけを巡らせて俺を見上げている。その表情に先ほどまでの警戒感は無い。俺がこの母狼を助けたことを理解してくれたのだろうか?

 思いついて、今朝に仕留めた魔兎の肉を亜空間から取り出し、彼らの鼻先に置いてやる。万が一の時の非常食になるかも、と、収納しておいたが、魔獣の肉は、この世界の人達は基本的には口にしていない。なので、そんな万が一は来ないで欲しいと思っていたが、それで腐らせるくらいならこの狼たちの食事になる方が良いだろう。

 子狼たちは目の前に置かれた肉の匂いを嗅ぐと、母狼に向かってキャンと吠えた。

 母狼はまたうっすらと目を開けて目の前の肉を確認し、軽く鼻をひくつかせると、小さく呻る。

 すると、子狼たちは恐る恐るといった様子で歯を立てた。一連の流れを見ると、やはり意思の疎通が成されているように見える。

 噛みつき、前足で押さえて、噛みちぎる。そんな様子は、まだ小さくとも狼なのだと思える。だが、噛みちぎる肉の量は小さく、また、噛みながら口からこぼしてしまったりといった様子は幼気いたいけで微笑ましい。

 空腹だったのだろう、子狼たちは悪戦苦闘しながらも一心不乱に肉にかぶりつく。そして二匹で魔兎の肉をなんとか半分ほど食べると、そこでピタリと食事をやめ、まろび出た内臓を前足で器用に母狼の口先へ寄せていく。

 母狼は匂いでそれを確認すると、伏せたままそれに噛みつき、ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。そしてゆっくりとしたペースのまま、二口、三口と食事を進めた。

(ものを食べる元気があれば、ひとまずは大丈夫かな……)

 そう思いつつ俺は、一つ思いついて、彼らのために洞窟を変化させる力を試すことにした。

 俺がこの洞窟に干渉できるなら、動けない様子の母狼のすぐそばに窪みを作り、そこに魔法で飲み水を集めてやろうと思ったのだ。

 地面に手を当ててイメージすると、すぐに変化は起こった。

 俺がイメージしたとおりの場所の地面が、中心から周囲へ押しのけられるように、音もなく動く。そしてあっという間に窪みは完成した。ただ、土や岩の量が減るわけではないため、窪んだ分だけ周囲の淵が少し盛り上がり、土手のようになっている点は、イメージとは違ったが。ただこれも、土砂を亜空間へ収納するようにすれば解決できる問題だという“手応え”はある。

 ともあれ、できるだろう、と感じていたことが、ちゃんとできた、という結果には満足する。こんなことができてしまった、という驚きや不安も無いわけではないのだが、それはどこか希薄だ。

 余談だが、窪みを作る際に、急にへこんだ地面に驚いた子狼たちがぴょいんと飛び退く姿には、ほっこりした。

 子狼が距離を取ったのを良いことに、窪みを母狼が水浴びできそうなくらいまでに広げたが、外が雨のせいか、大気中の水分を集める魔法で、窪みはすぐに水で満たされた。もちろん窪みは、子狼が間違って落ちても溺れないくらいの深さにする配慮はしてある。

 俺のしたことを理解しているのかいないのか、まず母狼が警戒する様子もなく、窪みへ首を伸ばすように前傾して、水を数度、舐め取った。その姿を見た子狼たちも、窪みに飛び込まんばかりの勢いで近づき、水を飲み始めた。

 その結果に満足した俺は、彼らから離れた場所に腰を落ち着け、まずは自分の夕食の準備に取りかかることにした。


「便利すぎるだろ……」

 魔法関数でも同じようなことはできるのだろう。だが、思わずそう言ちてしまうくらい、自分の意思がダイレクトに魔法的現象を起こす感覚は、何というか、感動的ですらある。この魔素溜まり領域に意のままに干渉できる力、繰り返し使うにつれ、そのとんでもなさを改めて認識すると同時、その力に溺れないようにせねば、と自分を戒めるほどだ。

 とはいえ、今、その力でやったことといえば、調理のために簡易かまどをポンと作ったり、この空間の四隅に空気穴を作ったり、通路との入り口にスライド式の扉を作ったくらいだ(それをあっという間にやれてしまうのが凄いわけだが)。

 空気穴が雨の降っている外と繋がったためか、空気が少しひんやりしたようなのでちょっと心配したが、狼たちが寒がるような様子はなかった。今は血で汚れた場所から少し離れたところで、三匹が身を寄せ合って、眠っているようだ。

 俺も寒さを感じたわけではなかったが、なんとなく、温かいものが食べたくなって、ちょっとした鍋料理のようなスープを作って、ちょっぴり侘しく食べた。

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