21.アクセス

 ヴェルアを発ってしばらく経つ。地球の地図に当てはめれば、もうイタリアの国境を越えただろうか。実際は国境なんて目に見えないので測りようもないし、そもそもここが地球である保証もないので、考えても仕方ない、と思ってはいるのだが。

 ヴェルアの東は、ウジーニという街を最後にしばらくは大きめの街は無いが、代わりに道の側には簡素な『宿』が点在しているという。まあ、宿といっても、雨風をしのげるだけの小屋みたいなもののようだが。

 よう、というのは、まだ俺はその実物に出くわしていないためだ。

 今朝にウジーニの東にある村落を発ってから、もうかなり歩いたはずだが、まだそれらしき建物は見当たらない。歩いた時間が曖昧なのは、出立してから少しして、空が厚い雲に覆われだしたからだ。

 そして、その雲は今、黒みを増して、今にも雨を降らせそうだった。

 ここまでの途上も順調、とは言えない。はぐれたのか、そういう習性なのか、一匹でうろついていた魔獣に出くわすハプニングがあったからだ――。


 その、ゲームで見たような、頭から角を突き出した兎の魔獣は、道の外れ、俺の腰近くまでの高さのある草むらの中を徘徊していた。

 俺が、草むらから少し飛び出して動くそれを、角だろうか、と認識するのと、その魔兎が俺に気付いたのはほぼ同時で、魔兎は即座にまだ百メートル近くはあった距離を、あっという間に詰めてきた。

 次の一飛びで、あの角は俺の喉元に届く、という恐怖を覚えるのと、魔兎がその最後の一飛びをするのはほぼ同時、俺は反射的に手に持った棒を力一杯に横薙ぎにした。その一振りは魔兎の角を横殴りにし、魔兎は空中でその軌道を変えて、俺のすぐ脇を抜けて後方へ落ちた。

 道の上にドサリと落ちた魔兎は起き上がることはなく、その身体を横たえたまま、しばらく痙攣させると、やがて動かなくなった。

 慎重に近づいて棒でつつくも、反応は無い。頭部に衝撃を与えたはずなので、脳震盪も疑ったが、どうやら死亡しているようだった。

「角が、急所だったのか……?」

 角は先端から三分の一ほどで折れ、そこから血であろう赤い液体が垂れだしている。血流があるということは生え替わる類いの角ではないということだろうか? ――まあ俺も、角のある生物の生態に詳しいわけではないので、奈良の鹿の角を切り落とす映像で血が流れていなかった記憶からの推測でしかないのだが。

 しかし、もし、魔獣を見た目で魔獣たらしめている部位が急所であるなら、それはルーメンでは習わなかった重要な発見になる。ただ、これも素人考えではあるが、頭部先端に強い力を受けたことで、脳に損傷を負ったり、首の骨を折った可能性もあるだろう。この魔獣の死因が特定できないのでは断言もできない。

「検証したいが……検証する機会は、できればもう訪れて欲しくないな……」

 心臓はまだバクバクいっている。咄嗟だと、外套に焼き付けた魔法陣の事なんて完全に頭から抜けていた。今回は上手く棒がヒットしてくれたから良いものの、あまり良い対処だったとは言えないかも知れないと反省した。

 

 ――というようなことがあったわけだが、魔兎の死亡確認も兼ねた魔法での毛抜きと血抜きはあっという間に終わったし、それほど時間を取られたわけではない。

 なので、体感では結構な距離を歩いたはずだとは思うのだが、あるいはそのハプニングでの精神的な負荷が体感自体を狂わせている、という可能性もなきにしもあらず、なのだろうか。

 前方の見通しは悪くないので、少なくとも今見える範囲にそれらしき建物はまだ無い。見つけるには、まだまだ歩く必要がありそうだ。しっかり整備されているわけではないとはいえ、“道”になっている以上、人通りはあるのだろうから、このまま進めばいずれは見つかるはずだが。

 ただ、外套はブーツ同様、元々濡れにくいが、その上、エンチャント『運動方向反転』のおかげで雨に濡れる心配はほとんど無い。だが、フードをかぶっても顔面部分は覆えないので、できれば雨に降られたくはない。その前に見つけられるかどうか。

 今歩いている道の右手側は、遠くに森が見えている。そこならある程度雨はしのげるかも知れないが、魔獣のみならず魔虫のテリトリィに触れる心配がある。左手側は、緩やかに下った先に小川が流れていて、その向こう岸、緩やかに上った先は切り立った崖が続いている。

 流石にあちら側には雨をしのげる場所はなさそうか――と思った矢先、崖の側面にぽっかりと開いた穴が目に入った。

 自然にできた洞窟だろうか? もしかしたら、魔獣の住処になっているかも知れない。だが、雨を避けるにはもってこいだろう。

 そんなことを考えると同時、鼻先に冷たい感触が。

「思ったそばから……」

 雨はまだ弱いが、弱すぎると逆に『運動方向反転』が反応しない可能性もあるから悩ましい。

 ――例え危険があったとしても、全周囲が危険な可能性のある森よりはマシだろう。そう判断して、急いで小川の狭い部分を見つけて渡り、洞窟を目指した。


 近づいてみると、洞窟の入り口は左右が柱で支えられていて、人工物であると窺える。

 なんとなく覚えのある雰囲気だと感じるが、すぐには思い至らない。

 耳を澄ませても、奥から物音などは聞こえない。降り出した雨はさらさらと静かなもので、さほど聴覚の障害にはなっていないはず。

「『ライト(ハイビーム)』」

 もし魔獣がいた場合に刺激するのが恐かったが、思い切って洞窟の中を照らす。壁面は剥き出しの岩壁が凹凸を作っていて、入り口ほど手の込んだものではないようだ。天然の洞窟を、誰かが入り口だけ整備したのだろうか? 地面は壁や天井に比べれば比較的凹凸が目立たない気はするが、人の手が入っていると断言できるほど明確なものではない。ほぼ真っ直ぐ百メートルほども進んだ突き当たりは、道が左へカーブしていて、そこから先は見通せない。若干上り勾配に見えるが、それも目の錯覚ではないとは断言できない。とりあえず懸念した魔獣の危険は無さそうだが……。

 そのまましばらく待っても、奥から異常は見られない。いくら優しく降る雨とはいえ、そろそろ顔面の湿りも気になってきた。

「ええい、ままよ」

 ちょっと言ってみたかった台詞を敢えて口にして、中に入ってみることにする。

 天井は高く、五メートルほどはあるだろうか。最初の地下道を思い出す――と同時に、先ほど感じた覚えのある雰囲気の正体もそれであると気付く。見た目ではなく、何というか、空気感のようなもの、それが似ている感じ。それは本当に漠然としたフィーリングでしかないのだけれど。

 ここも遺跡なのだろうか? 中はともかく、入り口は人の手が入っているようなので、その可能性はありそうだ。

 とりあえず、洞窟の奥が左へカーブしているので、少しでも先が見通せるように右側に寄る。

 そして、そっと壁に手を触れた時、それは起こった。


 ――自分の“座標”を見失った。言葉にするなら、そんな感覚。

 先ほどまで存在した場所を視認しながら、他の場所を視ている。

 浮いている、沈んでいる。

 落ちている、飛んでいる。

 前進しながら、後退している。

 あるいは、ヒトがヒトの脳を持ったまま視覚だけをいたずらに拡張すればこんな感覚に陥るのではないか、という発想が掠め、消えて。

 間もなく、見えるもの、聞こえるもの、多種雑多の感じるもの、その流れが俺を飲み込んで、俺の中まで浸食してくる。その情報量はあまりにも有り余り持て余す。

 全身を、外から、内から震わせる、サウンドの、ノイズの、ミュージックの中に溺れながら、色彩を匂い、形状を味わう。

 それらを本当に感じているのかもわからないほどにオーヴァヒートした脳裡に、イメージや言葉の残像、その欠片。それらは、捕まえようとしても手のひらをすり抜ける。手のひらに微かな“感触”だけを残して。

 実在と虚在、それはどちらも“在る”のだ。

 箱の中の猫は誰かに観測されずとも、生きているし、死んでいる――。


 次に“自分”を認識した時、俺は膝をついて、肩を抱き、うずくまっていた。

 息が荒い。早鐘を撞く鼓動に合わせて側頭部に鈍痛がのしかかる。

 呼吸を深く、努めてそれだけを意識して、頭の中を暴れ回る“あらゆるもの”をやり過ごそうと試みる。

 ――じっ、と、そのまま、どれだけ居ただろう。

 ふいに、頭も身体も軽くなる感覚。呼吸も鼓動も、先ほどまでが嘘のように落ち着いた。

 立ち上がって、周囲を見れば、洞窟の入り口はすぐ後ろ、ついさっきまで居た場所に変わりない。

 先ほど、俺を飲み込んだ情報の奔流の中で、何か、閃き、あるいは、天啓、のようなものに触れた気がする。だけどそれは、起き抜けに、確かにそれを見ていた、という認識だけを残して、その内容を全く消し去ってしまった夢のように、まるで手応えが無い。

 代わりに、というわけでもないが、俺が知るはずの無い『認識(知識、とは感覚的に違うもの)』が、自分の中に存在するのを理解した。

 ――この遺跡らしき場所は、『魔素溜まり』だ。

 というか、人が、見つけた魔素溜まりを『遺跡』と呼んでいる、というべきか。

 グランが言っていた“魔の流れ”は、自然に、あるいは、人の無意識に引き寄せられて、世界の各所に“澱み”をつくる。それが『魔素溜まり』だ。

 そこは文字通り魔素が溜まっていて、濃い。それを、さっき俺が漠然と感じたように、人間はなんとなく感じ取るから、遺跡と呼んで区別する。

 多分、さっき俺は、この洞窟の壁を通じてその“濃い魔素”に触れることで、“魔の流れ”にも触れることになった。

 グランはこうも言っていた。「魔の流れから、知識を得た」と。だが俺はグランと違って“魔に親しい存在”ではないから、ただただその“魔の流れ”の情報量に翻弄されるばかりだったのだろう。

 ではなぜ、グランの居たあの場所ではなんともなかったのかといえば、これは理屈では無い“感触”でしかないのだが、あそこがグランの領域であったことが主な理由だろう。

 ここは誰の領域でも無く、そして加えるなら、ここが誰の意志も介在しない自然の魔素溜まりだからこそ、俺はふいにそれと“接触”してしまうことになったのだろう。……あるいは、グランの言っていた『権限』というものを、俺が持っているからこそ、なのかも知れないが。

 結果、無防備に翻弄された。

 とはいえ、それでもこうして、無かったはずの理解を僅かながら得てもいる。


 ――そして、もう一つ。

 これは、新たに得たのか、それとも、元々あったものに気付いただけなのかは、判らない。だが“それをできるだろう”という手応えのような感覚を、今はどうしてだか感じている。


 何をできるのか――そう、もしかしたら俺は、この洞窟を、『ダンジョン』にすることができるかも知れない。

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