19.海鮮

 ボーナを出るにあたり、俺はただ漠然と“東”を目指すのではなく、ここで名前を聞いた『トキヤ』をまずは目指すことにした。

 エヴァルドに聞いた『エラッサ』を目指すことも考えたのだが、どうやら、東へ渡れる船が出ているのはその場所とはまた別のようだ。不確かなものを当てにするわけにもいかないし、別の理由もあって、それは諦めた。なので、ボーナから東の海(アティム・マレと呼ばれている)に沿ってまずは北、次いで東に向かう。その後は海沿いに南進するルートではなく、ルーメンで見た地図を信じてそのままずっと東、地球でいえば黒海に該当するであろうところへ向かうルートを選んだ。

 ちなみに、この世界にも船はあり、漁業や貿易も行われてはいる。だが、この世界特有の大きな問題として『魔魚』の存在がある。これも魔獣同様、人に対して攻撃的な傾向が強く、漁業や海路を使った交易が、行われてはいても盛んというほどにはならない、その大きな障害になっているようだ。

 さらに余談になるが、この世界には『魔虫』も存在するのだが、これはなぜか人からは遠ざかる性質があるそうだ。実際、俺はまだ見たことがない(普通の虫は見かけるが、改めて考えるとその頻度は少ない気がする)。ただし、縄張りを荒らす存在であれば、ヒトや動物、魔獣などの区別無く攻撃的に豹変する種もいるのだという。

 ――話を戻せば、例えエラッサからトキヤへ船が出ていたとしても、魔魚なんてものに襲われる可能性を考えれば、一緒に乗せてもらう勇気は俺には無かった。

 外套などには陸路で魔獣に襲われるリスクを考慮してのエンチャントを施してあるが、そのままではさすがに海の中では無力だろう。改めて水中用のエンチャントを考えようにも、水の中で安全を確保する方法というものにいまいちイメージが湧かない。例え魔法で安全を確保できたところで、水中の魔素含有量も分からないので、どうしたって魔素切れ、つまり魔法やエンチャント効果の消失の恐怖につきまとわれる。

 別に俺はこの世界で冒険がしたいわけじゃない。いや、冒険をするにしたって、安全マージンあればこそだ。


 ――というのが、ボーナや、その東のリューヴェという海沿いの村で、海についてのあれこれを教えてもらった俺の考えと、ルート決定の理由になる。


 そんなわけで、リューヴェから海沿いに北上すること五日。ようやく大きめの街であるヴェルアに到着した。

 このヴェルアの辺りから北上を続けてきた海岸線は東へ向かうようなので、地球に当てはめればヴェネツィアの辺りになるのかも知れない。だが、地中海全体の海面が上昇しているのなら『水の都』が無事であるとは考えにくい。……まあ、地球に当てはめれば地形をイメージしやすいのでこんな考えをしているだけで、今はもう、わざわざ事実関係を探求しようとまでは思わない。もし、このヴェルアに某マンガ・アニメ作品で見たような“ヴェネツィア的光景”の片鱗でもあれば、好奇心は抑えられないのだろうけど。

 ――などと、実は心の中でちょっとだけ期待していたような光景は、しかし、見られることはやっぱりなくて。

 街の中を歩けば、やはり長閑な田舎町といった風情。長屋風の、部屋がいくつか繋がっている建物はあっても、建物同士自体の距離は開いていて、土地にはスペースが多い。この辺りはやはり、どこも魔獣被害というものを考えてのもので、どうしても似通ってしまうのかも知れない。

 ただ、このヴェルアは海に面している。そちらの方へ足を向ければ、やはり今までとは(同じ海沿いの小さな集落とも)違う光景が見られた。

 小高い通りから見下ろすと、海の上に堤防――いや、それはもう城壁というべきか――が、大きく迫り出していて、入り江の“出入り口”を守護するように限定しているのが見えた。

 入り江にはいくつかの桟橋があり、小型の船舶が着けている。小型、といっても、日本で言う小型漁船ほどのサイズだが。

 その船舶のほとんどは帆船だが、一隻だけ、風変わりな船体が目を引いた。

 その船は、土台となる部分こそ他の船と大差ないが、帆が見当たらず、かといって、オールやパドルで進むとも考えにくい。船首の方に操舵室と思われる、大きな窓で視界を確保した小部屋があるためだ。

 ――もしかしたら、ここでは魔道具動力の船舶が実用化されているのだろうか?

 とも思ったが、それにしては変わっているのはあの一隻だけで、あるいは実験機のようなものなのかも知れない。

 と、そんな思考を即座に中断させるものがあった。それは、鼻腔に届いた芳ばしい海鮮系の香りだ。

 見れば、すぐ近くに食事処があり、テラス席がそこそこ賑わっている。

 そんなに腹が減っている自覚は無かったが、この匂いに刺激され、無性に腹が減っている気分になった。思えば、海沿いでも小さな集落では海鮮系の食材を口にしていない。ルーメンでも、干した貝や淡水魚はたまに口にしていたが、海の幸、と呼べるものはほとんど食べた記憶が無い。

 そう考えると余計に食べたくなるのは、俺の中に息づく、島国で連綿と受け継がれてきたDNAのせいだろうか。

 ともあれ、珍しい船のことなど既に頭から抜け落ちた俺は、気付けば入り口でもらった木簡のようなもの(これを提示することで、滞在中に食事などを融通してもらえる)を握りしめ、食事処の看板に引き寄せられていた。


 で、エビである。

 目の前の皿に乗るのは、俺が一度だけ食べたことのある伊勢エビにも負けない存在感を放つ、真ん中から開かれて並ぶ、でかいエビだ。ここの主人は「ロクスタ」と言っていたが、もしかしたら“ロブスタ”だろうか。

 少し焦げた殻から立ち上っているであろう強烈なエビ的アロマが、上にかけられた、元の世界で言えばジェノベーゼ的なものだろうか、バジルかどうかは判らないが、そのソースの爽やかな香草のセントと合わさり、極上のデリシャススメルとなって、唾液の分泌を猛烈に促している。

 おざなりに「いただきます」と口にして、早速エビの身にフォークを突き立てる。殻の中の身は既に一口大に切り分けられていて、カトラリィはフォーク一つで足りる。作り手側の、こういう一手間、こういう心遣いが、嬉しいじゃないか。

 木製のフォークから伝わる抵抗感、その弾力に期待を膨らませつつ、口へと運ぶ。

 熱いエビの身とひんやりとしたソース、噛みしめた先からじゅわりと口内に広がる旨味と鼻に抜ける爽やかな香り、それらのコントラストは、しかし、確かな一体感を以て脳に幸福感を運ぶ。

「海老ってこんなに美味いもんだったか……?」

 久しぶりに食べたということもあるのだろう、しかし、思わずそう呟いてしまうくらい、美味いと感じた。

 旨味の余韻残る口に、ゴブレットの中身を含む。ドライな口当たりの白ワインだった。俺は、酒は酒単品で食前酒や食後酒として楽しむのが好きだが、これは悪くない。主人の勧めるに任せたが、流石、と言うべきだろう。……そして昼間っからアルコールを嗜む背徳感よ。

「さて……」

 陶器製のゴブレットをそっとテーブルに戻して呟く。

 気付いていたさ。二つに分かれたエビ、もう片方も同じようにグリーンのソースが掛かっているが、違いがある。ソースの下、殻の脇からとろりと零れ落ちるそれは……チーズですか? チーズですね。だってこっちの人たち、チーズ好きだもん。

(ムッ……!?)

 口に含んで気付く。当然、チーズが加わったことで、より贅沢な旨味が口の中に広がるわけだが、それをくどいと感じさせないこのソース、さっきと違うぞ……?

 チーズが加わって感じ方が変わった? ……いや、チーズ抜きの方よりもソース自体の塩みが抑えられている……?

 ソースだけで比べたらその差は明確だった。チーズの上に掛けられた方はよりあっさりしている。塩の量だけでなく、使っている材料からして違うのだろう。ぱっと見、同じように見えるソース、だが、わざわざ変えているのだ。

 商売とは違う、これは善意で提供されている食事だ。なのにこれだけの手間を掛ける、その自分の仕事に対するこだわり、誇り。それを誇示するでもなく、これだけのレベルの食事を何気なく提供するここの主人のような人間こそ、真のプロフェッショナルと呼ぶべきではなかろうか。

 自分も、分野こそ全然違えど、“作り手”の端くれとして、心から頭が下がる。やはり敬意というものは然るべき行いに対して自然と生まれるものなのだ――なんて感動を覚えると同時、だが心にわずか、痛みのような感情が走る。

 それは本当に僅かで、しっかり確かめることはできなかったけれど。きっとそれは、俺はあちらで、そう思われるだけのものを残せたのだろうか、という、郷愁めいた感傷なのだろう。

 ――俺はこちらで、何ができるだろう? ……何を、残せるのだろう?


「やぁ、ありがとう」

 殻に残った旨味エキスを吸い込ませたバゲットを、感傷と共に飲み込んで一息吐く俺に、主人がそう話しかけてきた。

「ありがとうは、俺があなたに言う言葉だ。とても、おいしかった」

「ハッハッ! その言葉は、あなたの表情がもうたくさん言ってくれたよ。だから私も、ありがとう」

 最後の「グラティアス」と同時にバチコーンとウインクを決める。いかにもヨーロッパ系の伊達男といった外見にはそういった仕草も様になっている。

 彼の名はクレトというそうだ。この辺りの人たちは彼の料理に慣れてしまっていて、俺のリアクションが新鮮で嬉しかったらしい。

「この辺りに住む人は毎日こんな美味いものを食っているのか?」

「いやいや、あれほど良いロクスタは偶にしか出ないさ。近頃、若いヤツらがもっと獲れるようにしようと、色々やっているようだがね」

 ゆったりと、そんな話をしていると、にわかに堤防の方がざわめきだした。何事かと、周囲でまったりしていた人たちも何人か、そちらへ向かう。

 ほどなく「襲われている」という物騒な言葉がそちらから聞こえてくると、俺はクレトと顔を見合わせ、急いで堤防の方へ向かった。

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