8.魔獣というもの
俺にとって、夜中に目が覚めることはさほど珍しいことでもない。よほど強い尿意でもない限り、そのまま目を閉じればすぐにまた眠りに落ちると経験的に知っている。改めて考えると、こちらに来てからはあまり無いことではあるが。
だけどこの日は、ただ漠然と感じる、不安、というには弱い、“そわそわする感じ”のせいで、なんだか寝付けそうになかった。
ベッドに腰掛ける形に身を起こす。すっかり見慣れてしまった部屋におかしな所は無い。窓から射し込む月の光に、逆に際立つ夜の闇。同じように、夜の静寂を際立たせる環境音――のはずだが、その中に違和感を感じた。
「……牛の声?」
外に繋がるドアを開いて、ようやくそうだろうかと聞き取れた。違和感の正体はこれだろう。見れば、牧場のほうに、小さく灯りが点っている。
牛に何かあったのだろうか? ――それが、俺が今まで気付かなかっただけで良くあることなのか、それとも稀なことなのかは分からない。ただ、こうして気付いてしまえば、気になってしまう。
寝間着、といっても、サイズに余裕のある普段着を融通してもらっただけのものなのを良いことに、着の身着のまま灯りの点った牛舎の方へ向かうことにした。
「ブルーノか。何か問題が起こったのか?」
「ん? おお、サムか。こいつらが怯えているんだ」
決まった仕事のあるわけではない俺たちは、農作業のみならず、畜産業の手伝いに駆り出されることもある。ブルーノは肉牛の責任者のような立場の男で、何度も世話になっている。ちなみに、彼に限らず、ここルーメンの人たちは、俺のことを「サム」と呼ぶことが多い。「オサム」という発音が難しいのか、それとも親しみを込めてそう呼んでくれるのか、俺には判断がつかないが。
「怯えて……? 何に?」
「たぶん、何らかの魔獣だろう」
「魔獣……近いのか?」
「いつもよりは。だが、ここまでは来ないだろう」
「そうか……」
そもそもルーメンという都市が、この大農場や大牧場を守るように囲う形で広がっていったのなら、外からの魔獣は外周部で食い止められるのだろう。俺が五万人超という人口に対して広すぎると感じたルーメンの広さは、多分、東京都全域ほどとまでは行かずとも、区部くらいなら軽く越えていると思われる(終電を逃して歩いた時の経験からの推測のため信憑性は少々怪しいが)のだから。
それだけ広ければ、逆に魔獣の侵入を感知できないこともありそうなものだが、魔獣には、なぜか人の多いところに引き寄せられるという習性があるらしいので、それを逆手にとって、十分な備えをした上で、ある程度人が集まっている区域が外周部に点在している。そのため、中心部付近で暮らす俺たちは、幸いにも今まで魔獣の襲撃に遭ったことは無い。
それでも牛がこうも怯えているというのは、野生の勘、というヤツなのだろうか。それとも、今までとは違う状況が迫っているのだろうか?
「危険はないんだな?」
「絶対ではない。一応“得物”は手元に置いておけ」
不安から、つい尋ねてしまったが、今まで安全だったからこれからもそうだという保証なんて無い、というのは当然のことだろう。詮無いことを聞いたと反省する。
ちなみに、ブルーノは「相棒」といった意味合いの言葉を使ったが、この場合は「得物」という解釈で間違いないだろう。
――まあ、得物、なんてカッコよく言ってはみても、所詮は素人の手習いに毛が生えた程度だが。子供たちと一緒に学校で習った武器の扱いも、まずは身を守るため、逃げる隙を作るため、そういう訓練だ。子供は十歳を超えて魔法を習って、それから本格的に身に合った武器の習熟を始める。俺たちは彼らより体格が良いから多少は形になっているように見えるだけで、武器の扱いそのものに優れているわけではない。
俺はといえば、いろいろ試して、結局『棒』を訓練している。剣や棍棒のようなリーチの短い武器で魔獣なんてものの懐に飛び込む勇気は無いし、槍のように刃物付きだと、健康診断で採血された時、自分の腕から血が抜かれるのを見ただけで気が遠くなりかけた俺には、とても扱える気がしなかった。……そんわけでまあ、棒を使う俺にとってはまさに『相“棒”』だけどな、なんて思いついたのだが、そのしょうもなさにほんのちょっぴり落ち込みつつ、部屋への道を戻った夜だった。
翌朝。学校のない日なので、朝からぷらぷらと歩いていると、一人の女性に声を掛けられた。
ジーナと名乗ったその女性は、別に俺を逆ナンしたわけではなく、物資の運搬に男手が欲しい、とのことだった。
何の物資かと聞けば、昨夜、魔獣に壊された『槍壁』を直すための木材や、けが人の治療に使った資材の補充だ、というので、昨夜のことが気になっていた俺は二つ返事で協力することにした。
槍壁、といっても、こちらの言葉をそのまま日本語にすればそんな感じというだけで、実際は逆茂木というか乱杭というか、魔獣の足止めのために尖った枝や尖らせた杭を外に向けて設置するものだ。
そのための木材を積んだ荷車を引きながら、ジーナたちの後ろを小一時間ほどえっちらおっちらと歩いて、ようやく現場に到着した。
土を積んだ一メートル強の高さの壁が二カ所崩れている。その厚さも一メートルほどはありそうだが、昨夜、イノシシの魔獣の突進によって破壊されたのだという。
壁の内側には先述の『槍壁』が並ぶ五十メートルほどの空間があるが、壁の崩れた部分から一直線にその槍壁が薙ぎ倒された跡が見える。その一方は中ほどで突撃が止まったのだろう、そこまでの蹂躙の跡に引かれた線の原因になった、黒い血だまりだろう跡が残されている。そしてもう一方は完全に槍壁地帯を抜けて、その先の石垣も破壊して、倉庫として使われていた建物の壁に開いた穴の中へ、点々と血の跡を続かせている。
この破壊の跡は、たった三頭の魔獣によって作られたという。
夜中の襲撃、そして、二頭が槍壁地帯を強行突破し、もう一頭がその跡を駆ける。それが本能的な行動の結果なのか、知性を以て行ったことなのかはここの人たちにも解らないという。だが、どちらにせよ、倉庫に侵入されてしまったことで、魔法による牽制が行いづらくなり、結果、死者二名、重軽傷七名という被害を生んだ。道を作った二頭は脅威ではなかった。一頭は途中で力尽き、もう一頭も倉庫の手前、石垣を破壊した辺りで力尽きたという。この人的被害は、残りの一頭、それも足に軽傷を負っていたはずの一頭だけによるものだという。
「あの中を見ることはできるか?」
この時、俺にそう言わせたのは、ただ小さな好奇心でしかなかった。
開けっぱなしになっていた入り口に足を踏み入れて、まず、ムッ、と鼻につく、甘酸っぱい匂い。そしてその中に、不快な金属臭が混じる。
高さはさほどでもないが、面積は学校の体育館ほどもある倉庫の、半面はめちゃくちゃになっていて、もう半分も全くの無事ではない。めちゃくちゃになっている方の地面には果物の果汁だろう様々な色合いのシミが広がり、これが甘酸っぱい匂いの原因だろう。
その奥に広がる、異質でひときわ大きな赤黒いシミ。それは、先ほど外で遠目に見た魔獣の血痕と大きく変わるわけではない。だが、臭いというものの持つ力せいか、それは俺に、理屈ではない、身体の芯を凍えさせるような戦慄を直感させた。
――これが、魔獣の脅威なのか。
そんな、感情というか、感覚というか、ただ実感として、そう感じた。
こちらの学校では、魔獣とは普通の野生動物が『魔』によって変質・変態したもので、特に人に対してより攻撃的な姿勢を見せるため、大変危険な存在である、と習った。
野生動物だって危険なことは、日本でも熊などの被害のニュースで知っているつもりだったし、それより危険な魔獣だって、ここで子供たちに教えている護身術の内容がかなり本格的な事からも、それほどに危険なのだと解ったつもりでいた。
でも、足りなかった。今、この現場に立って、心からそう思う。
魔獣の死骸はすでに処理されて、ここに残されているのは、それの暴れた痕跡だけだ。だのに、俺は震えが来るほどの恐怖を覚えた。
同時に、俺たちは“内側”で、守られていたのだと思い知った。甘えているつもりはなかったし、ここの人たちだって俺たちを甘やかしているつもりなんてないだろう。でも、知らないままでいたことが、すでに甘えであったのではないかと、この惨状を前にして思う。
こちらに来てからの生活で、俺は人生の中で一番健康的なんじゃないかと思うくらい体力が付いたつもりでいたし、それ自体はたぶん事実ではある。だけど、そこで満足していい世界じゃないと、俺は改めて危機感を心に刻んだ。
この現場を見たことはショッキングではあったけれど、自分にこういった心境の変化があったことは、これからのことを考えれば良かったのだろう。いや、自分のこれからの行いで、良かったと思える未来にしなければ、と思う。
その後、俺は帰り道を、空になった荷車を引きながら、駆けた。何か、焦燥感のようなものが、そうさせたのだろう。
そして翌日、こちらに来てからすぐの頃ぶりの筋肉痛に悶絶した。
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