6.『神話』

 神話の話をしよう。


 ――かつて、この“惑星ほし”には、高度に発展した文明が存在した。

 油を燃やし、雷を利用し、さらには物質のあり方さえねじ曲げて生み出した力を使い、その自然への不条理から目を背け、人が理想とする多くのことを現実とした。

 人や物は空を飛ぶ“機械”で世界を巡り、情報は地や海に編み目のように敷き詰められた“回線”を伝って世界中に広がった。

 地から掘り起こした資源を、そして“宇宙”から持ち帰った資源すら利用して豊かさを求め、地上は物質と情報で飽和していった。

 人が努力によって発達させた技術は、しかし、人をその営みの多くを機械に頼り、任せ、依存させ、飽和への埋没へと堕させた。

 一方その技術は、大地と宇宙を直接繋ぐ“昇降機”すら生み出す。

 その、旧世界の神話において神の不興を買った塔を思わせる昇降機が、この地球に十を数えるようになって間もなく、神は再びその怒りを人類へと向けた。

 神は天空から、大地を降らせた。

 無から突如として生じたそれは、初めの塔を砕き、大洋へと落ちた。

 大洋はその神の怒りから逃げるように世界中へと大洪水となって広がり、世界の形すら変え、多くの犠牲者を生んだ。

 だが、神の下した罰は、それに止まらなかった。神は、落ちる大地に『マーギ』を運ばせていたのだ。

 『魔』は、瞬く間に世界中に広がり、そして神の怒りを買った夥しい人々を、病という形で苦しませ、殺した。

 さらに『魔』は、人間以外の生物の形すらゆがめ、人を襲わせ、殺した。

 あまりにも数を減らしすぎた人類は、機械に依存してもなお、その社会を維持することが叶わなかった。

 社会性を失った人間の中には愚かにもその理性すら手放す者が現れ、それは欲望のままにふるまい、さらに社会を破壊した。

 人類はただ滅びへ向かうものと思われた。だが、神が与えた『魔』は、ただ人を罰するだけのものではなかった。

 『魔』は、正しき人には『魔法』をもたらしたのだ。

 正しき人の想いを、願いを、祈りを、『魔』は、現実のものとした。

 それまでにない力を得た正しき人類は、存亡の際を踏みとどまった。

 だが、滅亡の危機は完全に去ったわけではなかった。

 ゆえに、その力を使い、物質の根源を、それまでの汚染を生む誤った形ではなく、『魔法』を使った正しい形で安定的に力に変え、宇宙の遙かへ漕ぎ出す動力を得た。

 正しき人々は、より正しき人、汚れなき生物たちを、その種の存続のため、宇宙を渡る船に託し、見送った。

 地上に残った人々は神の許しを得るために生活の場を地下へと移し、やがて神はその想いに応え、地上を浄化した。

 再び美しさを取り戻した地上へと誘われた、正しき人たちの子孫、それが我々である。

 だが、神は見ている。

 我々がこの過去を戒めとしなければ、その怒りは今度こそ、この惑星すら砕くだろう。

 正しき人々の子孫である我々は、正しくあらねばならないのだ。それを決して、忘れてはならない――。


 ――以上が、このルーメンで学んだ、『神』を全知全能の唯一神として崇拝する宗派の教義を記した、聖書ならぬ『教書』、その序文の大まかな意訳だ(ちなみにこの後は、過去の過ちを繰り返さないために人はどう生きるべきか、という教えが続く)。

 ネイティヴの中でそれなりの時間を暮らし、かなり地元の語学は身につけたと自負しているが、原文には回りくどい言い回しなどもあって、必ずしも正確な訳ではない部分もあるかも知れない。だが、森本君もこの解釈でおおよそ問題ないと保証してくれているので、まず正しいものと思って良いだろう。

 別の宗派、例えば『太陽神』を始めとする多神教では、大地を降らせた神、大洪水を起こした神、病を蔓延させた神、のように別々の神の御業としていたり、もっとアニミズム的な宗派ではそれぞれを『精霊』によるものとしているような違いはあるが、起こったとされること自体は、ほとんど共通している。この共通しているという点がまず、これら神話が過去の事実を元にしているように思わせる。

 また、俺が驚いた点は、ここが『惑星』だという認識がいきなり語られたことだ。俺が思っていた『神話』というものは、もっと知識的に未開ゆえに理外の現象の説明に『神』という概念を頼りにするもの、だった。なのに、この文章からそんな印象は受けない。他にも“機械”とか“回線(ネットワーク)”とか、何というか、ここで語られている『高度な文明』が空想などではなく、現在と“地続き”になっている、とでもいう印象が、俺が感じた驚きの正体かも知れない。

 まあ何というか、技術的な面はともかく、知識面では俺たちの時代より大きく遅れている訳ではない、と考えたわけだ。そこに来て『旧世界の神話』のくだりなど、旧約聖書のバベル神話そのものを思わせる記述。他にも、核エネルギーを思わせる記述や、軌道エレベータや宇宙移民のようなSFめいた記述まである。“大地”が落ちてきた、という表現こそ荒唐無稽に感じるが、巨大隕石か何かの形状からそんな表現になったという考え方もできる。


 ――ならばここは、未来の地球なのではないか?


 この『神話』から得られる印象・情報から、そう思ったのは、やはり俺だけではなく、他の四人も同様だった。

 実は、そう思う根拠は他にもある。

 例えば、ここで使われている数字。『7』が頭に点をつけて『ウ』に近い表記だったりと、小さな差異こそ有るが、ほぼアラビア数字そのものだ。

 そして、文字。こちらも例を挙げると『d』が『ム』を水平反転させたような表記だったりするが、対応している文字が判れば、それはもうアルファベットそのものだった。

 暦もそうだ。偶数月が十二月を除いて三十一日、奇数月が三十日という少し違う形ではあるが、一年は十二ヶ月、三百六十五日で、閏年の概念もある(その場合は十二月が三十一日となる)。

 体感ではあるが、重力も地球と大きくは違わないだろう。なら、自分に詳しい知識がないからかも知れないが、この惑星のサイズが地球と変わらないのでは(ならば、地球そのものなのでは)? と推測するのは仕方ないだろう。

 文字や数字が地球と共通している、というだけなら、過去に俺たちのように移転してきた人間が広めたもの、なんていうのは、異世界ものではたまに見る設定かも知れない。だが、他の要素、特に、ここの神話が語る“旧文明”が、俺たちの生きていた世界(あるいはその未来)のようであるということ、それを考えれば、俺たちの身に起こったことが、ファンタジー的なものというよりは、SF的なものというほうが信じやすい。

 とはいえ、だ。

 ここは、『魔法』なんていう、極めてファンタジー的で“常識”では到底信じがたいものが、実際に存在するのだ。

 神話を信じるなら、それは世界の危機に際して突然現れたもので、逆に言えば、元々は無かったもの。それはやはり、ここが地球かも知れないことを示唆しているという見方もできる。だけど、ここが未来の地球であれ、並列世界の地球であれ、地球とは全く関係ない惑星であれ、そのどれでもない世界であれ。そんな、現実的ではない、だけど確かな今この現実は、俺たちにとってはただ『異世界』であることに違いはない――俺たち五人はいろいろと意見を出し合ったが、最後にはそんな結論で茶を濁した。

 ここがどこか、なんて、どれだけ考えたところで、真実なんて神ならぬ俺たちには知りようもないだし、よしんば知ったところで、今の俺たちの状況が劇的に好転するわけではないのだから。

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