最終話/第66話 シンの物語
彼女になったゆかりが予備試験に向けて勉強している姿を見る度、気持ちが引き締まった。俺は俺のやるべきことをやっていこうとパソコンの電源を入れ、カレンダーを確認する。
NPO法人設立のための勉強会の予定が定期的に入っており、それ以外の日は大学やバイト、更に合間を縫ってバンドの動画を作っていくという過密スケジュールだ。正直心の余裕は全然なかったが、その度に雄馬とカンキ君の楽しそうな笑顔が浮かんだ。
(彼らにとっての青春が、今、やっと来たんだ――――)
「……」
マウスを動かし、動画撮影の流れを再度確認する。既にバンドメンバー4人でスタジオレコーディングをしており、音源が出来ていたものの、そこから自分たちでミュージックビデオを作るのが想像以上に大変で、思わず溜め息を漏らす。ミュージックビデオを撮影するために屋上の撮影スタジオを借りて、撮影機材を用意する予定だ。撮影機材はレンタルすることで費用を抑える。先日、雄馬が、カメラマンはのだっち君に頼んだと言っていた。面白そうと、快く引き受けてくれたと言う。
(やれるとこまでやろう)
数日後の撮影を前に俺は意気込んだ。
***
撮影日当日の早朝、何故か私だけ君影君に呼び出された。彼に促されて、野田と表札が出ているアパートの一室に入った。
「シキセン、入って下さい」
玄関扉を開けたままの君影君に促されて、野田さん宅に入る。
「今から野田さんに会うのか?」
「いや、のだっちは今いないっす。後で合流します」
「え? 野田さんに、家に入る許可を取っているんだろうな? 住居侵入罪で捕まりたくないんだが」
「大丈夫っす。大丈夫っす」
「……」
不安を抱えながらリビングの扉を開けると、明るい茶髪のウェーブがかかったロングヘアの女性がいた。
「初めまして、シキセンですよね!」
その女性が大きな瞳を輝かせながら話しかけてきた。
「え……?? ……どちら様ですか?」
「私、君影雄馬の友達で、カリスマ美容師目指してるエレナです。本日はよろしくお願いします!」
「……あ、よろしくお願いします? えっと、君影君?」
「エレナ! シキセンをチャチャッとかっこよくしちゃって!」
「リョーカイ! センセ、どうぞ!」
「ええ?? は、はい……」
言われるがまま、部屋の真ん中に置かれた丸椅子に座る。俺の目の前のテーブルには大きな鏡が立てられていた。
「センセ、よく知らないけど新とか君影とか皆の恩人なんでしょ? 今日は張り切ってやらせてもらうからね! 失敗したらごめんね!」
「えぇ?? だ、大丈夫なんですか?」
「男の人のスタイリングは初めてですけど、ヨーチューブ見て来たんで多分!」
「えぇ……」
「じゃあ、お客様。本日はいかがいたしましょう?」
ふいに、エレナさんが俺の両肩に手を置いて、右肩越しに俺の顔を覗き込んできた。花のような香りがして、右頬に彼女の吐息が触れた。
私の中で時が止まる。長い一瞬の後、顔の表面温度が急激に上昇していく。
「ハハハハ!! シキセン、女慣れしてなさすぎだろ!! ウケる!」
「う、うるさい!!」
「え、ウソ。センセ、可愛いね」
「~~~~~!!」
恥ずかしさのあまり、余計に紅潮する。腹を抱えながら床で笑い転げている君影君を思いきり睨んだ。
「シキセン、医者ってモテまくるんじゃねーの?」
「私はそんなに……って何を言わせるんだ!!」
「あー。割と顔はイケてんのに、面白味ねーもんな」
「き……きみかげくん?」
奥歯を噛んでいると、エレナさんが私の顔を覗き込んで不思議そうに尋ねてきた。
「でも、センセの職場って女性多いですよね?」
(どうして、こう、この子といい、君影君といい、距離が近いんだ……!?)
とっさに顔を逸らしながら返答する。
「……仕事なので、そういう感じはないです」
「シキセン、今はそういう感じってことっすか?」
「っ! プライベートで会う女性は緊張するってこと!!」
「へぇ~。じゃあ、センセ。私で女慣れしてみます?」
「な!? お、大人をからかうのは止めなさい!」
彼女が悪戯っぽく笑いながらまた顔を近づけてきたので、両手で顔を隠した。
「あーあ。シキセン、顔隠しちゃダメっすよ」
「うるさい!」
「耳真っ赤なんで、意味ないす」
「……もう帰る」
「ハハハハ! ウケる」
「……ヤバい。結構好きかも」
「は?」
「え?」と思わず声が出た。
「何? エレナ。シキセン、タイプなの?」
「だって絶対誠実じゃん。アンタと違って」
「ハハ、ひっど。だそうですけど、シキセン?」
「……」
「あーあ。固まっちゃった」
その後の記憶はなく、気が付いたら私は撮影会場にいた。
***
撮影日当日、俺とカンキ君とのだっち君はレンタカーを借りて、先に撮影場所の屋上に入って準備をしていた。カンキ君は持ち込んだ電子ドラムをセットしながら空を仰ぎ、「ホンマ、晴れて良かったわ」と呟いた。
俺が喉の調整をしていると、げっそりした顔の先生がウルフヘアで現れた。
「ど、どうしたんすか、ふふ、先生!? 似合ってますけど!!」
俺は笑いを必死に堪えながら先生に尋ねた。
「あいつの友達にやってもらった」と、視線を動かした先にいたのは、先生の後から来た雄馬だった。
「よお、大丈夫そうだな」と雄馬が俺の前に来て、辺りを見渡しながら言った。
「うん、準備は。てか、先生の髪型って……」
「ああ! だってシキセンの髪型、ビジネス感あって、クッソつまんねーんだもん。エレナに頼んで、バンド仕様にしてもらったの!」
「クソつまんない……」
「せ、先生! 俺は先生の髪型いいと思いますよ! 知的で!」
「……ありがとう、新君」
「いや、でもエレナちゃん、凄いな。先生、その髪型も似合ってます。格好いいです!」
「はは。お世辞でも嬉しいよ」
「ええなあ。俺もエーちゃんにやってもらいたかったなぁ」とカンキ君がワックスもつけてない髪を弄った。
「かんちゃんはそのままでいいの!」
「そ、そお?」
「よっすよっす~」
遠くでカメラを弄っていたのだっち君が、いつもの挨拶と共にやってきた。
「あ、のだっち君」
初めての人物に戸惑っている先生に向かって、のだっち君は軽快な口調で話しかけた。
「初めましてぇ! どうも! 皆のカメラマン、のだっちです!」
「あ、野田さんって貴方でしたか。お部屋を貸して頂いて、ありがとうございました。本日はよろしくお願いします」
「よろしくっす~。髪、イケてますね!」
「はは。ありがとうございます」
「堅いっすよ、シキセン!」
「なんや、のだちゃんは相変わらずチャラいなあ~」
「かんちゃん、悪態つかない」
和やかな雰囲気の中で、俺は撮影前に改めてのだっち君にお礼を言いたい気分になった。
「のだっち君。改めてだけど、カメラマン、引き受けてくれてありがと! 撮影頼むよ!」
「あはは。いやー、断れないっしょ。焼肉奢ってくれるって言われたら」
「え? 初耳なんだけど」
嫌な予感がして、雄馬を見る。
「そんなこと言ったの? 雄馬」
「ああ。シキセン、よろしく!」
「な!? 私が奢るのか!?」
「いいじゃん、こん中で一番金持ってんだから」
「き、君ねえ……」
その後、青空の下、俺たちは無事撮影を終えた。浮かない顔の先生を引っ張って、レンタカーに乗り込むと、一回俺たちの自宅に帰り、楽器を置いてから、車を返した。
「もう帰りたい」という先生を連れて、打ち上げ会場である居酒屋に向かう。居酒屋に着くと、後から美夜子先輩とエレナちゃんと何故かジュリ姉さんとシズさんもやって来た。どうやら雄馬が連絡したらしい。
大人数の打ち上げに皆、はしゃいでいた。まるで、青春を取り戻すかのようにどんちゃん騒ぎをした。
先生だけ目が死んでいたが、俺がこっそりお金を渡そうとしたら断られた。
進む針を止めたくなるような、幸せな時間だった。
***
それからしばらくして、動画編集等を終えて、ようやくミュージックビデオが完成した。途中で何度も心が折れそうになったが、完成したミュージックビデオを見て、続けてきて良かったと涙が出てきた。動画の投稿は先生の休みの日に先生の家で行うことになった。
「せっかくの休みが君たちと……」と、先生がぼやく。
「最高じゃないすか! 皆でいた方が楽しいっすよ」とリビングのソファに座った雄馬がタンクトップ姿で酒を開けた。カンキ君もカーペットに座って、上半身裸でくつろいでいる。
ふいにスマホが振動した。見ると、熱中症の注意喚起のニュースが表示されている。それをスワイプで消してから、リビングテーブルの上のパソコンに向き直る。
先生がキッチンに行ってから、麦茶のペットボトルとグラスを持って来た。リビングテーブルから少し離れた2人掛けのダイニングテーブルに腰掛けて、グラスに入れた麦茶を一口飲んでから俺に声をかけた。
「……新君。病院から呼び出しがあったら、行かなきゃいけないから。その時は新君、戸締まり頼むぞ」
「はい」
「この二人に何か物を持ち帰らせるなよ?」
「ちょ、シキセン流石にひどいっすよ! 俺らアネ広にいたけど、盗みとか犯罪やったことはないっすよ!」
「そうや。せんせぇ、俺らは無実なんや」
「かんちゃん、その返しは逆にやってそう」
「そうかぁ?」
「と、とにかく二人とも、今からアップするからな。先生もそんな遠くで座ってないで、こっちに来てください」
「あ、ああ」
全員の見てる前で、タイトルやサムネイル画像等を入力して、完了ボタンを押す。
数秒後、アップロードが完了した。
雄馬とカンキ君の期待に満ちた顔を見ていると、かつて生きるので精一杯だった彼らが、今は趣味まで持って明るい表情をしていることに胸がいっぱいになった。隣にいる先生は、澄んだ湖のような瞳に穏やかな色をたたえていた。
俺たちは新しい
それを祝福するかのように、ちょうどカーテンの隙間から陽の光が差し込まれた。陽だまりの優しい音色が俺たちを包み、未来の先へと流れていった。
『シンの物語』 完
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