第64話 居場所
「もうすぐ11時になるっていうのに……ほんと東京は眠らない街だな」
窓辺に立った雄馬が、光をまぶした遠くのビル群と足元に広がる住宅街を見て呟いた。
「眠らない街って、アネ広こそ眠らないじゃん」
「あー。まぁ、そうだけど、オレはこっちの景色の方が好きだわ」
雄馬は窓から離れると、先生の前に腰を下ろした。胡坐をかいて表情を動かさずに先生を見つめている。
「な、なんだ。君影君」
「そういやシキセンって、下の名前なんて言うんすか?」
先生はむっとした表情をしてから「言いたくない」と返した。
「なんで!?」
「言いたくないからだ」
「はあ? 訳わかんね。シン、お前知ってる?」
「おい、新君。言うんじゃないぞ」
「え、でも先生、病院のホームページに下の名前出てますよね?」
「……」
「マジ? じゃあ、隠すことないじゃん」
「……君影君は何でそれを知りたいんだ」
「なんとなくっす。ゆくゆくはミヤセンみたいに、下の名前とセンで呼びたくて」
「……」
不機嫌そうに先生は口を結んだ。
雄馬は先生からの回答を諦め、俺に向き直った。
「シン! 何て言うの? そんな変わった名前なの?」
雄馬はワクワクした目で俺の返答を待っている。
「え、変わってないよ。……マコトですよね?」
先生を見ると、目をギュッとつむっていた。
「何だ、普通じゃん」
「……マコトじゃないんだ」
「え?」
大きな溜め息をついてから、先生は俺たちの顔を見た。
「お前ら、絶対笑わないって約束できるか?」
「モチのロンです!」
「君影君は信用できないな」
「なんでっすか!?」
「え、俺は笑いませんけど。人の名前で笑うとか、失礼じゃないですか」
「いや、君も笑うかもしれない」
「え?」
「もー、もったいぶってないで教えて下さいよ! シキセン!」
「絶対笑うなよ」
「笑わない、笑わない。はい、言って、言って!」
雄馬が手を叩いて
「
「ぶっ! ハハハハハ!! こりゃ傑作だ!!」
「おい!! 笑うなって言っただろ!!」
「ふ……ふふ……先生、マジですか……。まさかそっちじゃないと思ってました……」
「あ、ああ」と恥ずかしそうに先生は俯いた。
「おい、ミヤセン! かんちゃん起きろ! ココにシンが二人いるぞ!!」
「や、止めないか!!!」
ひとしきり笑った後、雄馬が未だ眠りこけている先輩とカンキ君を見て、先生に言った。
「まぁ、いいや。このこと、二人には黙っとくっすね」
「ああ、頼む。特に美夜子さんには知られたくない」
「あ、そういや、シキセン、バンドとか興味ある?」
先生は急に来た脈絡がない話題に驚いた顔をした。
「何だ、唐突に。一応、学生時代にバンドはやっていたが。もう何年も前の話だ」
「マジ? 何やってたんすか?」
「ベースだ」
「うお!? シン、ここにベースがいたぞ!!」
「マジすか、先生!!」
「何なんだ、一体」
「シキセン、オレ達のバンド入ってベースやってよ。オレ、バンド組んでヨーチューブに動画上げたいんだよね~。今から練習して3ヶ月後くらいにアップしてぇな。うん、そうしよう。ってことで、よろしく、シキセン!」
「お、おいおいおい! ちょっと待て! 俺には仕事があるんだぞ」
「先生、そこをなんとか、ベースの奴がいないんです。俺も今から練習とか無理だし」
「そ、シキセン、頼む。この通り!」
雄馬が頭を下げて、頭上で手を合わせた。
「……ところで、他のボーカル、ギター、ドラムは誰がやるんだ」
「こうなったら、シン、お前ボーカルな?」
「あ、ああ。分かった。歌うくらいなら何とかやれそうだし」
「ということで、ボーカルが今、シンに決まりました。ギターはオレっす」
「今決まったって……。しかも君影君がギター……」
「なんすか、そんな不安そうな顔しちゃって。オレ、割とできますよ。家で練習しまくってますから」
「……はぁ、君がギターか。そうか……」
先生は憂鬱な顔をして視線を落とした。
「あ、なんか嫌な思い出あります? ギターにオンナ取られたとか」
「ちょ! 雄馬」
「違う! 取られてない! 少し気になってた子がギターのチャラい奴を好きになっただけだ!」
先生は紅い顔を上げて、焦ったように訂正した。
「そ、それは……お気の毒に……」
「ハハハハ。なんかスイマセン」
「……バンドなんか入らない」
「ちょ、雄馬のせいで先生怒らせちゃったじゃん!」
「シキセン! イイ大人なんだから、これくらいスルーして下さいよ!」
「……そもそも、今日の飲み、私は無礼講を許してないんだけど」
ジト目の先生に俺が「すみません」と謝ると、後ろで「んあ~」という声が聞こえた。
「せんせぃ、ベースやるんでっか? ウチはせんせぃのベース見たいですぅ! 可愛い後輩のためや思うて、やってくれませんか?」
「あ、ミヤセン、起きてる」
振り向くと、先輩は真っ赤な顔でテーブルに寄りかかるようにして座っていた。
「それで、ドラムは美夜子さんか」
「いえ、ドラムはカンキ君です」
「……」
「オレが無理言って、かんちゃんにバンド、入ってもらったんすよ。結構ドラム上手いっすよ。ノるとキレ始めるのが面白いっす」
「……もう滅茶苦茶だな、君たちは」
頭を抱えた先生に、俺が畳み掛けて説得する。
「先生。とりあえず、バンドの動画出した後はもう一回自分たちでベース探すんで、1本目だけ付き合ってくれませんか?」
「そうっすよ! SNSでベース募集かけても、1本も動画出してない無名バンドなんかに誰も来てくんないんすよ。オレたちがまだ未熟ってのもあるんすけど」
先輩が身を乗り出して、先生の顔を覗き込んだ。
「み、美夜子さん?」
「せんせぃ、こいつらの人生に音楽っちゅう生きがいを与えてやりませんか? 特に、お兄ちゃんなんて酒とゲームの趣味しかないから、このままいったら廃人アンド肝硬変で早死にですわ。これは福祉ですよ、社会福祉」
「ハハハ! ミヤセン、ウケる!」
「先生、どうですか?」
先生は「う~」と頭を抱えて唸った後、「1回だけだぞ」と言った。
「おお! ありがとうございます!!」
「流石シキセン! 押せばイケると信じてたぜっ!」
「なんや、押しに弱い男ってのもええなぁ」
盛り上がっている俺らとは対照的に、先生は観念したように大きな溜め息をついた。
***
時刻が零時を過ぎた。帰るためにカンキ君を何度か起こそうとしたが、結局起きなかったため、先生の家に4人で泊まるしかないという話が出た。
「嘘だろ……。私の休みが……」
「すみません、先生。カンキ君、早く起きて」
カンキ君を揺するが、いびきをかいて全く起きる気配がない。
「……明日は朝から読書をする予定だったのに……」と、先生はげっそりした顔でカンキ君を見下ろしている。
「いいじゃないすか、本より人っすよ!」
「……君は本を読まなさそうだな」
「せんせぃ、この二人帰していいれすよ。お兄ちゃんの介護はウチがやるんで。ほら、二人、帰り~。ランデブーの邪魔なんや」
「え、マジすか。じゃ、お疲れ様でーす。シン、行こうぜ!」
スタッと立ち上がった雄馬を先生が慌てて引き留めた。
「お、おおおい! ちょっと待て!! 行くな!!」
結局、先生は諦めたようにクッションを幾つか持ってきた。先輩だけ、ソファで寝かせ、男性陣はクッションを敷いてカーペットの上で雑魚寝をすることになった。
1時を過ぎた頃、雄馬が疲れたと言って寝転んだ後、座っている先生に話しかけた。
「シキセン、ベッドで寝てきていいすよ~」
「……いや、この状況で私だけベッドに行けないだろ」
「オレらは大丈夫すから。若いんで」
「君ねぇ……」
「そういや、シキセン、何歳なんすか?」
「……アラサーとだけ」
「それ、30超えてるやつっすね。29までなら20代って言い張りますから」
「……新君、そろそろキレていいかな?」
「いいと思います」
「ちょ、何言ってんの、シン!」
「先生からかっちゃダメだよ」
「いいじゃん、楽しいじゃん」
「楽しいのは君影君だけだぞ」
「え、そうすか? オレ、シキセンのこと好きすぎて、つい……」
「寒気がしてきた」
「先生、大丈夫ですか?」
「飲み過ぎたんすよ」
「……」
呑気に欠伸をして足を組んだ雄馬が、思い出したように言った。
「あ、そういやシキセンは結婚しないんすか?」
「君ねぇ。このタイミングでそれを聞くか、普通?」
「はい、むしろ今しかないっす」
「……」
「シンも気になるだろ?」
「え、まあ。気にはなるけど……」
はぁ、と息を吐いて、先生が話し始めた。
「正直、無理して結婚相手を探そうと思わないんだ」
「ええ? 医者って肩書きぶら下げたら、いくらでも食いつくっしょ。結婚相手なんて、すぐに見つかりそうっすけど」
「そういうのじゃなくて、自然の出会いに任せたいんだ」
「あっ」
「何だ、君影君。婚期逃すパターンだなとか考えてるだろ」
「シキセン、読心術使えるんすね。流石っす」
「雄馬、否定しろよ……」
「……はぁ。まぁいいさ。君らも知っての通り、私は運命に無理矢理抗おうとして、痛い目を見たからな。もう、自然の流れに身を任せたいんだ」
「先生……」
「愚直に自分のすべきことをしていく人生の中で、結婚に繋がる出会いがあってもいいし、なくてもいい。どちらにせよ、やるべきことをやっていれば充実した人生になると思ってるよ」
先生の口調は、悟ったように穏やかだった。
「先生。凄いです。格好いいです」
「深いっすね、シキセン」
「はは。ほら、君たちはもう寝なさい」
そう言って先生は立ち上がると、明かりを消した。
***
やっと寝たか、とクッションの上に腰を下ろす。
寝息を立てている4人を見つめ、居場所ってこういうことを言うのだろうか、なんて柄にもないことを考えてしまった。
認めたくはないが、今まで感じたことのない満たされた感覚がある。この心地よさ、下垂体後葉から分泌されるオキシトシンによるものだろうが……いや、そんな事を考えるのは野暮か。
(新君の言う居場所というものは、存外善いものだな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます