第55話 鎖が切れる音
「失礼します……」
診察室の扉がゆっくりと開き、痩せ細った、だけど精悍な顔立ちの若者が入ってきた。6月の精密検査に来た一池君は一礼をしてから椅子に座った。
目を伏せて暗い表情のまま、彼は話し始めた。
「式美先生、俺、医学部に落ちてしまいました。今は浪人中です。もう一年、気合いを入れ直して勉学に励みます」
「一池君……」
目の下の黒ずみに胸が痛む。
私は彼に向き合ってから、話をした。替生手術を含めたプロジェクトが現在、継続できなくなったことと、今後も再開が見込めないことを伝える。また、今は新たな替生手術は行わず、替生手術を受けたレシピエントの脳を20歳まで、定期的に精密検査をするのみであることも付け加えた。
「そんな……」
弱弱しい声で彼はがっくりと項垂れた。
私は気の毒に思いながらも、勇気を出して重い口を開いた。
「……君は、このプロジェクトに恩義を感じて、医者になることを志したと以前聞いた事があったが……。
……非常に申し上げにくいが、もう君は君の人生を生きてみてもいいんじゃないか?」
「え?」
彼が顔を上げる。その瞳には困惑と驚愕が入り混じっていた。
「……ここ最近、考えることがあってな。過去の事は過去の事だ。それに囚われる必要はないのではないか、と」
彼は開けっ放しの口を閉じることも忘れて、黙って聞いていた。
「私の立場でこんな事を言うのは無責任だろうし、間違っているとも思う。だが、もう君には君の人生を歩んでほしい。君の人生をプロジェクトによって結果的に振り回す形になってしまった。……本当に済まなかった。プロジェクトチームの一員だった者としてお詫びする」
深く頭を下げると、一池君の声が取り乱したように震えた。
「し……式美先生。頭を上げてください。そんな……プロジェクトに参加したのは橋宮の意思ですし、先生は何も悪くないですよ……」
「しかし……」
「いえ、いいんです」
そういうと、一池君は虚空を見つめた。その眼差しは、ゆっくりと何かを整理しているようだった。
やがて、ぼんやりとしていた瞳は徐々に確信めいた色に染まっていく。
彼は、私を見据えると穏やかな声で話し始めた。
「……先生。今、お話して何か分かった気がします。実は、薄々気づいていたんです。橋宮の事とか、正義感で医者を目指していましたが、おそらく自分に医者はあっていないんです。何となくそんな予感はしていたのに、意地を張って、ずっと気がつかないフリをしていました」
そう言うと、一池君はふぅと、息を吐いてから「やっと今、冷静になれました」と微笑んだ。
「……優しいんだな、君は」
「そうですかね」
「ああ」
「……そう言えば、高校の時、同級生にも同じことを言われました。藍見新っていうやつなんですけど、自分の人生を生きろって。ここにも通ってると思うんですけど」
「ああ。新君か。友達なのか?」
「まぁ、知人以上、友達未満ですかね」
「そうか。彼は今、通ってないよ」
「そうなんですか?」
「ああ。一応、何か異変があったら、すぐ来るように、とは伝えているがね」
「そうですか」
スッと透明な風が私たちの間を吹き抜けた気がした。
「……君は医者以外に何かやりたいことはあるのか?」
「実は俺、歴史が好きなんです。歴史上の人物の事はいくら考えても飽きません」
「へぇ。凄いじゃないか。……余計なお世話かもしれないが、そういったものこそ伸ばすべき才能だと思うぞ」
パッと彼の顔が少し明るくなった。彼の鎖が切れる音が、私にまで聞こえた。
「そうですね。少し進路について考え直してみます」
そう言った彼は、来たときとは別人のように柔和な笑みを浮かべて、診察室を出て行った。
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