第53話 シルエット


「シキセン。他人に傘かざすのもいいけどさ、少しは自分を省みて下さいよ」


 左から雄馬の声が聞こえた。いつの間にか雄馬は隣にいて、左手で傘を差していた。前に出て右手で開いた傘を先生に手渡す。


「え? あ、ありがとう。君影君……」と先生は右手で傘を受け取ると、驚いた顔で雄馬を見つめた。

「どーいたしまして」

「えっと、じゃあ……」と言って、戸惑いながら先生は二人を見たので、かんちゃんと先輩は顔を服の袖で拭ってから、かざされていた先生の傘を受け取った。二人は相合い傘をして立った。


「ほら、シンも」


 俺も雄馬から傘を受け取って、差した。


「……」


 気まずい沈黙が流れる。


 先生は事態が飲み込めずに、俺ら4人の顔を見回していたが、「あー」と呟いてから、車の方を向いた。


「とりあえず、ここじゃなんだから私の車に乗りなさい」


 先生のご厚意に甘えて、全員で車に乗り込む。先輩が助手席に、俺ら男性陣は左側面から後部座席に乗り込み、雄馬、俺、カンキ君の順で座った。

 運転席で先生がエンジンをかけ、暖房をつける。


「先生、すみません。こんな夜分に急に押し掛けて……」

「気にするな。それより寒くないか?」

「大丈夫です」

「そうか。あ、ハンカチあるが誰か使うか?」


 先生はハンカチを俺らに見せるように掲げた。


「あ、じゃあ、ミヤセンで! レディファーストなんで!」

「お、チャラ助、気ぃ効くな。って、せんせぃ! びしょ濡れやないですか! せんせぃ使つこうて下さいよ!」

「いや、私は最後でいい。使ってくれ」


 先生は先輩の手にハンカチを押し当てた。


「……すみません。ありがたく使わせてもらいます」

「ああ。気にするな」

「……」


 先輩はサッと2、3カ所拭いて、すぐ先生にハンカチを返した。


「拭いたんで、せんせぃも拭いて下さい」

「私はいい。後ろの3人、使いなさい」

「あ、じゃあ、俺……」と言うカンキ君の言葉をかき消すように、雄馬が声を出した。


「シキセン! オレらは濡れてるくらいがちょうど良いんで、大丈夫っす。シキセン、使って下さい」

「いや、そういう訳には……」

「大丈夫っす! なあ、シン!」

「はい!」

「……そこの君はいいのか?」

「あ、はい。もう大丈夫っす」とカンキ君は答えた。

「シキセン優先すよ! いい年なんだから、風邪引いたら厄介ですよ!」

「う……うるさいな……」


 先生はハンカチで顔を拭った後、後ろを振り向いて言った。


「それで、新君。この状況、説明してくれるか?」

「はい」


 俺はカンキ君が大阪で替生手術を受けたレシピエントであること、ドナーの記憶を引継いでいること、カンキ君のドナーであるハルク君と先輩は兄妹の関係であることを説明した。


「なるほど……」

「はい」

「……悪いが、私は神貴君の替生手術には関わっていない。今から18年くらい前の大阪での手術となると、おそらく私の師である東先生がやったのだろう。私は感謝を受ける資格はないよ」

「で、でも先生。確かに手術をされたのは東先生かもしれませんが、今、プロジェクトを引継いでいるのは先生じゃないですか。プロジェクトへのお礼は先生も受けていいと思いますよ。替生手術のおかげで二人は出会えたんですから」

「そうです。せんせぃ、ウチは感謝してるんです。その手術に。ウチは……お兄ちゃんに会えて……」


 先輩の声が涙でかすれた。

 カンキ君も口を開く。


「俺も美夜子と出会えたのは、プロジェクトのおかげやと思ぉとります。ドナーの妹のことはずっと気掛かりやった。ハルクやって、プロジェクトせんで死んどったら、ずっと成仏できなんだと思います。このプロジェクトのおかげで、記憶が引継がれたおかげで、また出会えたんや。せやから、せんせぇ、感謝しとるんです。ほんまは東先生にもお礼を言いたいんですわ」

「……東先生は、去年亡くなったよ」

「え……」


 俺たちは言葉を失った。先生は嘆息をもらしてから話を続ける。


「……それに、プロジェクトに対しての礼だったら、もう私はプロジェクトには関わっていないんだ。というよりプロジェクト自体、終わってしまった」

「……え? どういうこと?」と雄馬が首を傾げた。


「この一年でな、プロジェクトはチームメンバーが次々と脱退してしまって遂行できなくなったんだ。まあ、失敗に終わったってやつだ」

「プロジェクトが終わった……? そんな……先生たちの長年の研究が……」


 俺はそれ以上、かける言葉が見つけられなかった。


「だから新しく替生手術をすることはなくなった。今は手術を受けたレシピエントを対象に、脳に異常が出ていないかの経過観察をするだけになっている」

「それは……何て言ったらいいのか……」


 脳内を必死に探したが、俺は言葉を続けられなくて下を向いた。


「……いや、私はこれで良かったのかもしれないと最近は考えている」

「え?」


 顔を上げると、先生はうつろな表情をしていた。


「東先生が亡くなってから、プロジェクトチームが破綻するのは早かった。皆、東先生から多大な恩を受けたから協力していただけで、このプロジェクト自体には疑問を持つ者も多かったんだ。私みたいな、心からこのプロジェクトを、研究を、人類の救済になると信じて続けていきたいと思っている者はほとんどいなかった。チームが崩壊していく中で、今更そのことに気が付いても、どうすることもできなかった」


 先生は猫背になって、大きなため息をついた。その背中から、落胆と諦念が漂っている。


「……先生……」

「……本当は皆、嫌がっていたのかもしれない。自殺未遂した者を安楽死させるとか、胎児に移植手術をするとか……正気の沙汰じゃないからな。当然どちらも生命倫理上、問題のある行為だ。しかし、私は信じていた。禁忌を犯しても救える魂が、命があるなら、それはやらなければならない事だと。それが私の責務だ、と。……だが、苦しむ替生者の姿を見ていくうちに、その信じていた道が徐徐に、消えていくのを感じた。そんな時に東先生が亡くなった。もう、色々と限界だったんだ」


 先生の髪の先から雫が離れて、背広の肩に沈んだ。


「プロジェクトチームが破綻し、研究は進められなくなった。私自身も、もうこのプロジェクトに自信を持てなくなった。そうやって、全てが終わったんだ」

「……」


 重苦しい空気が車内に立ち込める。誰も言葉を発せないでいると、先生はフッと笑った。


「救ったつもりが苦しめていたなんて、悪い冗談だよな」


 カンキ君が身を乗り出す。


「せんせぇ、そんなん言わんとって下さい。俺は替生手術で救われましたよ」


 先輩も先生の顔を見つめて言った。


「せんせぃ。確かに禁忌は犯してますけど、こないなこと言うと、医者を目指す者として失格かもしれないけど、せんせぃの目的は、思想は立派やと思います」


「もう、そう思えないんだよ」と、先生は肩を落とした。

「せんせぃ。新ですよね? 新がせんせぃに言いたい放題したから、そないに追い詰められてるんですよね?」

「う……」と俺は声が漏れた。

「いや……。はは。少しはあるかもな」


 力なく笑った先生の横顔に、心が痛んだ。


「……すみません、先生。俺、前に先生の気持ちとか覚悟とか、あんまり理解していないまま酷いことを言ってしまって。先生の立場とか、そんなの考えられなくて。自分のことしか考えられてなくて……」

「もういいんだ。若いうちはあれくらいの威勢があっていい」

「先生……」

「それに、このプロジェクトに一度も疑問を持たないなんて事はなかった。それどころか常に悩んでいたくらいだ。自分のしていることは、本当に救済になっているのか、と。だから、新君に痛い所を突かれたとき、ちゃんとした反論ができなかった」

「……」

「もしかしたら、私も心の奥底ではめたいと思っていたのかもな」

「先生……」


 前を向いた先生の顔は見えなかったけど、きっと哀しい笑顔をしていると思った。


「……でも、救えた人もいますよね? ウチやお兄ちゃんだけやのうて」

「……まあ、替生手術をするときは感謝されたさ。でも、その先の人生が幸福かは分からない。もしかしたら、替生手術なんて勧められるままにしなければ良かったと恨まれているかもしれないしな」

「……でも、だからといって、やらなきゃ良かったとまで言えますか? 現にその人は替生手術しないと不味まずい状況やったんですよね?」


「そうだよ、シキセン!」と雄馬が前のめりになった。


「オレもビミョーな家庭に生まれちまったけど、だからといってそのまま替生手術しなかったら、また死のうとしてたよ!!」


 俺は居た堪れない気持ちになって、口を開いた。


「先生。すみません。俺、今になってこんなこと言うのもアレなんですけど……。この問題って何処どこを基準にするかだと思います。そりゃ替生手術して幸福に出来たかなんて分からないけど、少なくとも物理的には虐待されてる人を救った、そこは感謝を受けることだと思います。それで良いじゃないかと、今はそう思うんです。手術後が幸せかどうかまで考えたら……切りがないですよ」

「新君……」

「シキセン。オレ思ったんだけどさ、殴られてるやつをこれ以上殴られないようにして、同時に胎児も救おうとした。それって、それだけでもう、凄いことっすよ?」

「……」


 先生はこめかみ辺りに左手を当てて、考え込んでいるようだった。

 カンキ君が、組んだ両手に力を入れて、静かに口を開いた。


「せんせぇ。俺はドナーの人の虐待の記憶が、めっちゃハッキリ残っとります。せやから、これは言えます。あれは地獄です。親の意思一つで、今日無事に過ごせるか、飯が食えるか、風呂に入れるか、どつかれへんか、蹴られへんか、外に出されへんか、首を絞められへんか、殺されへんか、決まります。朝から晩まで、そないな事を毎日毎日毎日毎日毎日心配して、最低15年耐える。近所の人も学校の先生も、救いの手なんか来ぉへん、気が狂いそうな生き地獄です。死を切望してまうくらいの生き地獄です」


 そう言ってカンキ君は天井を見て目をギュッとつむった。それから、ゆっくりと顔を下げ視線を先生に向けた。


「だからせんせぇ。その地獄から救ってくれたプロジェクトも、それに携わっとったせんせぇも、俺にとっては神様に思えます。誰が何と言おうと、俺にとっては神様です! そういう人、俺だけやのうて、もっといると思います! どうか自分を責めんとってください」

「そーすよ、シキセン! 外野から禁忌だなんだって色々言ってくるやつって、多分オレらのこと救ってくれないやつっすよ! てか、そういうやつに救ってもらったこと、オレはないんすよ! 禁忌を犯してまで救ってくれた貴方は、オレらのダークヒーローっすよ!!」


 先生はハンドルに突っ伏して息を吐いてから、小さな声で「ありがとう」と言った。その背中が、わずかに、震えていた。


「……」

「ん~、なあ」と先輩が何かに気が付いた様に、俺たち3人の方を向いた。

「ちょっと冷えてきてしもた。自販機で飲み物買いたいから、アンタらボディガードとして、ついてきてや」


 そう言うと、先輩は傘を持って扉を開け、車外に出た。


「おっ、良いっすね! シン、行こうぜ!」

「ああ。ほら、カンキ君も」

「ん? 俺はここにいたいわ。めんどいし」

「え~。カンキ君が先輩の一番の騎士ナイトでしょ。行かなくてどーすんの?」

「う……それもそうやな、行くか」と彼は腰を浮かせた。


「じゃ、シキセンは温かいお茶で良いっすよね?」

「ああ」


 先生を残して、俺たちは車から降りて傘を差した。雨は小降りになっていた。


「ほな、いくで!」と先輩が先頭に立って、病院の正面の出口へ向かっていった。

「あ、ミヤセン。そっちはダメっすよ」

「んぇ? なんで?」

「守衛に見つかるルートっす。やっぱ裏手の出口じゃないと」

「はぁー、アンタやるやん。頼もしいわ」

「ここら辺は知り尽くしてるんで。よく検査嫌で病院脱走してたから」

「……アンタ、ホンマ昔からクソガキやったんやな」

「へへ。それほどでも」

「褒めてへんで」


 カンキ君が「なんか、夫婦めおと漫才みたいやな」と呟いた。


「め、夫婦ぉ!? この顔だけ男とぉ?」と先輩は少し頬を赤らめつつ叫んだ。

「ミヤセン、ミヤセン」

「な、なんや!?」

「顔だけじゃなくて、胴体と手足もありますよ!」

「ぶっ……なははは! しょーもな!! なんやそれ、自分ソレ、おもろいと思ぉとるんか!」

「その割に先輩、大笑いしてますけど」

「アホ! これはノリや! ノリ笑いや!」

「なんですか、それ……」


 後ろを歩いていたカンキ君が呆れた口調で言った。


「はぁ。誰に似て、こんなガサツな女になってしもたんやろな……」

「お前や!!!」


 三人のツッコミが重なった。


「え、えぇ……? そらおかしいやろ……」


 深夜の特有のハイテンションに身を任せながら、自販機までの道を歩いた。

 坂道を下る途中、視界を覆っていた木々がパッと開け煙雨の中にぼんやりと街のシルエットが浮かび上がった。その中に見える家々が、生活の営みの美しい光を穏やかに放っていた。俺たちは自然と足を止め、その心がほぐれるような幻想的な光景に、しばらく見とれていた。






◇◇◇◇◇


【親愛なる読者の皆様】


 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!

 前回、今回とちょっと長めになってしまいましたが、次回からは1話1000~4000字くらいに戻ります。


 あと、もう少しですので、どうか最後までお付き合いください。

 宜しくお願いします(^^)

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