第38話 別れ
夏がもうすぐ終わろうとしている頃、事件で混乱していた気持ちが落ち着いてきたため、俺は勇気を出して式美先生に会いに行った。暑さが残る道を汗を拭いながら歩いていると、突如サァッと風が吹いた。俺の髪を靡かせたその風からは秋の気配が感じられて、物悲しい気分になった。
病院に着いて受付を済ませ、待合室の椅子に座る。今日は精密検査ではなく、外来受診で予約した。
自分の番号が呼ばれ診察室に入ると、パソコンのキーボードに手を置いた先生ががチラリと俺を見て「久しぶりだな」と言った後、すぐにパソコンの画面に視線を戻した。一瞬合った先生の目は、
「事件の事は知っている。色々大変だったな。何より無事で良かった」
そう言った先生の横顔には濃い
「それで、今日は……」
「先生」
「なんだ」と、先生はパソコンから俺に視線を移す。その底なしの暗い瞳に引き込まれそうになる。
「先生。俺、もう精密検査を受けたくありません。替生手術の研究なんかに協力したくありません。今日はそれだけ伝えに来ました。……本当に申し訳ありません」
「……理由を聞いても良いか」と、先生は表情を変えずに言った。
「先生のプロジェクトは素晴らしいと思います。俺は替生手術のおかげで、生き延びることができた。それに、今、過酷な環境に生きている人たちに選択肢を与えることもできるし、脳欠損症の胎児も救えます。それらが分かった上で、それでも俺は、この研究に関わりたくないんです」
「……」
「俺は、自分が替生者だと知って、すごく悩みました。自分とは何者なのか、自分の居場所はどこなのか。自分の家族は本当の家族と言って良いのか。とても苦しかった。こんなこと、人に簡単に相談できることじゃないし、一人でずっとずっと悩んで、辛かった」
先生は寂しい表情を浮かべて、視線を落とす。
「学校でもアネ広でも、替生者は皆何かしらの苦しみを抱えていました。前の人の記憶のフラッシュバックに苦しんでいたり、替生手術したのに家庭環境に恵まれなくて捨て鉢になっていたり、前の人の苦しみを背負って自分を追い込んでしまっていたり……。全部、替生手術なんてものがあるせいで起こってます。特に、前の人の酷い記憶が引継がれている人は、かなり辛い思いをしています。だから、このプロジェクトに賛成出来ません」
一呼吸おいて話を続ける。
「もちろん替生手術は良いものだっていう声もありました。でも、そう言っていた人も、最終的には替生手術をしたことによる悩みを抱えて苦しそうにしています。この1年ちょっと、手術をしたことによって特殊な悩みが産まれている現実を見てきました。もちろん、このプロジェクトに参加した者にも責任があります。それは分かってるんです。でも、そもそもこんなプロジェクト、存在していいのかって思うんです」
先生は眉間に手を当てて、フーっと息をついた。それから、瞳に力を込めて俺を見据えた。
「……言いたいことは分かった。だが、この研究はまだ発展途上だ。今後、完全に記憶の引継ぎがされないような手術の方法が確立できれば、人類の救済になり得ると思わないか?」
「それでも、その方法が確立するまでに犠牲者が生まれ続けるじゃないですか」
「……はあ。その通りではあるのだが、元来、医学はそうやって発展してきた。犠牲者が生まれるのは避けられない。そもそも記憶の引継ぎがされる可能性があることは手術前に説明している。それでも構わないから手術して欲しいと頼んできたのはドナー本人とレシピエントの家族だ。我々医療従事者側から強要はしていない」
「それはその通りですけど、こんなに苦しむなんて誰も予想できなかったと思います。替生手術は替生前の記憶を全て捨てて、必ず
記憶が戻ったら、自分が替生者だと知ったら、様々な悩みを抱えることになります。しかも悩みが特殊だから、人に言えないし、相談も出来ない。だから、孤独になりやすいし、居場所がなかなか見つけられないんです。居場所がないって、どこにも属せないって、本当に苦しいんです」
先生は一回天井を見上げた後、虚ろな目を俺に向けて、静かに口を開いた。
「じゃあ、虐待されている子や、死にたいほど辛い子は手術もできず、そのまま虐待されていろ、と?」
「そうじゃありません! 替生手術に頼らずに、その子たちを救いたいんです」
「ふっ。……君、理想主義者だったのか。今朝も自殺未遂で救急搬送された若者がいる。今、ICUで医師や看護師達が命を救おうと必死になっているが、助けたらまた恨まれるんだろうな。……命を絶とうとする者と、命を救う者の
「……」
「こんなことは、もう
そう言った先生の瞳には灯が宿っていた。
「先生の思想は立派です。俺は確かに考えが甘いんだと思います。でも、それでも、替生手術なんてしないまま、安楽死なんてさせないまま、虐待されてる子どもたちを救いたいんです」
「へぇ。そこまで言うなら、何か具体的に考えていることがあるんだろうな」
「……今はまだ、ないです。でもこれから考えます! 大学に行ってちゃんと勉強します!」
「ふっ。卒業までに虐待で何人犠牲になるかな」
「……」
重い沈黙が流れる。早まる鼓動を深呼吸で落ち着かせてから先生を見据えて、踏み込んだ質問をした。
「先生は替生手術なんてものが存在して良かったですか? 先生も替生手術したんですよね? 前に聞いた時、反応で分かりました」
先生は苦い顔をしながら答えた。
「……ああ、この手術があって良かったよ。……私は、前の人間の記憶があるが、それでもな」
「でも、先生は辛そうに見えます」
「……どういう意味だ?」
「前の人の記憶があるせいで、師匠の非人道的な研究に付き合わされて、危ない橋を渡っているから」
その瞬間、先生の目の色が変わった。ぞわっと背筋に冷たいものが走る。
「だ、だって、そうじゃないですか! この研究も師匠の先生も、どう考えてもヤバいですよ! 先生が替生手術を受けたのって、まだ脳死下の臓器提供すら認められてない時代ですよね!? そんなヤバいのが分かりきってる研究なのに、協力せざるを得なかったのって、やっぱりこのプロジェクトに恩があるからでしょ!? そんなことになるくらいなら、替生手術なんていらないですよ!
まるで、しがらみ……いや、……」
奥歯を噛んでから、続きの言葉を口にした。
「呪いだ」
先生の顔が苦悶で歪んだ。
「……お前……」
俺は先生の気迫に押されつつも、踏みとどまって話を続ける。
「さっきも言いましたけど、この手術を受けた人で幸せそうな人がいないんですよ。皆、何かしら苦しんでいる。だから、やっぱり呪いなんですよ! こんな手術、存在しちゃいけないんですよ!」
「……っ」
先生は机の上に両肘を立て、組んだ両手に額を乗せて歯を食いしばっている。その時、先生の丸くなった背中が、やけに哀しく見えた。
「先生」と思わず声をかけた。
「……」
「……これが俺の本音です。……だけど、……認めたくないけど、現状、虐待にあってて、辛くて仕方ない人達には効果的な救いの手段だとも思うんです。だから、先生の研究を否定したいのに、しきれなくて……」
俺は気が付くと、涙が頬を濡らしていた。
「……」
先生は俺を睨むと、絞り出すように言った。
「……帰ってくれ。もう精密検査に来なくていい」
「……先生」
「一つ訂正をしておく。私は自らの意思で替生手術の研究に取り組んでいる。自殺未遂者と胎児を救うこの研究に、純粋に魅力を感じている」
「……」
「ああ。確かに、替生者は孤独になる運命なのかもしれないな。君くらいは私のことを理解してくれると思ったんだがな」
先生は吐き捨てるように言った。
「……失礼します」
俺は先生の顔を見ないまま、診察室の扉を閉めた。それ以来、東橘病院に行っていない。
◇◇◇◇◇
【親愛なる読者の皆様】
大変申し訳ありません!!
公開、大変遅くなりました!!
すみません!!
ちょっと緊急で病院行ってました!!
大したことがなくてホッとしています。
申し訳ありませんでした!!
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