高校2年 ◆灯◆

第37話 救済


 1時間後、ある患者に替生手術の説明を行う予定だ。説明前のこの時間はいつも様々な葛藤が頭を支配する。そんなとき、私は決まって彼女の事を思い出していた。


***


 2年前、私はある病室の前にいた。その個室の中にいるのは、また自殺未遂をした一人の少女だ。隣には女性の看護師がいる。


「式美先生。今日までにご家族からの連絡はありませんでした」

「そうですか」

「では、確認になりますが、この患者さんはマンションから飛び降り自殺を図った結果、両足の踵骨しょうこつを粉砕骨折、距骨きょこつを完全骨折、それと下腿骨かたいこつを亀裂骨折しました。しかし、脳の損傷は見られませんでした。既にギプス固定等の保存的治療を行っており……」


 手元の資料には、自殺未遂での入院は今回で三回目になること、一回目は向精神薬の過剰摂取を、二回目は縊首いしゅをしたことが記載されていた。


「先生? 大丈夫ですか?」

「ああ、すみません。行きましょう」


 ノックを2回してから扉の取っ手を掴む。口角を上げながらゆっくりと扉を開けていく。


朔耶さくやさん、体調はいかがですか?」


 できるだけ柔らかい表情を作り、優しい声とともに入室した。

 私の眼前でペットボトルが宙を舞うのがスローモーションで見えた。蓋の開いたソレが回転し、中の透明の液体を振り撒いていく。飛び散った液体が私の顔に勢いよくかかった。前髪から滴り落ちる無臭の雫。床に転がったペットボトルにはミネラルウォーターの文字があった。


 先生! と私を見てから大丈夫そうだと分かると、すぐに看護師は走って、電動のリクライニングベッドの背を上げて座っていた彼女を押さえ付けた。彼女は端麗な顔を怒りに歪めながら、叫んでいる。


「ふざけんなよ!!! なんで助けたんだよ!!!!」

「落ち着いて!! 落ち着いて、朔耶さん!!」

「足も動かなくなって!! 生き地獄味わえって言うのかよ!!!!」

「朔耶さん!! 朔耶さん!! 落ち着いて!!」


 朔耶さんの怒りに呼応するように、窓の外からけたたましい蝉の鳴き声が聞こえてきた。噪音そうおんの中、彼女は燃えるような瞳で長い髪を振り乱しながら、しばらく暴れていたが「もう死なせてくれよ」と呟いて大人しくなった。彼女は俯いたまま、話し始めた。


「どうせ通行人が通報したんだろ? 社会の奴らは皆そうだ。虐待に遭ってるときは皆、見てみぬフリをするくせに、せっかく勇気を出して死のうとしたらこぞって助けやがる!!」


 看護師を押しのけた彼女は、大きな瞳で憎憎にくにくしげに私を睨みつけた。


「ふざけやがって……ふざけやがって……!! そんなに助けてぇなら、あの時助けてくれよ!!! クソババアに殴られてるあの時に!!! 男どもに囲まれて、助けてと叫んでたあの時に!!!!

 ああああああああああああああああああ!!!!!」


 彼女は絶叫すると、ロータイプの床頭台しょうとうだいに置いてあったペンを引っ掴み、ペン先を喉に突き立てた。


「やめて!! 朔耶さん!! やめて!!!」


 看護師が叫び声を上げながら、止めに入る。私も看護師とともに彼女を取り押さえながら、床頭台の上に置いてある白紙の連絡先記入用紙をチラリと見て、こんなところにペンを置いたのは誰なんだと苛立ちを覚えた。


 看護師にペンを取り上げられた彼女が、息を切らしながら恨めしそうに私たちを見る。


「ここを退院したら、次こそ死んでやる。もっと上の階から飛び降りてやるから」

「朔耶さん、そんなこと言わないで。それに、もし下に人がいたら大変よ?」


 看護師はそう言って宥めるように背中を撫でたが、その手を乱暴に払いながら彼女は言った。


「うるせぇよ! 知らねぇよ、そんなこと!! 私を助けなかった社会やつらのことなんて!!」


 俯きながら拳を震わせる彼女を見て、私の唇が自然と音を発した。


「そんなに死にたいですか?」


 彼女は驚いた様に顔を上げた。

 ちょうどその時、窓の外から聞こえていた蝉の声がみ、病室は耳が痛くなるような静寂に包まれた。

 数秒後、彼女は小さく「はい」と答えた。


「……分かりました。一つ、ご提案があるのですが……」



*** 



 一月後、大阪南治なんみ医療センターの来磨くるま先生から電話がかかってきた。彼は西日本の替生手術の医療チームを率いる脳神経外科医だ。


「お久しぶりです。聞きましたよ? 朔耶さん、でしたっけ。また替生手術を成功させたとか。流石ですね、式美先生」

「いえ、そんな……」

「後は胎児が無事に生まれてくれれば、ですね!」

「そうですね」

「あー。それで少し、今回の手技しゅぎについてお話を伺いたくてですね」

「はい、いいですよ」


 30分ほど話すと、来磨先生は満足したように声を上げた。


「なるほど! 大変勉強になりました」

「お役に立てたようで良かったです」


 来磨先生はお礼を言ってから、電話を切られた。

 私は受話器を戻しながら、本当にこれで良かったのかと考え込んでしまった。手術前の、泣きながらお礼を言う彼女の顔が思い浮かんだ。


「先生、ありがとう。本当にありがとう。私、先生のこと、絶対忘れないから!」


 彼女の言葉が頭の中で木霊する。替生手術後、レシピエントに記憶の引継ぎがあるかもしれないが、鮮明に想起される割合は全体の10%に満たない。今は、レシピエントに記憶の引継ぎがされないことを祈るしかない。

 いくら思い悩んでも解など出せず、自分のしていることは人類の救済になるはずだ、と一先ず己を納得させるよりほかなかった。


***


 彼女の手術から2年経った今でも、その葛藤に本当の意味での決着はついていないが、やはり私は手術をすることで救える魂があると信じたい。

 本日の患者の資料に目を通していると、ノックが3回あった。看護師が部屋に入ってくる。


「先生、お時間です。例の件の」

「ああ、分かりました。行きましょう」


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