第31話 見たくない顔

 

 6月上旬の水曜日、その日は部活がなかった。放課後、ゆかりと、暗い顔の颯太と一緒に高校の最寄り駅まで歩く。颯太に落ち込んでる理由わけを聞くと、美夜子先輩と付き合えたは良いものの、まだ一回もデートができていないという。大学生活が忙しいようだ。ゆかりと俺で「仕方ないよ」と励ましているうちに駅に着いた。

 三人で電車に乗って、20分後、窓の外の景色が徐々に減速していき自宅の最寄り駅の景色で止まった。

 電車のドアが開くと、ホームから駅名のアナウンスとザワザワとした雑踏の音が車内に入ってくる。


「あれ? 新、降りないの?」


 颯太が振り向く。


「ああ、今日もちょっと行くとこあって」

「またか」と颯太は残念そうな顔をした。

「じゃあね、新くん。また明日」と、ゆかりは手を振って颯太と一緒に電車を降りた。


 俺はそのまま電車に乗り続け、途中、乗り換えをしてから新宿に向かった。新宿駅で下車し、東改札を抜け、階段を上って外に出る。暮れ方の空には妖雲が立ちこめていて、薄寒い風が吹いていた。

 何となく今も続いているエレナちゃんの護衛を今日もやって、そのまま何事もなく帰宅する……、その筈だった。


***


 夜8時過ぎ、新宿姉萌根ビルの裏手にある道を少し入ったところにあるネカフェ「グランドスター」のエントランスに、俺とエレナちゃんはいた。

 彼女は少し疲れた顔をしていたが、それは今日も案件をこなしたせいなのだろうと俺は思った。


「今日はここに泊まるね」と、エレナちゃんは小声で言った。

「うん、じゃあ気を付けて」


 エレナちゃんが受付を済ませて俺に手を振った。俺が手を振り返すと、彼女は少し微笑んだ後、背中を向けて、エレベーターがある廊下の奥へと進んでいった。彼女の姿が見えなくなったので、俺は外に出た。

 見上げると、すすけた黒い雲がどんよりと空一面に広がっていた。

 

(……雨が降るかもしれない、早めに帰ろう) 


 そう思った俺は足早に新宿駅に向かった。

 


***



 ネカフェの受付の人からカードキーを受け取った。


(良かった、今日も無事に一日を終えられる……)


 受付の人に小さくお礼を言って、新に手を振ってから、少し軽くなった足取りで泊まる部屋を目指した。


「428……428……あった」


 ドアについている機械にカードキーをかざすと、ガチャリと音が鳴って、ロックが解除された。ドアを押して、部屋に入る。リュックを放り投げて、フラットシートにうつ伏せに倒れ込んだ。


「はぁ~……。今日も疲れた……」


 クロスベルトのヒールシューズを、うつ伏せの姿勢のまま手を伸ばして脱ぐ。足に纏わり付いていた熱が一気に解放されて心地良い。9センチのヒールを一日履き続けて、パンパンに浮腫むくんだふくらはぎをブルブルと揺らした。


「はぁ……」


 身体が重い。横になって、余計にその重さを実感する。

 護衛がいるとはいえ、一日中、あいつルイに会わないかと気を尖らせながら過ごすのはメンタル的にかなり来る。緊張が解けていくのと同時に身体も弛緩を始める。瞼が重くなって、うとうとしていると、急に目が覚めるような鈍痛がアタシを襲った。


「え? ウソ、もしかして……」


 寝転んだまま、スマホの電源をつけてカレンダーを確認する。前回の月のものから、今日で30日目。


「あぐ……。来ちゃったか……うぅ……」


 自覚すると余計に腹部の痛みが強まった。慌てて左手を伸ばしリュックの中を掻き回す。すぐにポーチを探り当てたが、中に鎮痛剤はなかった。


「ウソでしょ……どうしよう……」


 冷や汗が頬を伝う。さっきよりお腹が重くなってきた。このまま悩んでいても痛みは増すばかりだ。30分後には動けないくらい酷くなっていることをアタシは経験から知っていた。

 さっき別れた新には連絡しづらいし、でも君影たちは今日、用事があるって言ってたから連絡したくない……。


「少しなら、大丈夫だよね……?」


 アタシはリュックとカードキーを持って、お腹を押さえながら、頼りない足取りで部屋を出た。



***


 

 新宿駅に向かう途中の交差点で青信号待ちをしていると、水滴が俺の頭に当たった。


(雨? もう降ってきた……!)


 やきもきしながら信号を待っている間にも、頭に落ちる雨粒が一つ、二つと増えていく。あっという間にパラパラと雨が降り始めた。ようやく、赤から青に変わった。


「ヤバい、早く帰らなきゃ」


 広がった傘が1つ、2つと増えていく。俺は更にスピードを上げて駅を目指す。歩きながら、折り畳み傘を朝、鞄に入れなかった自分を恨んだ。息を切らしながらやっと駅の近くまで来た時、すれ違った男に目が離せなくなった。


(まさか、そんな……!!??)


 全身黒で統一した服装、黒いマスク、フードを目深にかぶっているが、あの背格好と肩で風を切るような歩き方は……!


 一気に血の気が引いた。すぐさま俺はアネ広の方に向かうそいつの後を追う。が、急にそいつは走り出した。


(は、早い!! 追いつけない……!!)

 

 通行人の間をまるで蛇の様に、するすると抜けて行く。

 運の悪い事に、さっき俺に足止めを食らわせた交差点は、そいつに青信号を捧げた。

 あっという間にやつの後ろ姿が遠ざかって、小さくなっていく。


「~~~~~ッ!!」

 

 もう追いつくのは無理だと判断し、スマホを取り出す。小走りに駆けながら急いでエレナちゃんにレインを送る。画面につく雨粒を袖で拭きながら、震える手でメッセージを送る。未読のメッセージばかり増えていく。堪らず電話をかけるも繋がらない。汗と雨粒で俺の顔が濡れていく。


 エレナちゃん、気づいてくれ!!

 振動を続けるスマホを耳に当てながら男の後を追う。


 しかし同時に、でも、エレナちゃんはさっきネカフェに入ったんだから鉢合わせることはないだろうとも考えていた。

 それでも、俺の足は止まらなかった。

 鳥肌の立つような胸騒ぎがした。


 雨の落ちる感覚が早くなる。傘の波をかき分けながら男を追いかける。髪がぐっしょりと濡れて額に貼り付いたころ、エレナちゃんが入ったネカフェが前方に見えてきた。レインは未読のままだ。

 


 目元に当たる雨粒と傘の群れで男を見失った時だった。


「キャーーーーーーーー!!!!」


 喧噪を切り裂いて、絶叫が耳をつんざいた。

 続いて、「いやーー!!!」とか「ひぃ!!!」という恐ろしい叫び声が木霊する。


 前方の黒山の人だかりをかき分けながら進むと、目に飛び込んできた光景に思わず足がすくんだ。


 あのフードをかぶった男、ルイが、黒い液体のついたナイフを持って立ち尽くしている。その足元にはツインテールの女性がお腹から血を流しながら仰向けに倒れていた。


「エ……レナちゃ……な……んで……!?」


 全身を凍えるくらいの悪寒が駆け巡る。寒い。寒すぎる。

 ひとりでに身体が震えだす。


 その男は微かに口を動かしながら、何かを呟いていた。

「お前が悪いんだ。俺にはお前しかいないのに、逃げようとするから……」


 あまりの光景に固まっていた観衆は徐々に正気を取り戻し始め、口々に悲鳴を上げながら逃げ惑った。

 一部の観衆は落ち着いていて、興味を瞳に宿らせながらスマホをかざし続けている。

 

 俺は固まったまま、その場を動けなかった。

 

(助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ……!!)

 

 思いとは裏腹に足に力が入らない。身体が震えてばかりで言うことを聞かない。


(動け動け動け動け動け……!!!!)


 突然、ルイがいきなり大声を上げた。


「この世には邪魔が多すぎる!」


 ルイは立ったまま、両手に持ったナイフを頭上に掲げた。

「キャーーーーー!!!」と観衆たちの悲鳴が響き渡る。


「なら、せめてあの世で一緒になろう!!!」


 ナイフが振り下ろされた。鋭い光を放ちながら、エレナちゃんの左胸目掛けて落ちていく。


 刹那、俺の脳裏に記憶が蘇った。

 目の奥をギラつかせながら、バットを振り下ろす比目村ひめむらの父親の顔が――――!!!


「ああああああああああああああ!!!!」


 俺の絶叫と同時に世界がスローモーションになった。雨粒がゆっくり落ちていく。頭が沸騰して、超高速で回転を始める。いつか見た肘打ちの絵が網膜に一瞬で広がった。

 次の瞬間、俺の身体は勝手に動いた。身を屈め右足のかかとを上げながら地面を目一杯蹴る。人だかりを飛び出し、ゆっくりと水滴が落ちる中を前傾姿勢で走り抜ける。そのまま右肘を前に突き出し、反対の手で支えながら、ルイの懐に飛び込んだ。目の前にルイの腹が迫る。ナイフの切っ先が俺の背中に触れるより1秒早く、俺の肘の先がルイの鳩尾みぞおちに届いた。


 ドン!!!!!


 肉を強打した音が響く。肘がルイの腹にめり込んでいる。俺は肘の先から痺れるような痛みを感じた。


「……グァ……ッハ……」


 ルイが苦悶のあまりうめく。力の抜けた彼の両手から離れたナイフは、支えを失って落下し俺の背をヌルっとした感触と共に滑り落ちた。


 キーーーーン――――。


 ナイフが地面に転がった。


 同時にルイは、目を強く閉じ、苦痛で顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら仰向けに倒れていく。

 息切れしながら呆然とそれを眺めていた俺の意識を引き戻したのは、背中のべっとりとした感触だった。


 明らかに雨ではない、生暖かい感触、鉄の錆びたような匂い……。

 暴力の、惨劇の匂いだ――――。


「おまええええええええええええええええええ!!!!!!」


 俺は次の瞬間、ルイに馬乗りになっていた。

 拳をやつの顔面に思いっきり振り下ろす。

 1発、2発、3発・・・・・・。

 グシャッと肉が潰れる音が響く。


 痛いだろ!!??


 痛いんだよ!! 暴力ってのは――――!!!




「……シン……シン!!! シン!!! おい!!!」

「ーーーーッ!?」


 気が付くと俺は知らない男達に4人がかりで取り押さえられていた。全身雨ですぶ濡れになっている雄馬が目の前で大声を出している。視界の端で、ルイも俺と同様に、男達に抑えられているのが確認出来た。


「おい!! 大丈夫か!!?? おいって!!」


 雄馬が泣きながら必死に叫んでいる。


「あ……雄馬……」


 薄目で雄馬を見上げる。何故だかとても眠気を感じる。瞼を開けてられない。


「あ!! シン、気が付いたか!? もうすぐ救急車来るからな!!」

「……エ……エレナちゃん、は……?」

「ジュリナが見てる!! お前は自分の心配しろよ!! 背中切られてるんだろ!? 大丈夫かよ!?」


 震える声で雄馬が叫んだ。


 ああ、そうか。ナイフが背中を滑ったときの血を見て、俺が切られたのだと雄馬は思っているんだ。

 訂正しなきゃ……こんな悲しそうな、雄馬の泣き顔なんて、見たくない……。

 訂正……しなきゃ……。


 ピーポーピーポーと、けたたましいサイレンの音が聞こえてきたところで、俺の意識はプツリと途絶えた。


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