第21話 愛してくれる人はどこ?



「エレナちゃん、可愛いね……」


 その中年男は玄関から入ると、もう待てないと言わんばかりに、アタシを押し倒して覆い被さってきた。トップスを脱いだヤツの乳首からは汚らしい毛が生えている。ハァハァと荒い息が首筋にかかる。


「いやぁ!! 止めて!!」


 ぞわっと全身に悪寒が走る。こいつ、ママがいないのを知ってて……!

 男はニタニタ笑いながら右の手で胸を強く掴んできた。痛みに思わず顔を歪める。


「ーっ!! 痛い!! 止めてってば!!」


 アタシが大声で叫んでも、男はまるで聞こえないかのように胸をまさぐる手を止めない。いくら逃れようと藻掻いても、固い粘土のような男の身体はびくともしなかった。そのうち、男は右手をウェストに沿って下へと滑らせていき、ズボン越しにアタシの腰をいやらしく撫で始めた。「ふふ……」と気持ち悪い笑い声を零しながら。


「ー!? いや!! やだ!!」

「ちっ、うるせぇガキだな」


 アタシが涙目で叫ぶと男は急に顔から笑みを消し、いらついた様子で、左手をアタシの口に突っ込んできた。


「んぐーーー……」


 男の手は分厚くて大きくて、アタシの口いっぱいに押し込まれた。噛み千切ってやりたいのに歯に力が入らない。指の先がのどの奥を塞いで苦しい。涙が溢れた。えずきたい、吐きたい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい……。絶望が胸に渦巻く。

  

 男の右手がパンツの中に入り込もうとした時、玄関扉がガチャリと音を立てた。扉が開いて、ママと目が合う。咄嗟に男は左手をアタシの口から引き抜いた。抑えられていた苦しさが一気に解放され、アタシは激しくむせ込んだ。


「おぇ!! げほ!! ごっほ!!」

「……なに、これ……」

「ごっほ……マ……ママ!!」


 慌てて上体を起こした男は膝を立てたまま、青ざめた顔でママを見ている。ママは今日、用事で朝まで帰ってこないはずだった。予想外の出来事に男は一言も発せずに呆然としている。アタシは泣きながら男を押しのけて立ち上がり、ママに駆け寄って抱きつこうとした。だけど、ママはそれを手で止めてから後ろに1歩下がった。濃いアイラインの目を吊り上げて、アタシを睨む。


「何? どーゆーこと?」

「ママ……この人が、目区炉めくろさんが……」

「ち、違うんだ!!」


 男は叫んで、立ち上がった。


「この子! エレナちゃんが、俺に抱きしめて欲しいって言って! だから!」

「え!? ママ、ちがっ」


 次の瞬間、左頬に灼けるような痛みが走った。突然のママの平手打ちに体がふらつく。


「この淫乱が!! 親の彼氏に手を出すなんて、とんだ穢れた女だよ!! お前は!!!」


 右、左、右……と頬が灼ける。

 一瞬の間を置いてから、ママの蹴りがお腹に入った。


「う……ぐぅ……」


 アタシは痛みで膝をついた後、床に転がった。


「そこで反省してろ!!!」


 そう言ってママは外に出て行ってしまった。ガチャンと絶望の音が響く。


「マ……ママ……」


 ショックのあまり放心していると、後ろの呼吸がまた荒くなってきた。

 背筋が寒くなる。恐怖で後ろを振り向けず、体はひとりでにガタガタと震え始めた。

 痛い、でも、立たなきゃ……立たなきゃ……立たなきゃ……。

 呼吸がゆっくりと近づいて来て、すぐ後ろに聞こえたとき、男の手が肩に触れた。


 立て、立て、立て、立て、立て、立てって!!!!!


 次の瞬間、アタシは震えた足を無理矢理動かして立ち上がった。無我夢中で走り出す。玄関扉を乱暴に開けて、よろけながら走り続けた。橋を渡って、公園を抜けて、とにかく夜の底を走り抜けた。

 滝のように汗が流れて、気がつくと、いつの間にかネオン街に来ていた。


「ここ……どこ……?」


 糸が切れたように、その場にへたり込んだ。見知らぬ光景に急に心細くなる。目の前を通ったサラリーマンは、私を見てぎょっとした表情を浮かべた後、足早に去って行った。私の乱れた髪か、乱れた服があのような顔をさせたのだろう。傷ついた心を一人で抱きしめながら立ち上がった。それから夜の街を徘徊した。同じ所に留まる方が危険だと考えたからだ。人目に付かない様に路地裏を歩く。しばらくすると、路地が途切れて駅前に出た。時計台が23時過ぎを示していた。


「何してるの?」


 驚いて振り向くと、二人組の男の警察官がいた。


「え……あの……」

「どうしてこんな夜中に歩いているの? まだ、小学生? 中学生くらいだよね? お母さんは何してるの?」と若い警察官が矢継ぎ早に質問してきた。

「え、えと……」


 すると、年配の警察官が眉間に皺を寄せながら目の前に来た。


「君、お母さんの名前、言える?」


 身体中の血の気が引いていく音が聞こえた。ママに連絡される――――!!!


「い……いやああああああ!!!!」

「あ、君!!」


 アタシは走った。先程まで歩いてきた、暗く入り組んだ路地裏を。


 「君!! 君!!」と、後ろから怒声が追ってくる。走って、走って、ある角に差し掛かったとき、急に腕を引っ張られ口を塞がれた。


「静かにしてよ? ここにいれば見つからないから」


 優しい囁き声だった。その細身の男は後ろからアタシを優しく抱きしめていた。アタシを追う二人の警察官の声が近づいてから、遠ざかっていった。警察官がいなくなったのを確認して、その男はアタシから手を離し、距離をとった。


「ごめんね。何か君、困ってそうだったから、つい。でも、警察に見つからなくて良かったでしょ?」


 見上げると、その男はニコッと笑った。何もかもが暗い影に沈んだ路地裏にありながら、彼の鮮やかな金の髪だけは美しく輝いて見えた。穏やかな彼の笑顔を見たとき、アタシは我慢していた感情が堰を切って溢れだした。嗚咽交じりに泣きじゃくるアタシの背を、その男は頑張ったねと撫でてくれた。



***



 目を覚ますと、見慣れたネカフェの天井が瞳に映った。涙の跡が頬に貼り付き、瞼が熱く腫れている。


「久しぶりに見たな、あの時の夢……」


 腫れた喉を鎮める様に水を飲んだ。初めて君影に会った1年前から彼はアタシのヒーローだった。色々、助けられたし、辛い気持ちにも寄り添ってくれた。だから、どんどん好きになった。頼りたくなったし、それを許してくれると思った。

 でも、頼れば頼るほど、彼はアタシから離れていった。彼はアタシだけのヒーローじゃなかった。皆にいい顔するやつだった。


「サイテーじゃん。助けたんだから……アタシだけを見てよ……」


 独り言が虚しく消える。アタシから離れて欲しくなくて、死ぬって言ってみたりしたけど困った顔をするばかりだった。男の人とそういうことをするのは怖いけど、勇気を出してホテルに誘ってみたのに、それもダメだった。

 

 アタシは他にあげられるものが何もないから、アタシしかあげられないから、あげるって言ったのに、拒否られた。そんなにアタシって価値がないの? それとも、本当にアタシのことが好きじゃないの?


「男の人って、好きでもないのに女の子を助けることがあるの? そんなことあり得るの? なんで? もう訳わかんないよ」


 じゃあ、アタシを愛してくれる人は、どこなの? どうしたら出会えるの?


「あー……ヤバい」


 胸に広がった強烈な孤独感を、大量の風邪薬と一緒に飲み干した。

 


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