第15話 許されざる事
風がやけに冷たく感じるのは10月という季節だけが原因じゃないだろう。精密検査当日、俺は予約時間より2時間早く、病院の診察室48番前に着いた。既に待合室にいた雄馬が手を挙げる。
「おー、こっち」
「ああ、雄馬」
雄馬に合わせて早く来たが、正解だった。がらんとしている病院の待合室は想像以上に寒々しく、心細さに拍車をかけた。
「空いてる病院って良いよな」
ジーパンを履いた雄馬がその長い足を遊ばせながら、呟いた。
「なんか気楽な感じだね」
「まあな。もう慣れてるし」
少し話すと、雄馬の番号が呼ばれた。またな、と言って彼は診察室の向こうに消えた。ただ一人、無機質なフロアで虚空を見つめる。顔も知らない比目村の、あの悲痛な叫びを思い出すと心が重くなった。今日、比目村の事が分かる。時計の針が、やけに遅く感じる――。
しばらくして、診察室のドアが開いて雄馬が出てきた。右手にクリアファイルを持っていた。
「へへ。新に話したのお前だろって聞かれたから、もう白状したったわ。じゃ、後、よろしく。オレ、MRIに行ってくるわ」
ばつが悪そうに笑ってから、雄馬はエレベーターに向かって歩いて行った。
再び一人で待合室の椅子に座って、ぼーっとする。後から来た人が、診察室に入っていく光景を何回か見た後、俺の番号がついに呼ばれた。
「こんにちは。先生。よろしくお願いします」
「はい。お願いします」
診察室に入ると、いつも通り先生の感情のない瞳が俺を捉えた。軽く会釈して丸椅子に腰掛ける。
「先生、精密検査の前に、聞いておきたい事があって。いいですか?」
「どうぞ」
「プロジェクトについて改めて確認したいんですけど。安楽死を望む若者の脳細胞の一部を脳欠損症の胎児へ移植するものって聞いたんですけど、この理解であってますよね?」
「ああ、君影君からね」
「……はい」
「まあ、細かいことを抜きにすればその通りだ」
「……もっと詳しく知りたいんですけど……」
俺がそう言うと先生は腕を組んで口を結び、何かを考えている様子だった。数秒後、意を決したように口を開いた。
「……このプロジェクトには脳の細胞を提供するドナーと、その提供を受けるレシピエント、つまり胎児が存在する。比目村君はドナーで、君はレシピエントで胎児に当たる。そして胎児には、基本的に2つの手術を施している。1つはPDNT細胞の移植手術だ。この細胞は簡単に言えば神経管の発達に大きな影響を及ぼす細胞だ。神経管というのは脳や脊髄の原基であり、この神経管が閉じないことにより脳欠損症等の先天異常が発生する。脳欠損症とは、胎児性頭蓋形成不全症、つまり頭部の皮膚や頭蓋骨が正常に形成されない病気により、脳の一部または大部分が欠損している状態に至る疾患であり……」
「あの、すみません。もっとわかりやすくお願いします。何がなんだか……」
早口で説明する先生に対して声をかけると、先生はハッとして「すまない」と視線を落とした。
「え~……一言でいうと、頭蓋骨と脳が欠損している胎児に脳を作る大元の部分の細胞を移植した、ってことになるかな」と先生は言葉を続けた。
「……つまり、その細胞を胎児に移植したことで、頭蓋骨と脳が作られるようになったって事なんですね」
「まあ、そうなんだが、ここで1つ問題がある。PDNT細胞を移植したことで頭蓋骨と脳の形成がなされるようになったものの、そのスピードが遅いのだ。そのため、生命維持に支障が出るリスクを鑑みて、2つ目の手術、ドナーの神経幹細胞の移植手術を行う。これにより、神経細胞の増殖が進み、結果として頭蓋骨及び脳が基準値まで形成され、無事に出生、その後の生存に繋がる」
「えっと……つまり?」
「脳を作る大元の部分の細胞と、脳の神経細胞を生み出す細胞を移植している事になる。この2つの移植手術を総称して替生手術と呼んでいる。替生手術後、ドナーの記憶が胎児に引き継がれるかどうかについて、私の師は記憶の引継ぎの可能性は低いと仮定し、研究を進められた。ここら辺の話は複雑になるんだが、ドナーから移植された神経幹細胞により生まれた神経細胞は、胎児の既存の神経回路に組み込まれることになる。そのような状況下において記憶の引継ぎが起こることは稀であり、可能性は低いと考えたんだ」
「えっと……じゃあ、脳の記憶に関わる部分を移植したわけじゃ無いから、記憶が引継がれる可能性は低いって考えたってことですか?」
「まあ、平たく言うとそうなるかな。だが、研究が進むにつれ、この仮説は見直されていくことになる。君のような記憶の引継ぎが確認出来たからだ。そのような症例は全体から見ればごく僅かなのだが、それでも看過することはできない」
「先生は、記憶は引継がれない方がいいと考えているんですね」
「ああ。これまでの研究で、記憶の引継ぎ及び引継想起が数件確認されている。引継想起とは引き継がれた記憶がレシピエント側で思い出される事だ。記憶の引継ぎと引継想起が起こる要因が何なのか、未だ特定に至っていない。それを特定するために我々は研究している」
「我々?」
俺から目を逸らした先生は、少し考えてから話を続けた。
「……私の師は今、海外にいるのでね。この研究は日本にいる幾つかの医療チームに引継がれている。私はそのうちの一つに属している」
俺はこのプロジェクトが予想以上に多くの医療関係者が関わっていることに戸惑いを隠せなかった。震える声で先生に訊ねる。
「……先生。この研究は安楽死とかヤバいことしてるじゃないですか。道徳的に大丈夫なんですか?」
先生は真っ直ぐな瞳で俺を見据えて返答した。
「……生命倫理の観点からは禁忌を犯している。医師の職責という点でもアウトだ」
「……っ。そこまでして、なんで……」
先生は一つ息をしてから、窓の外を淋しい顔つきで眺めた。
「一つは脳欠損症の胎児を救いたいからだ。そして、もう一つは生きていたくないと懇願する患者を救うためだ」
「……比目村は懇願したってことですね……」
胸がキュッと締まって、額には嫌な汗が滲んだ。先生はパソコンを見ながら、淡々と説明し始めた。
「ああ。比目村 学、男、当時14歳。全身に打撲痕、これは父親にやられたと言っていたそうだ。睡眠薬を大量に摂取した後、近所のマンションから飛び降り自殺を図り、病院へ救急搬送された。足と腰を粉砕骨折をしており、下半身不随の状態で目覚めた。目覚めた時の第一声は、なんで助けた、だったそうだよ」
「……っ」
「彼は自殺未遂で救急搬送されるのは2回目だった。1回目は首吊りをしている。彼から、死なせてくれ等の発言があり、強く死を望んでることと、今後も自殺を図る可能性が非常に高いこと。また、1回目の入院時に児童相談所等へ通報を行ったが、保護がなされなかったこと。これらの点を総合的に勘案した結果、プロジェクトの説明を行った。結果は喜んで参加するとのことだった。勿論、その時に記憶の引継ぎ等、リスクについて説明はしている。それでも良いとの返答を得て、プロジェクトの参加に至っている」
「……」
「あと、前回話していた悪夢についてだが、比目村君は惨めで生きていたくないと、しきりに言っていたそうだ」
「……そうですか。じゃあ、あの悪夢はやっぱり比目村のものだったんですね」
覚悟はしていたが、改めて比目村のものだと確定されると胸中に重苦しさが一気に広がった。
「君に比目村君の記憶が引継がれているのは残念だった。だが、このプロジェクトで行われる替生手術自体、成功率が低いものだ。手術自体もそうだし、移植後の免疫抑制剤等を用いた治療もリスクが高く、無事に出生できる確率は10%未満だ。生きて産まれてこられただけでも幸運だぞ」
「……」
「さて、話はこれくらいで、精密検査の説明に移らせてもらってもいいか?」
俺は俯いたまま、先生の顔を見られずに「はい」と答えた。
先生から聞いた精密検査の内容は、問診と、MRI検査と特殊な脳波測定器を頭にかぶるというものだった。これらの検査は、脳が正常に動いてるかとか、ちゃんと神経細胞のネットワークが出来ているかとかを調べるためにするらしい。
「じゃあ、早速問診からさせてもらうよ。最近変わったことはあった?」
「特にないです」
「前回話していた悪夢は、今も出てきてない?」
「はい」
いくつか質問された後、1階でMRI検査をするように言われて、クリアファイルを渡されて診察室を出た。
「やっと出てきた」
雄馬がクリアファイルをひらひらさせながら、待合の椅子から立ち上がった。
「遅ぇから迷子になってんじゃないかと思ったぜ。診察、大丈夫だったか?」
「まぁ」
「ああ、大丈夫じゃねえな。後で話聞いてやっから、とりあえず今はMRI行くぞ」
雄馬が俺の背中を掌でバンッと叩いて、歩みを促した。右隣に並んだ雄馬の髪は、屋内でも照明の光を受けて
「雄馬は脳波測定器つけてないけど、いいの?」
「あ~それは午後につけるから、大丈夫」
二つ並んだエレベーターの前に二人で立って、扉が開くのを待つ。左側のエレベーターの上のライトが光り、位置表示器の数字が1、2、3……と上がっていく。ポーンという音と共に、乗場ボタンの下向き三角がオレンジ色に光った。ゆっくり扉が開いていく。
下りてきた人物と目が合った瞬間、俺は驚愕した――――。
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