第8話 嫌な想像


 試験の前々日の夜10時、俺は数学のテキストを見返している時に猛烈な睡魔に襲われた。


「やべ、先に薬飲んでおくか」


 いつも就寝前に飲むひじの薬を今日は先に飲んでおくことにした。枕元に置いている白いビニール袋から薬を取り出し、口に放り込む。しばらく、机でスマホを眺めていると、目が冴えてきたので、勉強を再開した。2時間ほど経って、トイレに立った時に部屋がやけに汚いことが気になった。


「なんで、試験前って部屋の汚さが気になるんだろ」


 トイレから戻った俺は、眠い目をこすりながら部屋の掃除を始めていた。自分に呆れながら、転がったポテチ袋やら、ビニール袋を片っ端からゴミ箱に突っ込んでいく。あらかた綺麗になった頃には0時半を過ぎていた。

 そして翌日、俺は1限に遅刻した。


***


 いよいよ期末試験前日の夜になってしまった。最後の悪足掻きでもしますか、と勉強机に向かって、ふと、違和感を覚える。


「あれ? 薬の袋、どこだ?」


 心の臓から体温が抜けていく。


「え!? 嘘だろ!? あるよな?」


 枕をひっくり返し、布団をめくり、カーペットをめくったが、薬の入ったビニール袋は見つからなかった。空になったゴミ箱を見つめて頭を抱えた。


「はああ~」


 大きなため息と共に立ち上がり、階段を下りる。


「母さん」

「あら、新。勉強捗ってる?もう前日なんだから、ほどほどにしなさいね」

「あのさ、俺の部屋のゴミ箱の中身って捨てたよね?」

「え、ええ。今日燃えるゴミの日だもん。新がゴミ持ってこないから、部屋入って、朝、ゴミ出ししといたわよ」

「そのことでさ、ゴミ箱に薬の袋、入ってなかった?」

「は……はあ!? あんたっ、えぇ!? ゴミ箱の中に入ってたの!? ちょっともー何やってんのよー」

「か、母さんがちゃんと確認しといてくれよ! そのままゴミに出すんじゃなくてさ!」

「なーに言ってんのよ! 自分でゴミ箱入れちゃったんでしょ!? そこまで確認しないわよ~。あーもうこの子は~」


 ため息を連発しながら母さんは右に左にと数回うろうろした後、スマホでカレンダーを確認し始めた。


「……あんた、明日から試験でしょ?母さんが代わりに病院に薬取りに行きたいけど、今週はパート休めないのよね~。同僚の佐々木さんが夏休み取ってるから、人手が減ってるのよ。お父さんは出張で土曜まで帰ってこないし……」

「……」

「とりあえず、今日は気にしないで勉強して寝なさい。お母さん、ちょっと考えとくから」

「ごめん、母さん」


 俺は暗澹あんたんたる思いで自室に戻った。


 1日目の試験が終了した日の夜、パートから帰った母さんと話をした。母さんは会社の上司に事情を説明して、金曜日に有給休暇をもらえることになったという。また、病院に電話をかけた結果、母さんが金曜日に代理で薬を取りに行くことになったらしい。


「ありがとう、母さん」

「まったく。今度からは気を付けてよー。先生の話だと、もし肘の痛みや違和感が出たら、すぐに受診しなさいって」

「うん、わかったよ」

「本当は新が学校帰りにサッと受診しちゃうのがいいんだろうけど」

「……でも、試験結果って来年のクラス替えに響くって聞いたんだ。なるたけ良い成績取っておきたいよ」

「まぁ、そうよね。進学校だもんね。じゃ、気をつけながら金曜まで頑張りなさい」

「うん」


 気をつけろと言われても何に気をつけたらいいか分からなかったが、とにかく今は明日の試験に集中することにした。


***


 金曜の夕方、帰宅すると母さんがハンバーグを作っていた。


「試験お疲れ様。ほら、そこに貰ってきた薬あるわよ。さっさと飲んじゃいなさい。今度は捨てないでよ~?」

「ありがとう、母さん」

「あ、肘は大丈夫そう? 痛みとかない?」

「ないよ、大丈夫」

「良かった! テストはどうだった~?」


 ぼちぼちだったよ、と言いながら、薬を口に入れる。水と共に安心感と少しの違和感を喉に流し込んだ。


***


 期末試験が無事に終わった7月中旬、目前に迫った夏休みにクラスメイトは浮足立っていた。俺はというと、悪夢を3日に一回は見るようになっていた。その悪夢の内容は回数を重ねる毎に段々とハッキリしてきて、目覚めた後も覚えているようになった。その夢では誰かが黒い靄の中で、こう叫んでいるのが聞こえた。


―――惨めになんだよ……!!!―――


 その叫びを聞いた後、俺は決まって恐ろしさのあまり飛び起きる。額には汗が滲み、心臓が早鐘はやがねを打っている。何の夢なのか、何が惨めになるのかは分からない。何か恐ろしいことが起こる兆しのような気がして気味が悪い。曳谷のことを思い出すが、この叫び声は明らかに曳谷よりも幼い声に聞こえる。


「何なんだよ、これ。誰なんだよ、お前は」


 俺は、その得体の知れない何者かに向けて文句を言った。俺のぼやきは、近くを通った救急車のサイレンに虚しくかき消された。


 もう一つ、俺には気がかりなことがあった。それはひじのことだ。試験中、3日間も薬を飲み忘れたのに、痛みどころか、全く違和感を感じなかった。最初は、単に運が良かったと安心し喜んでいたが、試験が終わってから冷静に考えてみると、どうしても疑問を持ってしまう。

 それから、俺は嫌な想像ばかりが頭を浮かぶようになった。


(なんで俺の肘は痛みがなかったどころか、違和感すらなかったんだ。3日間も薬を飲んでなかったら、普通なんかしらの違和感って出るもんじゃないのか? だって、俺の病気は酷くなると、ペンも持てなくなる可能性があるんだろ? そんなやばい病気なのに……)


「いや、そもそも、俺。肘が痛かったことないぞ」


 冷たくなっていく唇を、震え始めた左手で押さえる。


「いや……いやいやいやいや。それは俺が毎日薬を飲んできたからだろ? だから、今まで痛みが出なかったんだ。きっとそうだ。うん。いつからか忘れたけど、小さい頃から飲んでるからな。そうだよ。だって国立の有名な病院だぞ。誤診とか……あり得ないって……」


 そうだ、そうだと呟きながら、俺はスマホのカレンダーを確認する。


「お、来週の金曜日、ブルードラゴンファンタジーの新作ゲームの配信日か。夏休み、初日だし。よし、やるぞー!」


 俺は自室で一人、不安を掻き消すようにテンションを上げながら、ナンテンドースイッチでゲームの購入手続き画面を開いた。


***


 7月20日、一学期終業式が終わった後の俺は、今日の夜やるゲームのことで頭がいっぱいだった。


「新! おい、新ってば」

「え? 何? 颯太?」

「何って……もう帰ろうぜ」

「え?」


 周りを見ると、教室には俺と颯太とゆかり、それに2~3人の生徒しかいなかった。


「え? 帰りのホームルームは?」

「そんなのとっくに終わったよ。どうしたんだよ、新。ボーっとして。そんなに通知書がショックだったのか?」

「そうなの? 新くん」

「え? あ、えっと」

「まぁ、落ち込んでたって、しょうがないんだからさ。帰ろうぜ。健は部活行くって言ってたからさ」

「あ、うん」



 その後、俺は確かに三人で帰ったはずなんだが、次に俺の脳が記憶しているはブルードラゴンファンタジーのスタート画面だった。


***


「ふぁぁあぁ」


 情けない声を出して背伸びをすると、カーテンの外が明るくなっていて、俺は思わず声を漏らした。


「うぇぇ……う、嘘だろ。朝になってんじゃん。」


 夜に「2時間くらいやって寝るか」と思って始めたのが、気づけば8時間。3つめの街のボスを倒したところだった。おもわず自己嫌悪に顔を歪める。

 セーブを書いてからゲーム機を棚に仕舞い、スマホの電源を入れると「8:12」と表示された。俺はしばらく落ち込んでから、気を取り直してリビングに向かった。


「あら、おはよう。新」

「あ。おはよ。牛乳ある?」

「あるわよ。はい」と母さんは冷蔵庫から牛乳を出して、手渡してくれた。

「ありがと」

「なんかあなた、すごいクマできてるけど、大丈夫?」

「あ~。ちょっとこの後寝ようかな」

「寝ようかなって、今日病院でしょ? 何時に出るつもりなの?」

 俺は牛乳を噴出した。


「あ、ちょっと何やってんのよ~」

「え、今日って病院だっけ?」

「そうよ~、定期健診の日じゃない。忘れちゃったの?」

「忘れてた! やべえ」

「うそ~! やだ、もう何やってんのよ、あんたは~」

 俺は即ベッドに潜り込んだが、結局3時間しか寝れずに家を出た。


***


 東橘病院、4階の診察室48番前で眠気と闘いながら待っていると、ようやく俺の番号がモニターに表示された。番号の書かれた受付票を握りしめて、フラフラとした足取りで診察室に入る。


「薬なくしたんだって? 症状が出なくて良かったけど、だめだよ。気を付けてね」


 式美先生に注意を受けた俺は、睡眠不足で気が立っていたこともあって、つい口答えをしてしまった。


「先生。本当の事、教えてください。俺、薬、3日も飲まなかったんですよ。でも痛みとか全然ないし、違和感だってなかったんですよ! なんか変じゃないですか? ホントにこの肘、病気なんですか? まさかとは思うけど誤診とか、そんなことないですよね?」


 俺は言いたいことを言ってから先生を見ると、先生は笑うでも怒るでもなくの顔をしていた。まるで能面のように表情の無いその顔は不気味で、俺は何も言えなくなってしまった。無言の時間がしばらく流れた後、ようやく先生は頬を緩めて話し始めた。


「症状が出なかったのは運が良かったよ。普通は痛みが出るから。薬はちゃんと飲み続けることが大切だから、これからは飲み忘れに気をつけてね。お大事に」

「・・・・・・はい」


 俺は気まずさから、下を向いたまま椅子から立ち上がった。退出しようと診察室の扉に手をかけたとき、背後から聞こえた先生の声が俺を呼び止めた。


「あ、ところで」

「はい?」


 振り向くと、先生は穏やかな微笑を湛えていた。


「最近変わったこと、あったかい?」


 一瞬悪夢を思い出したが、次の瞬間、ないですと言って診察室を後にした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る