第4話 その嘘は君のため
自室に戻った劉備は、静かに竹簡を開いた。
張飛には読めないと言ったが、嘘だ。一目見た時から劉備にはこれが何か分かった。余人の目に触れさせてはならないと思った。たとえ張飛でも、諸葛亮でも。
(玄ちゃん知ってたか。俺、玄ちゃんのことが好きだったんだよ。)
「知るわけがないだろう。」
不意打ちとはこのことだ。今になってこんな爆弾を投げられても、此岸と彼岸ではどうしようもないではないか。
(ただの幼馴染ってだけで、普通そんなことしないだろ。鈍すぎだろ。気づけよ。まあ気づかれても困るけど。)
「どうしろと言うのだ。」
(誰にも気づかれていないはずだ。だってこの憲和兄さんが、全力で隠しているんだぜ。簡単に尻尾掴まれるわけない。)
「くだらぬことに全力を使うな。もっと有意義なことに使え。馬鹿者。」
対話の相手はもういない。その姿は目の前にはっきりと浮かぶのに。もうあのお気楽な返しを聞くことはできない。
(ああ、でも、最後だからひとつだけ、嫌がらせしてやろうかな。俺の気持ちにてんで気づかなかった鈍すぎる玄ちゃんへの仕返しに。)
「落とし物かと思ったではないか。分かりにくいのだ、お前のやることは。」
(俺には玄ちゃんの知らない顔がたくさんある。俺は玄ちゃんのこと何でも知っているけどな。)
「酷い男だ。お前は最後まで親友の顔しか見せてくれなかったのに。」
劉備の知らない男の顔を、簡雍はいくつも持っていたのだろう。劉備に悟らせることはなかったけれど。
(いい人生だった。こんな楽しい人生なかった。玄ちゃんに会えて、玄ちゃんを好きになって、苦しいこともあったけど俺はとても…とても…)
劉備は竹簡に指をすべらせた。
乱れた文字は、死に際して、簡雍がようやく明かした本心だ。そしてその嘘すら自分の為ではなく、劉備のため。劉備を悩ませないため。
よく見ると、乱れた文字の間に赤褐色の血の染みがいくつもあった。
(俺は忘れないけど、玄ちゃんは忘れてもいいんだよ。)
(そういうものだからさ。)
竹簡を握りしめ、声を殺し、劉備は泣いた。
簡雍を看取った時と同じく、蝉が鳴いている。
あの時も。あの時も。自らの想いを押し殺し、簡雍はすべてを飲み込んでいたのか。桃園前夜の狂宴も、若き日の曹操との数々の交情も、諸葛亮と結んだ深い契りも。そればかりでなく、もう劉備自身も忘れてしまった若き日の幾多の交わりに至るまで、すべて。
若い頃の劉備は、荒くれ男たちの欲望の対象にされることが多かった。そんな自分が嫌で誰にも言わなかったが、簡雍は知っていたのだ。川で体を清めているところに出くわした時も、素知らぬ顔で笑い飛ばしてくれた。その存在にずっと癒されてきた。
簡雍はどんな思いで見守っていたのだろう。
動揺ひとつ見せず親友の顔をし続けるのは、並大抵のことではなかったはずだ。
好きな人はいないのか、と酔って聞いたことがある。俺は恋みたいな真面目なことはしないんだと言われた。何故か杯を持つ手がわずかに震えていた。あの時は分からなかった。今なら分かる。
「何故私に言わなかった。」
俺の気持ちなんてどうだっていいんだよ。
玄ちゃんは知らないままでいいんだよ。
きっとそう言って屈託なく笑うのだろう。何も求めず。何も奪わず。与えるだけ与えて。与えたことさえ悟らせないほど自然に。
開け放した窓から、湿った夏の風が流れてくる。
劉備の濡れた頬を、あたたかい風が吹き抜けた。涙を拭っていったその風を、簡雍の指のようだと劉備は思った。
――泣くなよ。
大地に満ちていた蝉の声はいつしか止んでいた。夏が終わりを告げていた。
その嘘は、君のため。
(了)
その嘘は君のため~簡雍の遺言~ 胡姫 @kitty-cat
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