第3話 嘘の中の真実

「失礼だが、伊籍どのに開けられるのか?俺は壊した方が早いと思うぞ。」


伊籍と一緒に屈んで書類を集めながら、張飛が言った。この男、見かけは怖そうだが根は優しい。意外にも文官贔屓なようで、文官にはおおむね好意的な態度をとる。その割には未だに諸葛亮を水野郎などと呼ぶので納得がいかない。


「軍師どのも苦戦しているみたいだし、なあ。」


「苦戦などしておりません。」


「しているじゃないか。」


「二人ともやめないか。」


やや険悪な空気になりそうなのを、劉備が間に入って宥めた。


「憲和の遺したものだ。私もできれば壊したくない。」


「壊してはなりません。」


伊籍がいつになく強い調子で言った。


「何故です。」


「それは…」


諸葛亮の問いを受けて伊籍が黙り込んだ。不思議に思ううちに劉備が箱を取り上げて伊籍に渡した。


「とにかくやってみよ。」


伊籍は頷いた。


諸葛亮は目を見張った。伊籍の指がするすると箱を解体していく。さほど器用そうにも見えない指がなめらかに動く。迷いなく、よどみなく。あるべきものをあるべき姿に戻すが如く自然な流れであった。まさしく「解体」と呼ぶべき技であった。


「できましたよ。」


劉備がほう、と感嘆の声を上げた。さほど時間はかかっていない。伊籍の手さばきが見事だったせいで、一連の動きは魔法のような印象すら受けた。


諸葛亮は目を見張った。箱と見えたものは…一枚の竹簡であった。




同時に、箱の中身がばさばさと落ちてきた。


「あ、」


伊籍が声を上げた。中に入っていたのは、大量の――




「春画かよ!!」


一瞬の沈黙ののち、張飛が呆れたように叫んだ。


それは春画、いわゆるエロ本と呼ばれる類の猥褻画の束であった。男なら誰しも覚えのある事であろうが、かほど大量に、しかも死後遺品として出てくるとは。さすが簡雍、遺品も想像をはるかに超えている。


「……」


男四人、しばし無言となった。


「憲和のやつ、どんなお宝かと思えば…信じらんねえ!」


我に返ったように張飛が吠えた。春画は簡雍選りすぐりと思しき逸品揃い、見ようによってはお宝と言えないこともない。しかしそういう問題ではない。


「馬鹿野郎、今までの苦労を返せ!」


「翼徳どのは特に苦労していないでしょう。」


「うるせえ!水野郎だって開けられなかったじゃないか。」


「あの…開けてしまってすみません…」


伊籍が身を縮めるようにして謝した。気の毒なほど恐縮している。開けるのではなかったと諸葛亮も思っていたところであったが、勿論伊籍のせいではない。


「貴方は何も悪くありませんよ。先ほどの解体、見事でした。」


「そうだな。まさか竹簡で出来ていたとは思わなかった。壊さなくてよかった。」


道理で構造がおかしいわけである。竹簡で出来た箱など聞いたことがない。張飛が言ったように壊してしまったら、ばらばらになって判読できなくなるところだった。劉備が張飛を睨むと、張飛は知らん顔をして虎髭をさすった。


劉備は竹簡を手に取った。びっしりと書かれた簡雍の字はかなり乱れている。


眺めていた劉備の顔がわずかに歪むのを、諸葛亮は見た。


「何て書いてあるんだ。」


しかし張飛が覗き込もうとすると、劉備は竹簡をくるくると巻いてしまった。


「ええ?俺にも見せてくれよ。」


「いや。文字が乱れていてさっぱり分からん。」


「何だよ憲和のやつ。最後まで締まらねえなあ。」


張飛はなおも諦めきれない様子で竹簡を覗こうとする。


「春画はどうする。まさか家族に返すわけにもいくまい。」


急に劉備は話題を変えた。張飛の関心をそらすためのように諸葛亮には思えた。


「あ、それなら、」


伊籍が手を上げた。


「私がお預かりいたします。保管庫に空きがありましたから。」


「これを保管庫に?」


「はい。資料として。」


何の資料だよ、と張飛が呆れ声で叫んだが、保管庫の管理は伊籍の任である。捨てるには忍びない劉備の意を汲んだ措置なのだろう。


――簡雍どのも厄介な遺品を残してくれたものだ。


「それにしても機伯、そなたにこのような特技があるとは知らなかった。」


劉備の言葉に、伊籍はふわりと微笑んだ。


「誰にでも、特技のひとつくらいあるものですよ。」


春画の束を小脇に抱え、伊籍は一礼して退出した。




「伊籍どの!」


回廊の途中で、諸葛亮は伊籍の後ろ姿を呼び止めた。


「伊籍どのは、あの箱の正体をご存じだったのではないですか?」


振り返った伊籍の顔に、驚きが広がった。諸葛亮は構わず続けた。


「簡雍どのに、箱の作り方を教えたのは、もしや…」


「…さすがは諸葛亮どの。見破られるとは思いませんでした。」


伊籍の気弱な顔に、嘘がばれた子供のような笑みが浮かんだ。


「はい、私です。」


諸葛亮は大きく息を吐いた。


「あれは恋文…なのですね。」


伊籍は否定も肯定もせず黙って微笑んでいる。それが答えだと諸葛亮は思った。


中庭に面した窓から蝉の鳴き声が聞こえる。あの日、降りしきる蝉の声の中を走っていった劉備の後ろ姿を思い出す。命を削るように鳴く蝉にかつての勢いはない。夏も終わりに近づいている。


「ですから壊してしまうわけにはいかなかったのです。…出過ぎたことをいたしました。」


「いいえ。」


竹簡を目にした劉備が動揺を見せた時から、そうではないかと思っていた。同時に、簡雍の秘めた想いにも気づいてしまった。


――簡雍どのは、殿を。


死ぬまでずっと隠していた。誰にも、諸葛亮にも気配すら悟らせることはなかった。何という精神力だろう。


「伊籍どのは、簡雍どのとお親しかったのですか。」


「親しいといいますか…」


伊籍はふっと遠い目をした。


「実は私、簡雍どのの勉学のお手伝いなどしておりまして。」


「勉学、ですか?」


諸葛亮は思わず聞き返した。


「あの方は大変な努力をなさっておいででした。」


「簡雍どのが?」


「はい。劉備殿について行かれるために、並々ならぬ努力を。」


伊籍は淡々と告げた。初耳だった。


「簡雍どのの書棚、春本が沢山あったでしょう。あれ、勉学の書物を隠していたんです。」


諸葛亮は驚きを隠せなかった。春本しか並んでいない書棚に、諸葛亮は眉を顰ひそめていたものだった。そんな秘密を隠していたとは夢にも思わなかった。


自分が簡雍にまるで注意を払ってこなかったことに、諸葛亮は今更ながら気がついた。


飄々としながら、難しい案件ほど巧みにこなしてみせた。お気楽な印象にそぐわぬ有能ぶりに驚かされたことも、一度や二度ではなかった。


「でも殿には絶対内緒だと仰っておいででした。殿の前では、昔と変わらぬ憲和兄さんでいたかったのでしょうね。」


――玄ちゃんに恥かかせるわけにはいかないからさ。


そんな声を聞いた気がした。


「死期を悟られた時、もう起き上がれぬほど弱っておいででしたが、最後の力を振り絞ってあの箱をお作りになりました。なのに大変分かりにくい隠し方をして…殿が見つけなければ、本当に闇に葬るおつもりだったようです。あの方らしい。」


「ですが殿は見つけて下さった。」


「はい。さすがは殿です。」


これが幼馴染の絆というものだろうか。少しだけ嫉妬を感じたのは、我ながら子供じみている。


「でも、こちらにはお気づきにならなかったようですね。」


伊籍は春画の束から、するりと一枚の紙を抜き出した。


「あの箱、何故あんなに春画を入れてあったと思います?これを隠すためです。」


それは春画ではなかった。


かなり古い。丁寧に扱わないと崩れてしまいそうなその紙には、人の顔らしき絵が描きなぐってあった。童子の筆によるものだろう。幼い手で描かれた似顔絵は、お世辞にも上手いとは言えない。


「下手でしょう。殿がお小さい頃、簡雍どのに描いて差し上げたものだそうです。」


「殿が、簡雍どのに?」


「ええ。宝物だと言って、幸せそうに笑っておいででした。」


諸葛亮の知らない、童子の頃の劉備と簡雍が浮かんだ。先ほど感じた嫉妬がまた頭をもたげた。


「これが簡雍どのの本心。簡雍どのがひた隠した、嘘の中の真実。…でも殿には伝えません。」


「何故です。」


「だって狡いじゃないですか、殿との思い出を沢山持っていて。…殿だって、すべてをお知りになる必要はありませんからね。」


言っておきますが悋気ではありませんよ、と伊籍は付け加えたが、これが悋気でなくて何であろうと諸葛亮は思った。


伊籍はふと目を伏せた。


「少しだけ羨ましいです。想いを伝えられて。」


え、と聞き返そうとしたときにはもう、伊籍は諸葛亮に背を向けていた。


「簡雍どのの想いの深さは、簡雍どのだけが知っていればよいと思いませんか。」


降るような蝉の声の中、伊籍は去っていった。




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