第2話 憲和の遺品
「殿、聞いておられますか?」
「…ああ。」
諸葛亮の何度目かの呼びかけに、劉備はようやく目を上げた。
心ここにあらずと言った風情である。
決済が必要な竹簡の束を置きながら、諸葛亮はため息をついた。
簡雍の葬儀が終わってひと月近くたつのに、劉備はいまだ魂が抜けたようだった。仕事だけは何とかこなしているがまるで熱がこもらず、普段の闊達さが消えて久しい。魂魄の一部を簡雍が持って行ってしまったのではないかと疑うほどだった。
――気持ちは分かるが、いつまでもこんな調子では困る。
簡雍が息を引き取る時、劉備は傍らで手を握っていたという。
病に伏してはいたが、明日をも知れぬというほど重篤ではなかった。諸葛亮も医者の手配をしていたから容体は把握しているつもりだった。それが突然急変したらしい。臨終には誰も間に合わなかった。劉備以外は。
あの日、劉備は突然思い立ったように「憲和に会ってくる」と言い出した。
ひどく暑い日だった。暑さに慣れたこの土地の者でも立ち眩みがするほどの猛暑で、諸葛亮はもう少し涼しい時間帯に訪問するよう勧めたが、劉備は聞かなかった。何かに急かされるように出ていく後ろ姿に奇異な印象を持ったものだ。虫の知らせといったものだったのだろうか。
果たしてその夕刻、簡雍は死んだ。
劉備と簡雍は楼桑村時代からの幼馴染だという。初対面の時から劉備にやけに慣れ慣れしい男だった。年齢は劉備よりも少し上だったが年相応の落ち着きがなく、お気楽そうな顔は軽薄な印象を受けた。劉備の親友なので仕方がないがどちらかと言えば苦手なタイプだと諸葛亮は思ったものだ。しかし劉備との間には、義兄弟の関羽張飛とも違う、濃密な親愛が流れているようだった。何せ子供の時からの付き合いだという。歳月の厚みが違う。
――私の知らない殿を知る者、か…
諸葛亮は自分と会う前の劉備を知らない。当然のことなのだがそれが時折諸葛亮に焦燥感を抱かせる。童子の頃の劉備がどんな風だったのか、諸葛亮は知りたかった。さぞかし可愛い子供だっただろう。今以上にやんちゃで危なっかしい魅力にあふれていたものか。あの不思議な魔性で大人の目を引き、危険な目に遭ったこともあったのでは…
それを簡雍はすべて知っているのだ。
一度酒の席で、さりげない風を装って聞いてみたことがあったが、いつの間にかきわどい冗談と下ネタで煙に巻かれてしまった。諸葛亮を煙に巻く簡雍という男、実に侮れない。
劉備が簡雍に見せる他と違う親密さは諸葛亮の心を波立たせた。さほど際立った才はない男だと思っていたが、肝心なところで妙な冴えを見せることがあり意外にも仕事は出来た。それも難しいと思われる案件ほど軽くこなしているように見えた。よく分からない男だった。劉備への過度な親愛と遠慮のなさはしばしば周囲の顰蹙を買ったが、簡雍自身の人柄なのかどこか憎めない。そんな男だった。…
ふと諸葛亮は、劉備の手に握られているものに気がついた。
「それは何です?」
劉備はああ、と生返事をした。
それは木目模様の美しい、簡素な箱だった。
「憲和の遺品だよ。」
劉備の言葉に諸葛亮は少なからず驚いた。
家主を失った簡雍の屋敷に、私物らしきものは何もなかった。箪たんすも抽斗ひきだしも拍子抜けするほど空っぽだった。死期を悟った簡雍が綺麗さっぱり処分してしまったものらしい。何も残さぬという強い意志を感じさせた。極楽とんぼに見えた簡雍がこれほどの潔さを隠していたとは意外であった。
なので劉備が手にしている箱が、ほとんど唯一の遺品ということになる。
「遺品があったとは知りませんでした。」
「ああ、あの日、枕元にこれが…」
あの日、と言った時、劉備は一瞬泣きそうな顔をした。
「…では、簡雍どのがこの世に置いて行かれた置き土産。」
「いや、置いて行ったのではなく落ちていた。」
「?」
「粗忽者のあいつのことだからうっかり落として、そのまま忘れていたのかもしれぬ。」
――置き土産ではなく、落とし物か。
劉備は大事そうに箱を撫でた。妬けますね、という言葉が出そうになり諸葛亮は軽く咳払いをした。死者に妬心をあらわすのはいかにも大人げない。諸葛亮は劉備に若輩者扱いされたくなかった。常日頃諸葛亮が大人びた振る舞いを心掛けているのは、劉備との年齢差を縮めたい思いがあるからかもしれない。
「だが開けられないのだ。」
「え?」
「蓋がない。底もない。どうやらからくり箱のようでね。」
「見せてもらえますか。」
諸葛亮が言うと、劉備は素直に箱を差し出した。
大きさは掌よりやや大きめくらい。ところどころ削りの荒い部分がある所からすると簡雍の手作りなのかもしれない。しかし作りには脆さがなく上下左右ともぴたりとはまっている。器用そうには見えなかったが人は見かけによらないものである。
箱をあらためる諸葛亮を見ながら、劉備が呟いた。
「何かひとつでもあいつを偲べるものがほしかったのに、何もなくて…なあ孔明、憲和はどうして何も残してくれなかったのだろう。」
「さあ、それは…」
それは諸葛亮も不思議に思ったことだった。
「私に知られたくないことがあったのだろうか。何でも話せる友だと思っていたのに、隠し事でもしていたのだろうか。」
劉備は諸葛亮の返事を期待しているわけではなさそうだった。
「私は憲和のことを、本当は何ひとつ知らなかったのではないか。そんな気がして…」
――二人の間のことだ。立ち入ってはいけない。
諸葛亮はちくりと兆した苛立ちを抑え、曖昧な相槌を打ちながら箱を調べた。中に空洞がある。何か入っている。
「壊すしかないんじゃないか。」
不意に野太い声が降ってきた。
「うわっ」
劉備が声を上げた。いつの間に入ってきたのか、張飛が大柄な体を曲げて箱を覗き込んでいた。
「翼徳、驚かさないでくれ。」
「ちゃんと声をかけたぞ。聞こえなかったのかよ。」
「ええ、全く。」
諸葛亮が上の空で答えると張飛は何だとこの水野郎とか何とか言ったようだったが箱に集中したい諸葛亮はそれを無視した。
見れば見るほど構造がおかしい。内側に無数の隙間があり、その上から薄い木片を貼り合わせて木製の箱に見せかけている。つまりこれは木製ではない。では素材は何なのか。こんな箱は見たことがない。
そもそもこれは本当に簡雍が処分し忘れた物なのか。他には何ひとつ残さなかった簡雍が。普段のずぼらさを見ていれば彼らしいと思うところだが、どこか引っかかる。
蓋のない箱など箱とは言えない。簡雍は何故こんなものを作ったのか。何のために。誰のために。
――この箱は一体。
「ああ、見てるだけで苛々する。さっさと壊そうぜ。」
堪忍袋の緒が切れたように、張飛が大声を上げた。
「しかし、憲和の唯一の遺品なのだぞ。あいつの手作りだと思うと、壊してしまうのは何とも…」
「知るかよ。何か入っているならぶっ壊してこじ開けるまでだ!」
「乱暴なことを言うな。」
「あの…」
劉備と張飛の応酬の隙間を縫って、蚊の鳴くような声がした。
諸葛亮が箱から目を上げると、竹簡の山が所在なげに立っている。顔が見えない。
「私、こういうもの得意なのですが…よろしかったら…」
竹簡の山は恐る恐るといった様子で諸葛亮に声をかけた。諸葛亮は眉根を寄せた。声に聞き覚えはあるのだが、驚異的な記憶力を誇る諸葛亮が、声の主を思い出せない。
――誰だ。
諸葛亮が記憶をたどっていると、横から劉備が言った。
「とりあえずその書類を置きなさい。」
「あ、はい。そうですね。」
竹簡の山が文机の上にどさっと置かれた。が、置き方が甘かったのか、手が離れた途端それらは雪崩を打って床にばらまかれた。
「ああ。またか。」
劉備がのんびりと言った。慌てて竹簡を拾い始めた文官を見て、今気づいたといった風で張飛が言った。
「あ、伊籍どの。」
――そうだ、伊籍どの。
諸葛亮は思わず声を上げた。伊籍、字は機伯。有能だがなぜか影の薄い、劉備お気に入りの文官の一人が汗だくになって竹簡を拾い集めているのを見て、諸葛亮もようやく声の主を思い出した。
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