第3話
次に祖母宅を訪れたのは年明け、正月休みのことだった。
多雪の地方ではないけれど、定期的に雪かきをしなければ埋もれてしまう程度には積もってしまう場所だった。今度は正月休みの業者の代わりに屋根の雪おろしをするという名目で、僕は白く染まった田圃の合間を歩いて行った。
バスの中で長靴に履き替えているとき、向かいに座っていた高校生らしき女の子にくすりと笑われた。その子自身も長靴だというのに何だか少し理不尽だった。
もうあぜ道に彼岸花の気配は欠片も無い。よく見れば花冠を失った茎がいくつか突っ立っているのが見えるけれど、もう少しでも降れば雪に埋もれてしまうのは明らかだった。
雪かき――このあたりで言うところの雪寄せのろくに行われていないあぜ道を、まるで雪中行軍のごとく進む。遠回りになるがちゃんとした道路を行けば良かったと後悔しながら、どうにか僕は祖母の家に辿り着いた。
着いて早々、半天を羽織ってぬくぬくとした祖母に言われたのが、この言葉だった。
「お隣の雪寄せやってこい」
お年玉の催促は流石にするつもりもなかったが、せめて年始の挨拶くらいはさせて欲しかった。が、祖母の目にはどこか深刻そうな光があり、結局僕は玄関に荷物を投げ打ってから腰を下ろす暇も無く隣家へと向かわされた。
そして、庭を出て回り込んだ僕は、すぐにその理由を悟る。
隣はちょっとした雪の城になっていた。
門から玄関までは辛うじて通れるよう溝ができているが、そのほかは完全にほったらかしだった。屋根にこんもりと積もった雪が、今にも家を押しつぶしそうになっている。特に酷いのが納屋で、いつ瓦解してもおかしくないという程雪に圧迫されている。
僕は急いで玄関に向かい、チャイムを押した。
磨り硝子の向こうにほっそりした人影が現れたのは、随分後だった。
セーター姿のみのりさんに、僕が雪おろしの重要性を説こうとすると、しかし彼女は僕の手を掴んで家の中に引きずり込んだ。
「ちょっと、このままじゃアトリエが潰れちゃいますよ」
「……いいよ、別に。こっち来て」
その声に張りは無かった。顔色も悪く、目の輝きも薄い。
みのりさんは有無を言わさず僕を自室まで引っ張ってきた。
そこは近代的な、普通の女の人の部屋だった。柔らかい内装の中、デュアルモニタを備えた立派なパソコンが鎮座している。見たところA3スキャナにカラープリンタに液晶ペンタブまであった。奥の本棚にはPC関連の技術書と、デザインに関しての参考書がずらりと並んでいる。
それは、ただの、普通の、どこにでもある部屋だった。現実的で、夢のないただの部屋だった。
ラグの上に座った僕に、みのりさんはもたれかかってきた。
「ねえ、圭一君。就職決まった?」
「ええ、一応内々定は」
「じゃあ、私の負けだ。ご褒美あげる」
「みのりさん……」
僕はその一言で、何があったかを痛いほど悟る。
みのりさんは、夢をかけたコンクールで落選してしまったのだろう。
背にかかる重みが次第に増していく。ダウンジャケット越しに、柔らかい感触が僕の背を圧迫する。おんぶのように首に手を回してきたみのりさんは、切なげな吐息を耳元で吐き出した。僕の背筋に、ぞくぞくした何かが走っていく。
「ねえ、圭一君。私さ、パートでデザインの仕事やるからさ、君のとこに永久就職していい? ご飯もそこそこ美味しいの作れるしさ。相性は――今から確かめてよ」
みのりさんのしなやかな指が顎から首に流れ、やがてダウンジャケットのファスナーをするすると下ろしていく。柔らかい唇が首筋に触れる。
もう、我慢できなかった。
僕はがばりと振り向き、みのりさんの細い両肩を掴む。
そして、黒く潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。
「雪下ろし、しますよ」
◆
「プロとアマのほんのちょっとした一線を越えただけでえらっそうに創作論を一説ぶつようになる奴なんて最低だ、嫌いだ」
ぼとり。
「何が、君の絵には主題が足りない、よ。ちゃんと描いてあったっつの。てめーの節穴には見えてなかっただけだっての」
ぼとぼと、どすん。
「このまま出しても思うような結果は出ないだろうなんて言いやがってさ、きっと私の才能に嫉妬してたんだよ、あれは」
ざざざざ。
「審査員も教師も、どいつもこいつも、大ッ嫌いだあ!」
どおん。
みのりさんの叫びとともに、最後の塊が屋根から滑り落ちた。
格闘技の勝者のごとく、腰に手を当てて納屋の上に仁王立ちするみのりさん。僕はそれを見上げながら、笑った。そして脚立を支え、降りて来た彼女を迎える。
「あーーーすっきりした!」
「でしょう」
地面に降り立ったみのりさんは、晴れ晴れとした顔をしていた。
汗をかいて上気した頬は、先程までとは見違えるほど、溌剌として美しかった。
「ありがとう、圭一君」
みのりさんは僕の胸に倒れ込むように頭を押しつけてきた。毛糸の帽子のぼんぼんが邪魔だったが、僕は甘んじてそれを受け入れる。
「私ね、デザインの仕事の方で結構すんなり受かっちゃったからさ、こっちも同じノリでできるもんだと思ってた。けど甘いね。この雪が全部砂糖でも足りないってくらい甘かった」
そして駄々をこねる幼子のごとく、頭をぐりぐりと動かす。
「とりあえず描けば、誰かが私の才能を見抜いて褒めてくれると思ってた。誰かに見つけて貰うことを期待しすぎてた。でも、それじゃあ駄目なんだよね。待ってるだけで迎えにきてくれる王子様なんていないんだ。誰もを唸らせるくらいのを描かないといけなかったんだ」
「みのりさん……」
「私、描くよ。また描いて、今度こそ賞を獲る」
顔を上げた彼女は、強い顔で僕を見上げてきた。僕はしっかりと頷いて見せる。
「うん、応援します。けど、その前に」
「ん?」
きょとんとしたみのりさんの背をそっと支えながら、僕は顎で背後を指した。
「母屋の雪下ろしですね」
「ぷっ」
みのりさんは噴き出した。そのはずみで目尻に溜まっていた涙がこぼれ落ちた。
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