第2話
彼女の名は夏目みのりと言った。24歳で、いろんなデザインをして生計を立てている傍らで水彩画を描いているらしい。
家よりもアトリエに居ることが長いから、こっちの方が綺麗なんだ――そう言われ、僕は彼女のアトリエという名の納屋に招かれた。
かつては農機具を置いていたのであろうそこは、今はすっかり埃っけの無い部屋になっていた。コンクリート打ちっ放しの地面の上に、椅子や机、それに沢山の絵の具と紙が散らばっている。油絵具の臭いなど全くしないそこで、僕は彼女の作品と向き合った。
白い画用紙の上に淡い色彩が乗っている。描かれているのはこのあたりの風景や作物が多い。芸術方面に関しては完全に門外漢な僕には、どれも素晴らしい出来に見えた。
みのりさんは自己紹介をした僕にほうじ茶を出した後、僕が渡したりんごをカゴに載せ、机の上で何やら角度を調整している。
「圭一君は学生?」
「はい、これから就活です」
「ああ大変だね。私も昔ちょっとやったけど、まず座るときに膝をぴったり揃えるのからして面倒。男の子だと足を開く大きさとかも気を付けないとだよね」
「ですね……」
やがてレイアウトに満足したのか、みのりさんはやがて僕の隣に座り、横に置いてあったスケッチブックを開いた。そして鉛筆を取り、机を見やりながら撫でるように手を動かす。
あっという間に、そこに見たままの光景が広がっていった。カゴに載せた立体のりんごが、写真でも撮ったかのように平面で再現されていく。
僕が感心してそれを眺めているのに気付いたみのりさんは、顔を上げて微笑んだ。
「こ、こんなところだと嫁さんに来い来いって煩くないですか、周りの家から」
誤魔化すようにそう言うと、彼女は芯がやたらと長い鉛筆を指先で弄びながら、虚空を見上げた。
「そうでもないよ。若い人達はみんな町の方に行っちゃってるし、そっちで結婚して戻って来ないみたいだから、みんな諦めてる感じだね。たまに野菜とか果物を持ってきてくれたり世間話をしてくれるけど、それ以上踏み込んでは来ない。いい意味で余所者扱いしてもらってるよ」
「そうですか……」
「ちょっと失礼だけど、この、世代が若返らずにただ建物も木も人も同じように歳を取って滅びに向かってる感じが好きなんだ。その中で四季だけが鮮やかに移ろっていくのを見てると、凄く絵心を刺激されちゃう」
「そういうもんなんですか」
「そういうもんなんですよ」
スケッチを終えたみのりさんはにっこりと笑う。
手元にはすっかりできあがったりんごの静物画があった。
◆
帰宅後、僕が逗留する日を延ばすつもりだと告げると、祖母はまるで鬼の首を取ったかのような得意げな顔をした。
あの顔を見たのは水を飲みすぎて注意されたにも関わらず夜におねしょをした十五年前以来だった。
僕がみのりさんに興味を持ったことで、ご近所の皆が遠慮しているであろう『嫁に来い攻撃』を祖母が始めかねないので、僕はくれぐれもそういうつもりではないし、もしそうだとしても自分でどうにかするからこれ以上気を遣うのはやめてくれと言い含めた。
が、逆効果だった。祖母はことあるごとに僕に農作物を預けて隣家への用事を言いつけてきたのだ。
それから一週間、僕は休みの後半に控えていた飲み会だのコンパだのの予定をキャンセルし、祖母の家で力仕事などを請け負う合間にみのりさんのアトリエを訪ねた。
芸術に疎い僕にできることといえば力仕事と話相手になることくらいだったが、みのりさんはいつも僕を歓迎してくれた。余所者扱いが心地よいけど、やっぱり少し寂しかったんだ。そう言われ、僕は何だかすっかり浮かれてしまった。
日を経るうち、いつの間にか、アトリエの中に僕の居場所が出来ていた。隅っこの椅子でみのりさんの後ろ姿を眺めるのが、僕の仕事になっていた。
みのりさんはスケッチのときは髪を下ろしているが、いざ水彩画に取りかかるときは髪を一つにまとめる。
やる気を出すべくきゅっとリボン代わりのバンダナを結ぶみのりさんは、とても綺麗だった。僕はそれをじっと眺めていた。
「今度ね、コンクールに出そうと思ってるんだ」
イーゼルに立てたキャンパスに塗りたくっていく油絵と違い、ほとんど寝かせた台に貼り付けた画用紙に、みのりさんはそっと筆をなでつけていく。
描いているのは近くの水田の、夕景だった。宵闇と夕空がせめぎ合う難しい色合いを、みのりさんは慎重に絵の具で染めていく。筆洗の中に筆を突っ込んでかたかたと揺らす音だけが時折響いていた。
「ほんとはさ、絵の仕事をしていこうと思ってた。けど、筆一本で生きる自信が無いからデザインの資格取って仕事請け負うようになってさ。それなりに食べて行けそうだったけど、何だかそれで満足しちゃいそうで恐かったから、他に気が散らないここで一念発起してみようって思ったんだ」
みのりさんは家の方にパソコンを置いてデザインの仕事をしているらしい。完全にアナログなこの空間からは想像できないが、全てデジタルのデータでやり取りをしているとか。
「コンクール、入賞できるといいですね」
「うん」
そして、時間が来た。
今日は僕が家に帰る日だった。出立の時間までは祖母と一緒にゆっくりするつもりが、結局追いやられてしまってここで時間を潰していたのだ。
僕がその旨を告げながら立ち上がると、みのりさんは手を止めて僕に向き直った。
「圭一君も、就職できるといいね」
「じゃあ、勝負ですね」
「勝った方が負けた方におごるってことでどうかな」
僕は笑いながら頷く。そして壁紙のごとく壁面いっぱいに貼り出されているみのりさんの作品をぐるりと見回した。
「きっと受賞しますよ。僕と見えてる世界が違うみたいだ。こんな絵僕には絶対描けない」
すると、みのりさんは一歩を踏み出した。そして少し悪戯っぽい目を、僕に向けてきた。その距離、約30センチ。
「圭一君の目には、私はどう映ってる?」
「どうって……すごく、き、綺麗ですけど」
胸が高鳴るのを悟られないようにしながら、僕がしどろもどろで答えると、みのりさんはにんまりと笑った。
「じゃあ、それでいいんだよ」
「そういうもんです、か……?」
「そういうもんです」
言いながら、みのりさんはつま先立ちで背伸びをした――
◆
アトリエを後にし、祖母にも挨拶を済ませた僕は、頬に残る柔らかくて温かくてとにかく頭がおかしくなりそうなほど嬉しいその感触を何度も思い出しスキップしそうになりながら、バス停までの長い道のりを歩いた。
風に揺れる彼岸花と稲穂が、まるで僕を応援してくれているようだった。
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